13、あわれみの言葉


 親切にしてくれる人はいた。暇があるときにまかないを作ってくれる店長。「多めに作りすぎちゃったから」「育ち盛りなんだからちゃんと食べなきゃ」と、やたらと夕飯の卓に俺を座らせる大家。大丈夫か、しっかりやれよ、と何かと声をかけてくる教師。彼らは口々に、俺のことを危なっかしいと言った。事実、俺の生活ぶりはよたよたとおぼつかなかったが、結局のところは同情だったのだろう、という気がする。べたべたとした憐れみは、俺ではなく、施設を出て健気に生きている高校生、というラベルに向けられていた。

 部活は美術部に入ったが、美術室にいつかないのは中学の頃と同じだった。たくさんの人間の中でひとりでいるより、誰もいないところでひとりでいる方が気が楽だった。部員たちから煙たがられることこそなかったものの、部の流れに乗らずにいた俺は、やはり集団のなかでぽっかり浮いていた。

 昼休みや放課後は、校舎の影や屋上のタンクで、鉛筆と水彩の風景画を描いた。これはいわゆる下絵エスキースで本描きじゃない。気に入ったものや、色味を変えて描きたいものがあれば、大判のキャンバスを拝借して、学校の画材を使い潰す。

 席替えで窓際の席になったとき、窓から見える景色を描いてみようと思ったことがあった。昼休みになると同時に、俺は椅子の上に膝を立てて、スケッチブックを開いた。昼飯の代わりに、食パンを袋から一枚出して、かじる。スーパーで一番安い六枚切りはちょうど一週間でなくなる。生のパンは美味くはないが、数時間分のエネルギーが得られればいい。

「そんなんで足りんの?」

 男子生徒が声をかけてきた。もそもそと口を動かしながら無視していたら、そいつは「なあ」としつこく声をかけてくる。

「シカトすんなって、何やってんの?」

 水分の少ない耳を口に押し込む。「見りゃわかるだろ」鬱陶しいからどこかに行ってくれないか、という気持ちで、わざと目を合わせないようにしながら、鉛筆を持ち替えた。

「お絵かきしてんの? すげー上手いのな。てか鉛筆多くね? なにこれ8Bって初めて見た」

 矢継ぎ早に質問が降ってくる。こいつは俺が答えるまで延々としゃべり続けるのだろう。それはそれで煩わしい。「食パンそんな好きなん? もしかして絵に使ったりする? しょくぱんまんって呼んでいい?」俺は根負けして、舌打ちとともにスケッチブックを置いた。

「しゃべってないと死ぬのかようるせえな」

「おっ、やっとこっち向いたなしょくぱんまん」

「次それ言ったら殴るぞ」

 いやんこわぁい、と彼はおどけてしなをつくる。角ばって眉毛の濃い顔に、彼の道化は全然似合っていない。体格は俺よりずっと大きい。殴り合いになったところで、勝てる気は全くしなかった。

 これ以上付き合っていられない。教室に居たのが間違いだった。俺は後悔と一緒に最後の一口を押し込んだ。

「別に好きで食ってねえよ。弁当作んのが面倒なだけ」

「母ちゃん作ってくれないん?」

「俺、みなしごだから」

 決まり手。この一言で、だいたいの人間は押し黙る。見てはいけないものを見てしまったような顔をして。しかし奴には効果をもたらさなかった。

「てことは一人暮らし? マジ? 彼女つれこみ放題じゃん」

 彼はますます目を輝かせる。

 絶句するほかなかった。俺の乏しい人間関係では見たことのないレベルのアホだった。そして実際そいつはとんでもなくアホだった。現代文以外は目も当てられない、という俺と、ほとんどの成績が並ぶくらいには。

 後日、成績不良者をかき集めた放課後の居残りで、そいつと見事に一緒になった。サボって帰るつもりだったのに、彼は俺を逃してはくれなかった。

「画伯ぅ、一緒に補修行こうぜ」

「嫌だ」

 そのまま首に手を回され、教室まで引きずられた。面倒なダル絡みは教師にどやされるまで続いた。俺まで怒られたのだから本当にはた迷惑だった。

 死ぬほど長い放課後をやり過ごし、今度こそさっさと帰ろうと思った折。彼の大きい身体が眼前を塞いだ。真顔で立っているとなかなかの迫力だ。「なんだよ」と肩を竦めたら、大ぶりなビニール袋を差し出された。

「謝りたいことあってさオレ。この間のこと母ちゃんと話してたら、なんて失礼なこと言うのッて怒られて。確かにめちゃくちゃ失礼だったよなと思って。狩岡も頑張ってるのにさ。だからごめん」

 ビニール袋には、ポリ袋に入った米や、里芋や玉ねぎなんかが詰まっていた。持ち手がずっしりと手に食い込む。

「いいよこんな……」

「ばあちゃんが畑やっててさ、めちゃくちゃ野菜送ってくんの。家にも余りそうなくらいあって、母ちゃんも使い切るの大変だっていつも言ってるから、むしろ貰ってくれると助かんだわ」

 早口でまくしたてる彼は、およそ考えるより先に言葉が出てくるタイプのようだ。俺とは対照的。そしてたぶん、いい奴なのだろう。少なくとも悪い奴じゃない。憐れみ深く、おせっかいなタイプ。やりづらい。

 貰った野菜は右から左に大家に渡した。大家は大げさなくらいに喜び、「何かお礼をしなきゃね」と浮足立った様子で微笑んだ。里芋はその日のうちに煮つけられ、いつものように俺は夕飯の席に呼ばれた。「いい友達ができてよかったねえ」と大家は嬉しそうだった。

 ねとねとしていて苦手な里芋を、箸で掴めずに突き刺し、口に運んだ。



 例の男子生徒、もとい熊田くまださとるは、その名前と体格から、周囲にはクマと呼ばれていた。ガタイのよさは柔道が一役買っているらしい。兄貴が有名な柔道家なのだそうだ。

 クマは友達が多い。明るく面倒見がいい性格で、教室でひとりでいる俺を、常に輪の中に引っ張ろうとしてくる。俺が黙っていれば、「美術部って普段何してるわけ?」「ヌードモデルとかマジにあるん?」とか適当に話題を振ってくる。クマには俺より仲のいい奴がたくさんいて、俺は輪の中にいながら、自分をどこか遠くから眺めているような気分になる。

 教室でグループで食べる飯、なんて俺にはずっと縁がなかった。ぬるま湯に浸かっているみたいに穏やかな時間。雑誌の回し読み。中身がなく、それゆえ楽しいおしゃべり。流れない空気。停滞と堕落。パンは日に日に味がしなくなる。「そんな飯じゃ倒れるぞー、オレのおかずやるよ」善意と共に差し出される玉子焼き。喉からものが逆流していきそうな感覚。

 絵が描きたい。手を動かしたい。それだけで頭がいっぱいになっていく。

 トイレと言って席を立つ。ばればれの嘘はきっと全員に見透かされている。俺は鉛筆とスケッチブックの入った袋だけを持って、教室を出る。どうしたアイツ、と声がする。

 おい廊下は走るな、と教師の叱責。一段飛ばしで階段を上った。すぐに息が切れた。油膜の取り払われたような感覚。息は苦しいのに、久しぶりに、ちゃんと息ができている感じがする。踊り場でたむろっていた奴らがぎょっとした顔で俺を見る。

 少し息を整えて、屋上のタンクに上った。火照った身体に風が吹いて気持ちいい。真っ青に澄んだ空。初夏の日差しは少しだけ暑い。

 やっとできた人並みのつながりを、俺は断ち切ろうとしている。嫌な奴だと思って嫌われるなら、それはそれでいいと思った。中学までと変わらない生活が続くだけだ。

 スケッチブックの一冊目はすでにページがなくなりかけていた。鉛筆を出して、カッターで細く削る。田んぼ。落花生の畑。雑木林。こまごまとした民家。スナック。パチンコ屋。この町には何もない。何度も描いた景色が眼下に広がっている。

 あんなに絵を描きたいと全身の血が疼いていたのに、まっさらなページを開いた途端、鉛筆がまるで動かなくなった。しばらく粘っていたがまるで筆が進まず、俺は諦めて上体をごろんと倒した。タンクは熱いがほんのりと風が冷たい。スケッチブックを顔の上において、目を閉じる。バイトのせいで夜が遅いから、眠気はすぐに訪れる。

 昼休み終了のチャイムが、寝入りばなの頭にぼんやりと聞こえた。水曜の五限は確か数学だったか。どの道眠たいだけの授業だ。

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