稲荷神から伊織へ加護を授けることを了承された玉城は一旦座敷を出て詰所に戻った。そして医務室にいる徨葵に稲荷神から加護を授けてもらうことになったと告げる。徨葵も稲荷神とは面識があるようで、すぐにでも医務室へとのことだった。本来なら伊織を連れてくるべきなのだろうが、体の衰弱が激しく動かせないとの紅の見立てだった。

 稲荷神に医務室まで足を運んでほしいと願うと、稲荷神は嫌な顔をせずに了承してくれた。

 他の客が不審に思わないようにさりげなく、見送りの形をとって玄関まで行き、そこから医務室に向かった。


 医務室では変わらず徨葵が伊織のそばにいた。だが、やはりそばにいるのは辛いのか消耗している様子が見てとれた。

 稲荷神の来訪に紅は部屋の隅まで下がって平伏する。だが、徨葵はちらりと目を向けただけだった。

「久しいな徨葵。息災で何よりだ」

「そちらもな」

素っ気ない態度に稲荷神が楽しげに笑う。徨葵は溜め息をつくと椅子から立ち上がった。

「この子に加護を与えてくれるそうだな。感謝申し上げる」

「礼など良い。我はこの子を気に入っている。そなたと雪音の子であるし、玉城の番であるからな。ふたりのややこを見るのが楽しみなのだ」

「暇なことだ」

玉城を驚かせた言葉にも徨葵は動じず呆れたような言葉を返す。稲荷神は笑みを深めると伊織のそばに立った。

「ずいぶん消耗している。可哀想に。しばらくそなたと軽口を交わすこともできなくなるな。次目覚めるときは孫ができているやもしれぬぞ?」

稲荷神はそう言うと徨葵の肩に軽く触れ、そして眠る伊織の額に口づけをした。その瞬間、伊織に神の加護が授けられた。

「これで良い。次はそなたの番だぞ?」

その言葉に徨葵がうなずく。徨葵はそっと伊織の手を握り、額に額をくっつけた。


 伊織は暗闇の中を歩いていた。光が全くない闇。上も下も、右も左もわからず、ただ闇が広がる世界を当てもなく歩き続けていた。

『…こっちよ』

裸足の足は爪が割れ、皮が剥けて痛み、疲れ果てては転び、それでも立ち上がって歩いていた伊織の耳に、懐かしい声がかすかに聞こえた。

『こっち。こっちにいらっしゃい』

声はしだいにはっきり聞こえるようになり、伊織は疲れも痛みも忘れて夢中になって声が聞こえるほうに走った。

「お母さんっ!」

叫んだ瞬間、闇しかなかった世界に光が広がる。真っ白な世界に、亡き母が両手を広げて立っていた。たまらず母の胸に飛び込むと、母は優しく抱き締めてくれた。

『伊織。大きくなったわね』

「お母さん、お母さん…っ!」

子どものように泣きながらしがみつく伊織を抱き締める母の腕は温かかった。

「お母さんがいるっとことは、私は死んだんですね」

少し落ち着いた伊織が悲しげに言うと、母は小さく微笑んで首を振った。

『いいえ、あなたはまだ死んではいないわ。あなたにはまだやるべきことがある。守るべきものがある。それに、待っていてくれる人がいるのでしょう?』

母の言葉に伊織はハッとしてうなずいた。湯屋を守らなければならない。家族とも言うべき従業員が、通ってくださるお客さまが、そして最愛の番である玉城が待っている。死んでなどいられない。

『お父さんが道を示してくれるわ。お父さんと一緒に帰りなさい』

「え?」

そう言って母が後ろを指差す。伊織が振り向くと、そこには父徨葵が立っていた。

「お父さん、どうして…」

「子を守るのは親の役目だろう?」

穏やかに微笑んで手を差し出す徨葵。困惑して動けずにいる伊織の背を、母雪音がそっと押した。

『行きなさい。あなたを待っている人たちのところへ。お母さんはいつでもあなたの幸せを願っているわ』

「うん。ありがとう、お母さん」

伊織は母に礼を言うと父の手を取った。その瞬間、目の前がパッと光り輝き視界が真っ白になる。握った父の手にグッと引っ張りあげられるような感覚に伊織は身を任せた。


 伊織が重い目蓋をゆっくり開けると、電気の明かりが視界に飛び込んできて眩しかった。咄嗟に目を閉じると、顔に影がかかったことに気づいた。

「伊織?気がついたか?」

「たま、き…」

愛しい番の声に再び目を開ける。そこにはホッとした表情を浮かべる玉城の顔があった。

「ああ、良かった…」

「玉城…私はいったい…」

目覚めるまでのことが曖昧で、体を起こそうと動いたとき、左手を誰かに握られていることに気づいた。視線を動かすと、手を握っていたのは徨葵だったが、徨葵はベッドに伏して目を閉じていた。

「お父さん?」

ぞくりとしたものを感じて伊織が呼び掛けるが、徨葵が反応することはなかった。

「伊織、まずは落ち着きなさい」

そう声をかけたのは稲荷神だった。

「稲荷神さま?なぜこのようなところに?」

混乱する伊織に玉城は蘆谷道満が去ってからのことを話した。そして稲荷神が加護を与えてくれたこと、徨葵は伊織を助けるために自らの力を分け与えたことを話した。

「では、お父さんは…」

「安心しろ。死にはせぬ。力が回復するまで眠りにつくだけだ」

「それは、どれくらいになるのでしょうか?」

震える声で尋ねる伊織に稲荷神は「100年か200年」と言った。

「人の世では長いかもしれぬが、妖ならば一時の間だ。そなたは玉城の番。いづれ人としての生を外れて妖としての生を歩む。さすれば200年などあっという間よ」

そう言って微笑む稲荷神に伊織はうなずいて礼を言った。

「私などのためにお力をお貸しくださってありがとうございました」

「なに、気にするな。我はそなたを気に入っている。玉城にも言ったがな。早くそなたと玉城のややこを見たいのだ。そなたが死んではその楽しみがなくなってしまうからな」

稲荷神は楽しみだと言って笑うと伊織の頭と優しく撫で、後ろに控える金孤に「そろそろ帰るぞ」と声をかけた。

「見送りはいらぬ。養生して早く元気になるが良い」

そう言って稲荷神は金孤と共に帰っていった。

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