東吾が湯屋「憩い湯」で働き始めて1週間。試用期間はあっという間に過ぎた。

 試用期間最終日の夜、東吾は伊織に呼ばれて伊織の執務室を訪れた。

「試用期間お疲れさまでした。働いてみてどうでしたか?」

「皆さんにとてもよくしてもらいました。できればもっと働かせてもらいたいです」

東吾の言葉に伊織はにこりと笑った。

「佳純さんと翔くんからもあなたはよく働いてくれたと報告がきています。私としてもあなたにはこれからも働いていただきたいので、本採用したいと思います」

伊織の言葉に東吾は嬉しそうに笑って頭を下げた。

「ありがとうございます!」

「ただ、本採用となってもあなたに働いてもらうのは壱号館のみとなります。よろしいですか?」

翔から壱号館以外でも働いてみたいと言っていたと聞いていた伊織が尋ねると、東吾は残念そうな顔をしながらうなずいた。

「かまいません。でも、理由を聞いてもいいですか?」

「ええ、もちろんです。ここで働いていただくからには、ここのお客さまのこともしっかりお話しなければなりませんから」

伊織はそう言って笑うと左手で己の右側を指し示した。

「ここに、何が見えますか?」

「え?」

伊織が何を言っているかわからず東吾が首を傾げる。伊織はそれが見えないから壱号館でしか働けないと言った。

「ここはお客さまによってご案内する館が違います。人間のお客さまは壱号館。人間ではない、妖などと呼ばれるお客さまが弐号館。そして、参号館には神様がいらっしゃいます」

「は?」

にわかには信じられない話に東吾が目を丸くする。伊織が冗談を言うようには見えなかったが、今までお化けや霊感とは無縁だった東吾には信じがたい話だった。

「急に言われても信じられませんよね」

「えっと、とりあえず、伊織さんの隣に誰かいるんですか?」

東吾の問いに伊織はにこりと笑って「玉城」と呼んだ。途端に伊織の隣に白い襦袢に紺の袴、赤地に金の牡丹の模様の着物を羽織った男が現れた。男の頭には白い狐の耳の背後では白いふさふさとしと九つの尻尾が揺れていた。

「ひゃっ!」

驚いた東吾の口からすっとんきょうな声が上がる。狐の男は手にした煙管を燻らせながらニヤリと笑った。

「彼は玉城。九尾の狐です。ちなみに、彼はずっと私のそばにいましたよ」

「お前が初めてここに来たときもいたぜ?」

玉城と呼ばれた狐の男がそう言って笑う。東吾はあまりの出来事に声も出なかった。

「弐号館や参号館にいらっしゃる方々は玉城のように本来普通の人間には見えない方々です。ですので、見えないあなたには壱号館で働いていただくことになります。ご理解いただけますか?」

「…はい」

なんとか返事だけした東吾に玉城はクスクスと笑った。

「お前、ここに来たときずいぶん運が悪いように言っていたが、ここにきてからはどうだ?」

「え?あ、そういえば、何もないかも…」

玉城に問われてやっと頭が動き出した東吾がそういえばここにきてからは小さなミスもしていないと思い出す。玉城は「そうだろうな」と言って笑った。

「ここには結界が張ってある。悪さをするものは入ってこられない」

「えっと、つまり?」

「仕事中の小さなミスやアパートの火事はあなたの不注意でも偶然でもないということですね」

首を傾げた東吾に伊織が言う。東吾はその言葉に背筋がゾクッとした。

「お前を羨むものがいるんじゃないか?」

「羨むもの?俺、別に人から羨ましがられることなんて…」

玉城の言葉にそう言った東吾は「あっ!」と言葉を切った。

「心当たりがあるか?」

「前にホテルで長くバイトしてたときにそのまま正職で雇ってくれるって話があって、その時のバイト仲間がひとり、やたら羨ましいって絡んできたんです。でもその後からミスが続いて、結局正職どころかバイトもクビになりました」

「それだな。人の念とは恐ろしい。いわば生き霊だな」

玉城は紫煙を燻らせながら言うと左手の人差し指で東吾の額に触れた。その瞬間、一気に肩が軽くなった。

「あれ?」

「体が軽くなったろう?お前を羨むものとの縁を切った。これで変な不幸が続くことはあるまいよ」

玉城はそう言うと煙管の火を灰吹にカンと落とした。

「ありがとうございます」

まだ信じられないという顔をしながら礼を言う東吾に伊織は契約書を差し出した。

「これが契約書になります。内容の確認して署名、捺印をお願いします。お休みはシフト制になりますが週休2日となっています。各種保険、有給なども使えますから、前日までに佳純さんに申告してくださいね」

「わかりました」

「それからな。こいつは俺の番だから手を出すなよ?」

「わかりまし…はいっ!?」

契約書を読みながら返事をしていた東吾はガバッと顔を上げた。視線の先では伊織が額を押さえて溜め息をつき、玉城がニヤニヤと笑っていた。

「えっと、番、って?」

「お前には伴侶と言ったほうがわかりやすいか?」

からかうように玉城が言うと、意味を理解した東吾の顔がボンッと真っ赤になった。

「ははは!素直な奴だ!」

「玉城、あまりからかうものではありませんよ。東吾さん、大丈夫ですか?」

「は、はい…」

赤くなりながらもうなずいた東吾は顔の熱を逃がすように手で扇いだ。

「では、明日から本採用ということでお願いします」

「わかりました。これからよろしくお願いします」

東吾が丁寧に頭を下げると、伊織は「こちらこそ」と言って微笑んだ。


 東吾が退室すると伊織は東吾の履歴書を従業員のファイルに挟んだ。

「壱号館はちょうど人手がほしかったところだし、探す手間が省けてよかったな」

「ええ。壱号館専属の人はなかなかいませんから」

伊織はうなずくと手招きされるままに玉城のそばに座った。玉城がその肩を抱き寄せてこめかみに口づけると伊織はくすぐったそうに笑った。

「あれの悪縁は全て切っておいた。悪さをするようなものは寄ってこんだろう」

「ありがとうございます」

口の悪さとは裏腹に意外と面倒見が良く世話焼きの玉城に伊織はクスクスと笑った。

「彼には少しでも長く働いてほしいですね」

伊織の呟きには答えず、玉城は労るようにその艶やかな黒髪を撫でた。

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