18、言葉にならない

 それからは、泥水を泳ぐような毎日だった。


 たった一人。予備校と家とバイト先を往復し続けるだけの日々。都会に出たことで時給は上がったが家賃も上がった。居酒屋とパチンコ屋のバイトを掛け持ちしてひたすら目先の生活費を稼いだ。客の置いていった煙草を勝手にくすねていたのが、煙草を客が取りに来たことで、想像だにしなかった大きなトラブルになった。これに懲りて煙草を買うようになると、好きな銘柄を選べるのだけはよかったが、手元の金は目に見えて減っていった。普段はもやしと塩コショウと米で、給料日前はまかないだけで一日の生を繋いだ。

 引っ越し先は高校の下宿よりもずっと、最低限生命を維持できるだけ、の場所だった。足を伸ばしてギリギリ寝れるだけの広さ。壁の隅の黴は拭いても拭いても落ちず、もので足の踏み場がなくなると、もはや気にすることもなくなった。家具を一式買う金はなく、ブルーシートの上に立てられたイーゼルだけが堂々と大きかった。飯は炒めたもやしを床で食っていたし、夜は畳に寝転がって、座布団を枕に毛布をかぶって寝た。隙間風と鼠とゴキブリの気配が常にあった。すぐそばに線路があって、電車が通るたびにけたたましい音と揺れがした。窓を開けるといつも煤けたにおいがした。

 呼吸をするため、存在するために絵を描き続けていたはずなのに、いつの間にか俺は絵からたまらなく逃げたくなっていた。自分のための絵と受験のための絵とはまるで性質が違った。後者はまるで泥濘の波のように俺をずぶずぶと引きずり込んで、口や鼻をどろどろと塞いでいった。

 絵を描くことが苦しかった。自分の絵に批判的に向き合い続けることは、無邪気に絵を描いていたころの「絵について考え続ける」とは全く違う。自分のふがいなさを、いやらしさを、愚かしさを、一番見せたくない弱さと情けなさを、絶えず白日のもとに晒し続けることになる。

 何も考えず、ただ自分のためだけに手を動かしたかった。

 その話を予備校の講師にすると、「受験のための絵だって、『美術について学ぶ自分』のための絵なんだから」と曖昧な言葉で宥められた。

「別にただ絵を描きたいだけなら、受験なんてする必要はないんだよ。そこに執着する必要なんて全くない。趣味で描き続けることだってできるんだから」

 君は何のために絵を描いてるの、と講師は訊いた。

 俺は絵でムカつく奴らを殺したいと言った。暴力的な衝撃を与えたい、と。永野や、相変わらず駅前で歌っているあの青年みたいに。過激ぃ、と講師が囃す。

「なら、とりあえずはまっすぐ進んでみようか。まあお金と相談しながらだけど」

 講師は苦い笑いを浮かべた。

 かくして俺は絵を描き続けた。自分の内側を抉りながら。干からびてからからになるまで、何か、を内臓から絞り出しながら。

 空洞になった自分の内側を、黒々とした煙だけが満たしていく。

 壁紙が汚れたら張り替えるために幾らか払ってもらいますからね、と嫌煙家の大家にさんざん言われていたから、俺はいつも玄関先で、コカ・コーラの大きなペットボトルを灰皿にした。水を張ったペットボトルは、縮れた煙草を呑み込んでいくたびに、どす黒く濁っていく。コーラのペットボトルにおあつらえ向きの黒い水。吸い殻はペットボトルの内側にどんどんたまっていって、まるで俺の肺を可視化しているみたいだと思う。自分を粗末にすることに、俺はどこか安定と安心を見出していた。俺の中にはいまだに惨めで汚いガキだったころの自分がいて、慣れた感覚に身体を沈めるためだけに、絶えず不幸になりたがっていた。



 駅前には相変わらずあの青年がいた。いつも激しい音楽を身体の内側から叫んでいた。今度の歌は随分と露悪的だった。泣きたくなるほど悲しいのに悲しいと言えずに、破壊的な行動ばかり繰り返す男の一人称劇。荒々しさと怒りでコーティングされているけれど、本質的にはどうしようもない悲劇なのだった。それを彼は、爆発するような声と、不思議な慈しみの眼差しで歌った。卑屈で暗い歌なのに、魔法みたいな音楽のせいで、その中に清々しさと美しさがあった。

 人間は悲しい。

 その悲しさを少しだけ許されたような気がする。

 気づくと一曲分、立ち止まって聞いていた。俺の前の人垣が拍手を送る。ありがとうございます、と青年は人の好さそうな笑みを浮かべる。柔和そうな目は、その実深い虚空を孕んでいる。永野と同じ。

 彼はどんな地獄を見たことがあるのだろう、と思う。



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