12、雛は巣から旅立つ
俺が進学を選んだことに、施設長は嬉しそうでもあり、同時に怪訝そうでもあった。「まあ、今時高校くらいは出たほうがいいよな」と言いながらも、納得しているようなしていないような、微妙な表情をしていた。普段の素行を鑑みれば無理もない。俺の成績は歴代の進学組で一番低かった。
「久人は将来何になりたいんだ?」
進路希望用紙や担任と同じようなことを、施設長もまた俺に尋ねた。将来、という先の見えない道をどう描けばいいのか、誰からの強制もないからこそ、俺ははかりかねていた。
画家、という言葉は軽々しく口に出せなかった。
繊細で傷つきやすい宝石のような、自尊心のかけら。絵を描くことがこれほど宝物めいたものになったのは、先生が種をまいて、木立が水をやったからだ。
なんでもいい、と俺は言った。そうは言ってもなあ、と施設長は頭をぼりぼりと掻く。
「ちゃんと具体的に考えないとな。施設を出たら全部ひとりでやってくしかないんだから」
自分で稼げる年になればもう大人。行き倒れたらそこでおわり。簡単な論理だ。親のおかげで色々なものが欠けている俺たちには、いざとなったときの後ろ盾も、帰れる場所もない。頼れる家族がいない人間に社会はとことん冷たい。
施設長が手堅い道を選ばせたがるのは、過去にそれだけ転がり落ちた人間がいたからだ。
下宿先の手配は施設で済ませてくれていた。腰にまとわりつく子どもを引きはがし、俺は四年過ごした施設を後にした。荷物は古いボストンバッグがひとつ。背は四年のあいだにずいぶんと伸びた。
この敷地をまたぐと同時に、俺の子ども時代は終わる。無邪気に大人に頼ることのできる特権は剥奪され、俺はひとりの大人として世間に放り込まれる。俺は枷を外され、拠り所を失い、またひとつ卵の殻の外に出る。
些細な感傷と一緒に、鼻をこすった。別れの日の空は清々しく澄んでいる。がんばれよ、という声に背を向けたまま、俺は門の外へと歩いた。一瞬だけ振り返ったとき、施設長はまだこちらに視線を向け続けていた。
下宿先の大家は、気のいいおばさんだった。優しい、いい人、なのには違いなかったが、微妙に噛み合わないところがある人だった。初対面の折、大家はふかふかとした手のひらで俺の手を握り、「私を本当のお母さんだと思って頼っていいからね」と涙声で語りかけてきた。どう答えていいのかわからなかった。俺の本当のお母さんは子どもを捨てて自殺しようとして精神病院にいたんですけど、などと口にするわけにもいかない。黙っていたら、さばさばと二階を案内されて、その温度差に俺はまた戸惑った。
俺の部屋は二階にあてがわれていた。畳のすっかり黄色くなった六畳間だ。押し入れと、備え付けらしき箪笥と文机、板間には取って付けたような一口コンロのキッチン。古いが掃除は行き届いていて、すっきりと小綺麗な部屋だった。
その小綺麗さはすぐに、俺の生活能力の低さによって失われた。人間らしい生活を維持するためにはそれなりの労力が必要なのだと知った。ものをしまうのが面倒で平積みにしては、何かのはずみで崩す、というのを繰り返しているうちに、部屋は数日で足の踏み場がなくなった。
朝早く起きるのも苦手だった。ただでさえ春は眠い。慣れない家事とアルバイトは気力も体力も消耗する。ひとりで起きるためには盤石な意思が必要だった。あいにく俺は強い意志を持ち合わせておらず、眠気に負けてずるずると寝過ごした結果、何度も一時間目の授業に遅刻した。直情的なふるまいこそマシになってはいたが、遅刻常習犯という意味で、俺は高校でも早々に目をつけられることになる。
新しい苦悩と隷従。自由は中学のときよりずっと増えたが、やらなければならないこともずっと増えた。全てを自分で管理しなければならない。奨学金も出るし、下宿は家賃も光熱費も破格だったが、それでも生活費を稼ぐことは必要だ。
自分用の画材もほしかった。
施設では自分のものを持つことも、置くこともほとんどできなかった。自分用に買ったものは、玩具も文房具も、いつの間にか使いまわされ共用となることが常だった。
もう俺の部屋はひとりだけのものだ。自分のものは自分以外の誰のものでもない。絵を描いているときにチビにじゃれかかられて邪魔されることもない。乾きの遅い油絵をどこで乾かすか、という心配だって必要ない。学校の備品をちまちま使い潰して、先の割れた筆に苛立つよりも、新品の筆を自由に使いたい。
近所の文房具屋は小さな画材屋も兼ねており、ペンや消しゴムやノートといった細々とした買い物をするたびに、視界の隅に映った。油彩の道具一式。十二色入りの絵の具のチューブと、豚毛の真新しい筆。ペインティングナイフ。まっさらな木のパレット。油壷とテレピン、ポピーシード、筆洗油。画材を丁重におさめた木箱は宝箱みたいに見えた。
会計の途中、ショーケースを遠くから眺めるのが、俺にできる唯一のことだった。初めて値札を見た時は「たっか」と思わず口から出ていた。俺の時給の何時間分で買えるものなのか、生活費を差し引いたらどのくらいで貯められるのか。悶々とした気持ちで頭の中で算段をした。
アルバイト先は古いカラオケ屋だった。求人広告のなかで一番時給が高い、という理由で選んだものの、仕事を覚えるのも愛想よくするのも下手で、店長や年上のバイトによく叱られた。客から何かと難癖をつけられるのも日常茶飯事だった。画材を買うためだと言い聞かせて労働時間をやり過ごした。嫌になってしまう瞬間はいくらでもあった。他人が好き放題に汚した部屋を掃除するとき。飲み物を運んだ先で同じ高校の制服を着たやつらが馬鹿騒ぎしているとき。
せいぜいストレス発散のために、客が忘れていった煙草をくすねて、誰もいない河原で火をつけた。夜気と煙はバイト明けの目に沁みた。土手の上に捨てた吸い殻を踏み潰すとき、自分の心の一部も同時に踏み潰しているような気がした。
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