11、言えなかった言葉
いつの間にか蝉が鳴き始めていた。
教室に冷房はない。頭が痛いと嘘をついて、だるい授業を保健室でやり過ごした。一時間経つと、熱がないなら戻りなさいと追い出されてしまった。廊下をだらだらと歩く。教室の近くにくると、漏れ聞こえてくる喧騒がいつもと違うことに気がつく。
がん、と机を蹴る音。
「あんたさあ、いつまでスカしてるつもり? 陰でウチらのこと馬鹿にしてんでしょ」
宮間のよく通る声。
「……別に、してないよ」
「別に、してないよぉ」
わざとらしく復唱し、周りに薄い笑いが走る。
「何とぼけてんの?」「いっつも狩岡のとこいるからさあ、アタマおかしいのが伝染ったんじゃない?」「ほんっとキモいよね」
ねえ、いいモノあるよ。誰かの声。歓声、拍手。その瞬間、どたどたと物音が聞こえた。机の倒れるような音。あいつの細い悲鳴。ばしゃばしゃと液体の流れる音、囃す声、笑い声、「もぉー、牛乳が可哀そうじゃん」「ていうかこれいつの?」「先週の金曜」「うっわやば!」誰かを傷つけている声音は驚くほどに明るい。
がら、とドアを開けた。
その瞬間、たくさんの両目がこちらを向いた。しんと静まり返った教室の中。胸中は意外と凪いでいた。俺が歩を進めるたびに、船虫の群れが逃げていくみたいに、人がはけていった。
木立は床に座り込んで呆然としていた。頭からかぶったらしい牛乳が、髪の毛の先を伝って床に滴り落ちる。
俺は何も言わずに彼女の二の腕を掴んだ。
校門の外に出たところで、俺はようやく彼女の手を離した。ずっと速足で、反応を確認する余裕もなく歩き続けていたから、息があがっていた。
その日は焼け付くように暑い日だった。
「ねえ、どうしたの」
彼女がぎこちなく笑みを浮かべた。紺色の襟に白色がしたたり落ちる。俺はいたたまれなくなって、「別に」と目をそらす。
「授業どうすんの」
「そんなんサボればいいだろ」
俺は再び歩き出す。八つ当たりのように歩調を早めた。「そんなこと言ったって……」と口調を濁す彼女に、「あのさあ」と向き直る。びくり、と彼女の肩が揺れた。
「自分が今どんな顔してるかわかってんの?」
日差しがつむじを焼く。
蝉の声に混じって、プールのホイッスルの音が聞こえる。
「死んだら何もかも終わりなんだよ」
「……死なないよ」
「いいや、お前は人間の弱さをナメてる。思ったより人は簡単に死ぬんだよ」
木立はますます深くうつむいて、小さく「ごめん」と呟いた。そのまま彼女の手首を握りなおす。彼女に抵抗するそぶりはなかった。
誰にも見つかりませんように。緊張と暑さとで、歩を進めるごとに鼓動が早くなる。手がやたらと汗ばんでいるのが恥ずかしかった。
「これってさあ、駆け落ち?」
「バーカ」
そっぽを向きながら、学校が見えなくなるところまで、ひたすら歩いた。
この日俺たちは初めて、学校という殻から抜け出た。いつも窓から眺めていた外界の景色は、眩しいほどに美しかった。
手持ちの金はわずかだったが、どこへでも行けるような気がしていた。海が見たい、と木立が言ったから、俺たちは海を目指して歩いた。
途中の児童公園で彼女が頭と顔を洗った。制服はどうしようもなかったが、髪のにおいは少しはマシになったらしい。水道からざぶざぶと上がる飛沫が虹色に光った。木立の髪は、光を透かすとほんのりと赤みがかって見えて、きれいだった。
児童公園にはジュースとアイスの自販機が一つずつ置いてあった。涼みたくて、給食も食ってないから腹も減っていて、手ぶらの木立の代わりに、俺が二人分のアイスを買った。人にものをおごる、なんて、生まれて初めてのことだった。
木立が選んだフレーバーはチョコミントだった。「チョコミントって歯磨き粉みたいな味しねえ?」と尋ねると、木立は「そこがいいんだよ」と呆れたように笑った。
青田と民家の間を抜け、バス停を辿りながら歩き、一時間に二本しかない電車に乗った。木立の髪は日差しに焼かれてとっくに乾いていた。電車の強すぎる冷房にほっとしていると、「さっき足刺されたみたい」と、木立がふくらはぎの虫刺されを引っ掻いた。電車の中ではそれ以上会話が続かなかった。日照りの中をずっと歩いた疲れが、ここに来てどっと溢れていた。
電車はゆっくり走る。これからどうするのか。帰るつもりなどなく飛び出したのに、門限までに帰るのは無理だろうな、と考えてしまった自分がおかしかった。いつの間にか眠り込んでいたらしく、気づくと肩を揺すられて起こされた。
慌ただしくホームに降りると、涼しくなり始めた風の中に、磯の香りがした。生ぐさいような、爽やかなような、不思議なにおいだ。なぜだか懐かしい感じがした。日は既に傾いていて、藍色と茜色のグラデーションの中に、ぽっかりと丸い月があった。
小さな駅舎から出た。月が明るい夜だった。星空が月のまわりだけぼんやり霞んでいる。「月、綺麗だな」そう言った後に、陳腐な口説き文句を思い出した。「月にでも吠えたくなる夜だねえ」と、木立がまたわけのわからないことを言った。
潮のにおいと、波の音が近づいてきた。ざらざらと粒をまとった風が、肌を撫でて通り過ぎていく。日に焼けた看板に何かが書いてあったが、薄すぎてほとんど読めない。
「月に吠える犬はね、自分の影が怖くて吠えるんだって」
人は誰もいない。テトラポッドの群れの隙間に、小さな浜辺があった。梯子を慎重に下り、砂浜に降り立つ。歩くたびに、さくり、と音がして、靴の中が瞬く間に砂でざらざらと濁る。
「私ね、時々自分が怖くなるんだ。だから、月に吠える犬の気持ち、ちょっとわかる」
声は波音に消えてしまいそうだった。
「あの人たちを殺す夢を見るの。色んな風に、色んな形で。私って意外と執念深いんだ、と思って笑っちゃうけど。いつか本当にそうなりそうで怖い」
自分で自分の中身を覗くと、ふと、何もわからなくなるときがある。自分が何者なのか。どんな人間なのか。何を考えているのか。その底なしの深淵の怖さは、俺にも少しだけわかるかもしれない。獣の形をした何かは、いつだって身体のどこかに居座っている。たくさんの人たちをそれで傷つけてきたように、それが木立を傷つけてしまわないか、俺は時々、無性に不安になる。
さく、さく。足跡は続く。
水面は、まるで一つの生き物みたいにうねっては、こちらに手を伸ばす。
月夜の晩にボタンが一つ、波打ち際に落ちていた。なんて、教科書に載っていた詩みたいな光景。
「ねえ、一緒に死んじゃう?」
本気なのか揶揄っているのか、口調からは全くわからなかった。俺はあからさまにぎょっとしたのだろう、「冗談だよ」と言う彼女は、どこか失望しているようにも、寂しげなようにも見えた。
水際に近づくと、波の中に小さな光の粒子が見え始めた。黒色の海の中で、波に合わせて揺れる青白い光は、星の粒みたいにきらきらと光っている。
夜光虫、と木立が小さい声で呟いた。革靴の彼女が、水際のぎりぎりでしゃがみ込む。手で水を掬い上げ、光の混じった水が指の間からさらさらと零れていく。きれいだね、と彼女はうっとりと言う。
「私たちはどこで間違えたんだろうね」澄んだ声が、夜気の中に静かに響いた。
俺たちは柔らかい砂に横になって夜を明かした。潮風と波音。どんどん潮が満ちていく。月光の下、横たわる俺たちの影が長く伸びている。ふとその影が繋がって、冷えた木立の手が、俺のてのひらに触れた。
ありがとう、助けてくれて。聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で、木立が言った。ほどなくして、控えめで穏やかな寝息が聞こえてきた。
木立がどこかに行ってしまいそうな気がして、俺はしっかりと手を握りなおす。手の感触がやけに鮮明だった。目は冴えるばかりで、ちっとも眠れる気がしなかった。
朝になる前に、懐中電灯のまっ白な光が忌々しいほどに俺たちを照らした。いたぞ、という声と慌ただしい足音が、浜辺の静寂を土足で踏み荒らす。
さよならを言う暇もなく、俺たちはあっという間に引きはがされた。結局俺たちはまだ子どもで、自分の力で逃げることも、どこに行くこともままならなかった。どの道、帰りの電車賃すら持っていなかった。俺たちはとことん非力だった。情けないほどに。
木立の両親の中では、とにかく悪いのは俺で、俺が彼女を誑かし、唆したのだということになっていた。どんな弁明も聞き入れられなかった。素行も成績も育ちも悪かった俺は簡単に槍玉に挙げられた。木立のされていた仕打ちについても、彼女の両親の耳に入るまでに、さほど時間はかからなかった。それすら俺のせいにされた。
接触は徹底的に断たれた。木立はその日以来学校を休み続けた。休まされていたのかもしれない。直接会うことはもってのほか、手紙や電話のやり取りすら認められず、俺には連日のように監視の目がつけられた。学校を抜けだしたという前科はそれほど大きかった。脱獄の露見した囚人に次はない。
二学期になると木立の席は片づけられていた。東北のほうに転校したらしいと人づてに聞いた。もともと空っぽだった美術準備室は、もう誰の気配も声もない。ずっと普通だったはずの光景。
返しそびれた文庫本が鞄の中で丸く歪んでいた。それを手でまっすぐに戻しながら、指先から心臓にかけてがぎゅっと重くなった。打算だってなんだってよかった。もう一度でいいから馬鹿話がしたかった。
どうして俺はいつも、取り返しがつかなくなってから後悔するのだろう。もっと優しい言葉が言えたんじゃないかと思うのだろう。たったひとこと、言えなかった言葉が重石のように喉を塞いだ。
好きだった。
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