9、言葉がつながる


 一日だけ、顧問と長い長いバトルに繰り出した木立は、翌日には美術準備室に戻ってきた。それからというもの、美術準備室においては、ここの床は冷えるからと膝掛けを持ってきたり、テスト期間にも勉強会と称して入り浸ったり、木立はかなり気ままに振舞っていた。勉強会には俺もつきあわされた。漢文の返り点やら、連立方程式やら、何度聞いても理解できない俺に、木立は根気よく説明を繰り返した。「教えるのも勉強になるから」というのが彼女の口実だったが、実際は勉強できる時間を奪っているだけだった、と思う。

 期末試験では、苦手な数学で初めて赤点を超えた。国語は六十点台を取る快挙で、教師はえらく驚いていたが、俺も同じくらい驚いていた。普段は四十点台だったことを思うとたいした成長ぶりだった。

「字がもうちょっとマシになれば、あと何点かはとれたのにねー」

 すっかり専属教師気取りの木立は、俺の答案を見ながら口惜しそうに言った。殴り書いたいい加減な字のせいで、漢字で数点の失点がある。

「なんで絵描けるのに字汚いの?」

「知らねーよ」

 俺が訊きたいくらいだ。ふてくされた俺に木立は答案を差し出す。「日と目の違いくらいははっきり書かないとね」という言葉を聞き流しながら、俺は答案を折ってポケットに入れた。



 三月になり、四月になった。俺たちは二年生になった。二つしかないクラスの中で、俺たちは再び同じクラスになった。

 登校日の初日、「このクラス最悪じゃない?」と高らかに不満を訴える女子――宮間志穂は、明らかに俺と、俺の後ろの席にいる木立を見ていた。全てが教師に諫められる代わりに、クラスでの立ち位置を絶対的にしている女子たち。そのグループの中でも、茶色い髪を地毛と言い張る宮間は、ことさら目立つ。

「あいつマジさあ、どのツラ下げて学校来てるんだろうね?」

 キンキンと響く喋り声が容赦なく教室に響いた。話は加速度的に花が咲いていく。

 お調子者の男子たちも、彼女たちの勢いに気圧され、心なしか静かになっている。新しい担任が入ってくるまでずっと、子どもじみた、聞こえよがしな悪口は続いた。容赦のない視線を浴びても、木立は素知らぬ顔で本を読んでいた。

「参っちゃうよね」

 その日の放課後は、さすがの木立も疲れた様子だった。今年も木立は学級委員になった。例の女子たちに笑いながら推薦されて、その不自然さに気づかない担任から、「じゃあ」と任命されていた。直後の係決めは木立が司会を引き継いだが、女子のほとんどが目配せし合って笑っているか、気まずそうに目を伏せるかで、なかなか前に進まなかった。

 クラスの雰囲気は、たった一人に大きく左右される。木立暁美は弾いてもいい、蔑ろにしてもいい――そういうが、たった一日で出来上がった。去年よりずっと露骨に。

 そして空気は、規則よりも強い拘束力を持つ。クラスには去年木立とつるんでいた女子生徒もいたが、余計な波風を立てまいと、誰も近寄りたがらなかった。

 とはいえ、最初は木立も、完全な孤立無援ではなかった。もう一人の学級委員をはじめ、男子の多くは、必要以上に関わることこそしなかったが、必要に迫られれば話も協力もした。それが尚更宮間を苛立たせた、らしい。陰口の中に、オトコに色目使っちゃってさあ、というラインナップが増えた。木立は無反応を貫いた。気づかないふりをし続けることは宮間を煽ることだと、彼女はとうに気づいていそうなものだったが。

「ああいうのは、反応したら喜ばすだけだから」

 なんか言い返せばいいのにと俺が言った時、木立はさらりとそう返し、ページを指で繰った。

「単なるストレス発散なんだよ。あの子もそれをわかってるから、逆に、私を必死に悪者にしたがるの。私が反応しないからばつが悪くて、それで怒るの」

 嫌いな人間を悪く言うことになると饒舌になるのは、木立も同様だった。

「自分の偉さを誇示したくて、店員さんとかに怒鳴るような人と一緒。あの子は周りの女の子たちに、自分の影響力を示したいだけ」

 それだけ、と木立はまたページを指でめくった。そのペースの不自然さが、いかにもわざとらしくて、何かを誤魔化したがっているように見えた。

「私は大丈夫だよ。ひとりをやり過ごす方法なんて、いくらでも知ってるもの」

 半ば自分に言い聞かせ、木立はまたページをめくる。

 


 読める本の幅は、借りた本を苦労して読み終えるたびに、増えていった。目で文字を負うことが苦痛でなくなると、意味を意味として噛み砕けるようになり、どんなシーンなのかが、何度も読み返さなくても、なんとなくわかるようになった。長いとか難しい以外の、多少まともな感想も出てくるようになった。

 もやもやと輪郭なく漂っていた言葉が、ひとつひとつ、概念と一本の糸でつながる。

 思考を形作るのは言葉だ。気持ちを表す語彙が、今までは快不快だけだったのが、様々な色味やグラデーションがあるのだと知った。言葉を得て、俺は少しずつ人間になり始めていた。

 だが、人間の部分が広がっていくにつれ、自分の中に残っている、獣、の部分が、異物みたいに存在感を増した。動物的な衝動。欲求を満たしたいという攻撃性。多少まともな思考ができるようになっても、暴力的な揺らぎが消えたわけではなかった。

 気持ち悪さのような、怒りの塊のような、俺を不機嫌にさせるどす黒いものは、時々胸の中で肥大した。そういう時は身体の表皮全体がむず痒くなって、抑えるために、俺は自分の腕を引っ掻いた。説教。耳障りなお喋り。押しつけがましい決めごと。嫌なことがあるたびに、俺はひっかき傷を作った。痒みが痛みで紛れると、揺らぎが少しは落ち着く気がした。

 鳥は卵の中から抜け出ようと戦う。

 卵は世界だ。

 その時読んでいた本の中にあった言葉。ドイツの作家の小説だった。教科書に蝶の標本を集める少年の話が載っていたが、それと同じ作者だと言って、木立が貸してくれた。

 俺はたぶん、卵を破ろうとしていた。俺は言葉を知り、思考を知り、他者を知った。世界を、ひいては自分自身を拡張するのだから、痛みが伴わないはずがなかった。それが成長痛だと知ることもできず、俺は自身の混乱に戸惑い、苦しんだ。

 腕のみみず腫れは日に日に増えた。アトピーは余計に悪化の一途をたどり、腕の内側がぼろぼろに爛れた。その年は初夏から暑い日ばかりが続いたが、半袖はおろか腕を捲ることすら憚られた。汗が染みて痛痒くなって、手は無意識に腕を掻いた。よくないということはわかっていたが、身体にしみついた癖はなかなか離れなかった。

「狩岡、すぐに腕引っかくね」

 木立も気になっていたのか、ある時、そういうのよくないよ、と諫められた。どこか悲しげに目を伏せながら、木立が俺の手を取った。シャツの袖がめくられる。手の爪は雑菌だらけなんだからさ、ますますひどくなるだけだよ。せっかくきれいな絵が描ける腕を、こんな風にしないであげて。木立の白い指が俺の手首をなぞり、その瞬間、黒々としたなにか、が勢いよく身体中を満たした。

 思考の糸をまとめられなかった。急に全身が心臓になったみたいだった。自分が何を感じたのかもわからないまま、離せよ、と乱暴に言って教室を出た。悪寒のような、痺れのような、くすぐったいような感覚が、背中からいつまで経っても消えなかった。どろどろとした衝動が身体の内側を駆け回る。鼓動を落ち着けるために壁に頬をつける。自分はおかしくなったのかと不安だった。漆喰がひんやりと冷たくて、心地よかった。

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