④
惶葵はその後、2日ほど憩い湯に滞在して屋敷に帰っていった。本当は何か動きがあるまで滞在したかったようだが、訪れる客が惶葵の強すぎる気配に警戒するため早々に帰ることにしたようだった。それでも蘆谷道満について調べてみると言ってくれた。何かあったらすぐに知らせろとも。
「父君はもっとここにいたかったろうにな」
「そうですね。私たちの結界の外側にご自分の結界を張って、何かあればすぐに知らせるようにと何度も念押しされてましたね」
惶葵が帰ると言ったときは古参の従業員たちも皆残念そうにしていた。惶葵が玉城のように湯屋の経営に関わったことはないが、常に雪音に寄り添い、伊織が生まれてからは忙しい雪音に代わって子育てをする様子を見てきた古参たちにとって、惶葵は恐ろしい鬼というよりは良き夫であり優しい父であるという印象のほうが強かった。
「本当なら、このまま何もないほうがいいのでしょうが」
「相手が蘆谷道満となると、そうもいかんだろうな」
伊織の言葉に玉城が険しい表情で言う。伊織はうなずくと壱号館の予約表を眺めた。
壱号館の客は普通の人間。もし何かあったとき、最も非力で、最も狙われやすいと思われた。
「壱号館をしばらく閉めることも検討しなくてはいけないかもしれませんね」
「まあ、建物の改修など、名目はいくらでもありそうだがな」
「それはそうなんですけど…」
玉城の言葉に伊織は苦笑した。確かに壱号館の老朽化は激しかった。弐号館や参号館は客が壊すということが度々あったため、その都度古い箇所も一緒に改修していたが、客が大きく壊すことがほとんどない壱号館はなかなか大きな改修ができずにいた。
「これを良い機会と思って、思いきって閉めて改修するのもありでしょうか」
「俺はありだと思うが、壱号館でしか働けない者たちはその間手持ち無沙汰だろうな」
「そうですね。ここに住み込みの方が多いですし」
伊織はそう言うと顎に指を当てて考え込んだ。
壱号館の従業員のうち、半数以上は弐号館や参号館でも働ける。だが、その他は妖を見ることができないため、壱号館でしか働くことができない者たちだ。壱号館を閉めている間、変わらず給料を出すことはできるが、手持ち無沙汰になる者が出るだろうことは容易に想像できた。
「店が開く前に弐号館や参号館の掃除をしてもらいましょうか」
「それもいいだろうな。あとは、これを機に資格を取りたい者は勉強するのもいいんじゃないか?仕事をしながら勉強というのはなかなか難しいだろうからな」
憩い湯で働く者の中には将来は資格を取って別の仕事に就きたいと願う者もいる。そういう者には勉強する時間を与えてもいいのではないかと言う玉城に伊織はにこりと笑ってうなずいた。
「ではそうしましょう。今月はお泊まりの予約が入ってしまっているので、新規の予約は受け付けず、来月から壱号館をしばらく閉めます。業者もいれて改修もしてしまいしょう」
一時的に閉めることは悪いことばかりではない。自分にそう言い聞かせて伊織は立ち上がった。
「早速壱号館に行ってきます。佳純さんの意見も聞かないといけませんし」
「わかった。俺は帳簿のほうを片付けておく」
玉城の言葉に「お願いします」とうなずいて伊織は執務室をあとにした。
「蘆谷道満か。厄介なものが動き出したものだ」
ひとりになった玉城が忌々しげに呟く。自分は直接目にしたことはなかったが、妖狩りをしただの神殺しをしただのと良い噂は聞いたことがなかった。とある神の逆鱗に触れて死んだようだと聞いたときは他の妖たちもホッと胸を撫で下ろしていた。そんな輩が再び動き出した。このまま何も起こらずにすむはずはないと、玉城も伊織も覚悟はしている。それでも、湯屋への被害が最小限ですめばいい、そのために打てる手は全て打とうと、言葉にはせずとも互いにできることをしていた。
窓の外では雪が舞い落ちている。これから寒く厳しい冬が本格的にやってくる。
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