働きたいという人間が参りました①

 志紀東吾は湯屋「憩い湯」の前に立ち尽くしていた。コンビニのバイトをクビになり、住んでいたアパートは火事で全焼した。どこか働くところをと探していたとき、ここの噂を耳にした。働きたいというものを門前払いにはしない。必ず試用期間がある。試用期間でも給料は出る。しかも住み込みも可能。住むところ、食うものにも困っていた東吾はすがる思いで湯屋にきた。

 だが、こんなに立派なところだとは思わなかった。敷居が高すぎると思っていると、玄関がカラカラと開いて着物姿の綺麗な男の人が出てきた。

「こんにちは。うちに何かご用でしょうか?」

男の人の言葉に東吾は咄嗟に「働かせてください!」と叫んでガバッと勢いよく頭を下げた。


 湯屋「憩い湯」の主である伊織は応接間で東吾と対面していた。伊織の手には東吾が持ってきた履歴書がある。玄関で働きたいと言われ、ひとまず事情を聞くために中に入れたが、東吾の話は不憫としか言い様のないものだった。

 まず、バイト先で小さなミスが続いた。レジを打ち間違ったり商品を落としたり。小さなものが積もり積もってとうとう昨日、酒瓶を10本割ってしまった。それも昼の忙しい時間に。店長にクビだと怒鳴られ、泣く泣くアパートに帰るとアパートが建っていたところには炭と化したアパートの残骸があるだけだった。東吾がバイトに出掛けたすぐあと火が出たらしい。原因は隣の部屋の住人の煙草の不始末。こうして東吾は仕事と家と全財産を一気に失った。

「事情はわかりました。私は基本的に働きたいという方は受け入れます。ただ、こういう仕事は相性というものがありますから、まずは1週間試用期間ということで働いていただいてかまいませんか?もちろん住み込みでかまいません」

「はい。ありがとうございます。よろしくお願いします」

うなずいて頭を下げる東吾に伊織はにこりと笑った。そして目線をわずかに横に向ける。誰もいないのにまるで隣に誰かいるかのように。東吾が不思議に思っていると、伊織が立ち上がった。

「では早速ですが、あなたには壱号館で働いていただきます。ご案内しますね」

「はい!」

東吾が立ち上がると伊織は応接間を出て廊下を歩いた。

「ここは壱号館から参号館までごさまいます。壱号館は一般の方々がご利用になります。仕事の内容としてはお客さまのご案内。浴場の清掃。館内の清掃。宿泊のお部屋の用意などになります。詳しいことは壱号館を任せている主任から聞いてください」

「はい」

銭湯というより旅館みたいだなと思いながら東吾がうなずくと、伊織はひとりの女性を呼び止めた。

「佳純さん。新しい従業員を連れてきました」

佳純と呼ばれた女性は長い髪をひとつにまとめて結い上げ、薄緑の着物を着て紺の前掛けをしていた。

「試用期間の方ですか?」

「そうです。名前は志紀東吾さん」

そう言って伊織が佳純に東吾の履歴書を渡す。その履歴書には小さく「不見」と書かれていた。

「壱号館のみでお願いします」

「わかりました。壱号館主任の佳純です。よろしくお願いします」

「志紀東吾です。よろしくお願いします」

東吾が挨拶して頭を下げると、佳純はにこりと笑ってうなずいた。


 東吾を佳純に託した伊織はゆっくりと廊下を歩いていた。

「あの者、全く見えんな。声も届かん」

伊織の隣から少々不機嫌そうな声がかかる。伊織は苦笑するとずっと隣にいた男に目を向けた。

「こういうものは体質ですから、仕方ありません」

「だがなあ」

なおも眉間に皺を寄せる男の髪は白銀で、ふさふさとした大きな九つの尻尾が背後でゆらゆらと揺れていた。

 そう、この男はずっと伊織の隣にいたのだ。東吾と応接間で話していたときも。佳純に東吾を紹介していたときも。それでも東吾は気づかなかった。東吾は幽霊や妖を見ることも、気配を感じることもできなかったから。

 伊織のパートナーである九尾の狐、玉城はその気になれば人間に化けることもただの人間の目に写ることもできる。だが、1週間でいなくなるかもしれない東吾に姿を見せる気はなかった。それでも多少霊感なりがあるものは見えたり感じたりするのだが、東吾は全く見えなかったし感じなかった。だから壱号館でしか働かせられなかった。人間が利用するのは壱号館のみだから。そして、壱号館で働くものも人間のみだった。

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