10、単純な言葉
木立の処遇は日を追うごとにひどくなった。教室でも、美術準備室でも、彼女は平気なふりをし続けた。気丈だったのか、それとも意地だったのか。何をされても言われても、涙を見せるどころか、木立は眉ひとつ動かそうとしなかった。
ある日、片づけを終えて帰る道すがら。自販機でジュースを買おうとしていた。俺がボタンを押した瞬間、木立が「あ」と漏らしたのが聞こえた。見事なまでの鉢合わせ、だった。奥ゆかしくて気弱なタイプの、去年木立とよく一緒にいた女子だ。今年も同じ教室にいるのに、ずっと他人のふりを続けている生徒。
がこん、とペットボトルが落ちる。女子生徒は俺と木立とを交互に見て、「いつから?」とおずおずと尋ねた。
「そういうんじゃないよ」
木立は曖昧にはにかんだが、真意が伝わったのかは曖昧だった。女子生徒は俺を気味悪そうに一瞥し、じゃあ私塾だから、と慌ただしくどこかへ消えていった。
否定の言葉は全く意味をなさなかった。翌日、遅刻ギリギリでやってきた教室で、黙って黒板を消している木立を見た。うっすらと傘の形の三角形が見えた。
俺が席に座った時、「お似合いじゃん」と宮間が言って、笑いが起きた。ちょうどこちらに向かってきた木立と目が合った。参っちゃうよね、と言った時と全く同じように、木立は力なく微笑するだけだった。
美術準備室のこともすぐに露呈した。「部活サボって、男ンとこ入り浸ってたんだって。信じられる?」「しかもあいつのとこでしょ?」裏切りの告発。噂は広がっていく。理由さえ見つかれば、人はいくらだって残酷になる。なぜならそれは断罪だからだ。罪人を貶めることには、正義こそあれ、悪はない。そう思い込んだ人間に怖いものは何もない。
授業中、誰かの書いたメモが背中に当たった。ノートを定規で切った切れ端に、ひ妊はしてるんですか、とシャープペンシルの文字があった。避妊の「避」の字は難しかったのかひらがなだった。同じようなメモを木立はたくさん受け取っていた。放課後に見せられたことがある。バカ。ブス。ビッチ。キモい。死ね。いい子ぶってて恥ずかしくないんですか。どうして学校来てるんですか。まだ死なないんですか。手のひらから溢れそうな罵倒。中学生の語彙と想像力なんて所詮そんなものだ。
男と女が一人ずついるだけで、余白は簡単に、単純な色で、埋まる。壁際とイーゼルの間の数メートルは、ずっと埋まらないままなのに。本当に何もないのがむしろ皮肉だった。俺は絵を描くだけ。木立は壁際で本を読むだけ。ただ同じ空間にいて、同じような時間だけが流れる。木立の本がぐしゃぐしゃに折れていたり、波打って皺が寄ったりしていることだけが違う。いつからか木立は図書室の本を読まなくなった。
罵詈雑言。給食の残飯。虫の死骸。ゴミ箱の中身。鉛筆の削りカス。使用済みの生理用品。机の中をぎゅうぎゅうに満たした誰かの悪意を、木立は毎日、黙ってゴミ箱の中に捨てた。木立の受ける悪意の中には、たぶん、俺に向けられていたものもあったのだろう。俺に直接何かするのは、反撃されそうで、怖い。だから、悪意はよりリスクの低い方に流れる。その程度やつらでも、人を簡単に、死に際まで追いつめられる。
雪の日の弟の冷たさは、まだ指が覚えている。
「昨日も行ってたんでしょ? 懲りないよねえ」「慰めてもらってんじゃない?」「狩岡くぅん、あたしぃ、みんなからいじめられちゃってるのお」「誰のせいだっての」「わかってないからバカなんだよあいつ」
笑いが起こる。どん、と宮間が木立の背中にぶつかった。「ごめーん、カゲ薄すぎて見えなかったぁ」笑った口から真っ白な歯がのぞく。
木立は声の方を一瞥し、図書館のラベルの貼られた本に目を戻す。
「おい何無視しちゃってんの?」
宮間が机に手をついた。「そんなだからハブられるんだってこともわかんないかなあ」
「うるせえよ」
俺が声を発した瞬間、音が消えた。
クラス中の視線がこちらに向く。「え? なに? 聞こえなーい」宮間だけがへらへらと笑っている。立ち上がろうとした俺を、木立が抑えた。「やめな、狩岡」
行き場のない苛立ちを呑み込んで、舌打ちまじりに引き下がる。「見せつけてくれちゃってえ」宮間が肩をすくめる。場の緊張がそれだけで少し、緩んだ。
ここでの正義は宮間のもとにある。顔立ちが派手で華やかで、人気があるから。彼氏が一個上の、少し悪めのバスケ部の先輩だから。この学校のこの教室でしか通用しない、たったそれだけのわかりやすい正義は、けれどどうしようもなく強い。
「一発ぐらい殴れよマジで」
「相変わらず野蛮人だな」
「るせー」
相変わらず俺たちが落ち着けるのは美術準備室だけだった。会話の調子がわざとらしく明るくなっていくのも、たぶん、気のせいじゃなかった。
「女の子殴るのはダメだよ」
「関係ないだろ。男女平等ってやつだよ」
「狩岡って本当バカだよね」
「叩き出すぞ」
ひどいなあ、と笑う木立の頬は、去年よりも少し、痩せた。目も隈がちで、あまり寝れていないんじゃないか、という気がする。ずっと腹を抑えてうずくまっていると思ったら、今月なんか生理重くてさ、と打ち明けられたこともある。
態度には出さないが、見ている限り、身体には確実にガタが来ている。
「ていうかもう二年なんだから、殴ったら内申響くよ、さすがに」
でもあいつらは平然と、何の罰も受けずに高校に進学するんだろう。それは理不尽な気もしたが、木立はむやみに事を大きくしたくないらしい。
何も言い返せない代わりに、絵の具に油を混ぜ、まっさらなキャンバスに乗せた。固い豚毛の筆は、キャンバスに擦られるとがりがりと音がする。下書きに鉛筆は使わない。多めの油を含んだ絵の具で、下絵の線を描き起こしていく。
「高校行くんでしょ?」
「たぶん」
何それ、と木立は笑い、波打った紙をゆっくりとめくっていく。
うちの施設は余裕がないから、中学を卒業したら、多少のサポートはあるとはいえ、施設を出なければならない。施設は勉強の習慣などないまま保護された子どもばかりだ。中卒で働きに出る奴も多い。そのための就職口の紹介もある。高校に通うなら、奨学金をもらいながらの自活になる。
これからどんな生活を送って、どんな人生を選ぶのか。今までは目の前のことしか見えていなかったから、何も考えていなかったことに、今更気がつく。
「今どき高校くらいは行った方がいいと思うよ。美術系の学校とかあるでしょ」
「どうせ学費高いだろ」
「うーん、そっか」
だけど絵は続けてほしいな、と木立は言った。「画廊とか見に行きたいし」遠い夢のような話は、先生のかけた呪いの上に、強く杭を打った。「どうだろうな」と答えながら、俺はたぶん、このまま死ぬまで筆を持ち続けるだろうと思った。
「狩岡ってさ、人は描かないの?」
ぴた、と手が止まった。確かに今までの題材は静物や風景ばかりで、人間は一度も描いたことがない。遠景に小さく、はあるだろうか。でもその程度だ。
「人間は好きじゃない」
ぞんざいに返すと、私も、と小さく言葉が続いた。
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