8、幽霊たち


 三学期になるまでに、二冊読んだ。例の時間泥棒の話と、宮沢賢治の短編集。

 絵を描く。本を借りる。俺たちの間にあるのはたったそれだけだった。年明けの席替えでは隣になったが、木立は俺の机との間に数センチの隙間を作らなかった。それでも、教室では他人同士のまま、関わり合うことはほとんどなかった。

 部活や家族や恋愛、先生や芸能人の噂話。そういう教室の中でメジャーな話題は、美術準備室の中では出なかった。わかりやすい共通言語を使わなくていい代わりに、木立は教室にいる時よりもよくしゃべる、ような気がした。それでも俺たちの会話の量などたかが知れていた。放課後の占める時間の大半は、紙のめくれる音と作業のかすかな物音だけがしていた。どこか奇妙で、静かで、穏やかな時間だった。

 だから俺は、木立のことを何も知らなかった。彼女がどの部に属しているのかも、放課後、本来は部活に行かなければならないはずの彼女が、どうしてここにいるのかも。

 ある日、不躾に戸が開けられる音によって、静けさが唐突に遮られた。

「木立、いるか」

 遠慮のない、ドスの利いた声。振り返った視界の隅で、木立がびくりと肩をすくめた。

「いつまでだらだらサボってるつもりだ」

 厳しいと噂のバスケ部の顧問だ。噂に疎い俺でも話くらいは耳にしたことがある。

 教師は俺のことはまるきり無視していた。まっすぐ視線を受けた木立は、本をぎゅっと胸に抱えて、うつむいている。身体を守るみたいに。

「四月からは新入生が入ってくるんだ、二年生がそんなじゃ後輩に示しがつかないだろ。行くぞ」

「……いやです」

 割れそうな薄氷みたいな、緊張で張り詰めた声だった。

「そんなわがままが通ると思ってるのか」

 木立はぎゅっと肩をすくめる。押し黙ったまま、動こうとしない。

「ここで逃げたら逃げ癖がつくぞ。宮間たちにも話はつけてあるから」

 木立はじっと、何かに耐えるみたいに膝を抱いている。

 不機嫌を纏った大きな溜息。業を煮やした教師が、ほら、と木立の腕を掴む。木立は振り払おうとする。「やめてください」焦ってうわずった木立の声を、俺は初めて聞いた。

「いい加減にしろ。だいたいこんなところに入り浸って何のつもりだ。だらしない」

「離して!」

 悲鳴、だった。教師の手が離れた瞬間、木立は腰が抜けたみたいに座り込んだ。そういうの本当やめてください。不安定そのものみたいな声。教師はなおも木立を引っ張って立たせようとする。

 俺は四角い椅子から立ち上がって、入り口の方に向かって歩いた。

「おい、嫌がってんだろ」

 教師は水を差されたことに不機嫌そうな様子を示す。俺の身長はまだ大人の男には全く届かない。つむじのあたりに視線が刺さる。負けじと俺も視線を返す。

「なんだお前は。関係ない奴が首を突っ込むな」

 大人だから偉い。そういう偉ぶった大人ほどナメられることをわかっていない馬鹿だ。馬鹿だから、力と権威で生徒を服従させてきて、それでますます自分を偉いと思い込んできたタイプ。肌でわかる。

「これだから文化部は緩んでるんだ」そう言った教師の顔に、ほのかに、侮蔑の混ざった喜色が浮かんだ。玩具を見つけた、というような顔。虫や生き物を殺す前の子供みたいな顔。

「こんなところに引きこもって、女子連れ込んで好き放題か」

「ガタガタうるせぇよゲス野郎」

 教師の目から愉悦の色が消えた。顰めた眉の下で、目が怒気を帯びる。汚いものでも見るかのようにこちらを一瞥し、教師は俺の横をすり抜けようとした。

「木立、行くぞ」と踏み出した教師の前を、わざと塞ぐ。「てめぇが失せろよ」

「なんだその言い草は」

 怒声が耳をつんざく。真っ赤に膨れ上がった顔が鬼みたいだ。黙って睨みつけていると、手が振り上げられた。身体が強張る。分厚い手が頬を叩く。遅れてぶわっと怒りが燃え上がる。

「施設じゃ口の利き方も教わらんのか」

「関係ねえだろっ」

 掴みかかった途端、鼻っ面に大きな塊が飛び込んできた。行き場のない拳が宙を泳ぐ。何が起こったのかわからないうちに、背中に硬いものがぶつかって、乾燥棚がけたたましく鳴った。後頭部から腰にかけて痺れが走る。目の前がちかちかして、立ち上がりたいのに、指先に力が入らない。ぐわんぐわんと鳴る耳鳴りの間で、木立が何か言った声がした。痛みが治まるのを待っている間に、教師は「とにかく明日は来い」というようなことを言って、いつの間にかいなくなっていた。

「大丈夫? 鼻血出てるよ」

 差し出された手に、咄嗟に身をすくめてしまった。考えるよりも先に。

 頭の上に手を出されるのは、いつまでたっても苦手だ。

「……どうしたの、狩岡」

 どうしたの、はこっちのセリフだった。背中はまだじんじんと痛む。俺は血を強引に袖で拭う。鼻をすする。喉に流れ込んできた血が生温かくしょっぱい。木立は呆れたように笑って、ポケットティッシュを差し出してくる。

「ごめんね」

「何がだよ」

 いつもはテンポよくかえってくる返事がない。色々言いたいことはあるのだろう、と思う。どこか訳ありなのだろうということには、うすうす、言葉にできないほどうっすらと、気がついていた。俺に関わってこようとする奴なんてほとんどいなかったから。だけど俺には、どうすればうまく訊けるのか、どんな言葉を使えば傷つけずにすむのか、わからなかった。

「私さ、利用してたの。狩岡のこと」

 口調はどこか自虐的だ。無理やり笑い飛ばそうとしていて、それがなおさら痛々しい。

「図書室ってけっこう早くに閉まるからさ、運動部と鉢合わせない時間に帰ろうとしても無理なのね。今って受験生しかいないし。すごい浮くんだよね、一年がサボってると。だけどこんな校舎の隅っこなら、誰も近づかないし」

 饒舌だった木立は、そこで一度言いよどむ。ここに誰も近づかないのは、校舎の端だから、だけじゃない。俺がいるからだ。そんなの、言われなくてもわかってる。

「絵が好きってのは本当。だけどそれだけじゃなかったってこと。虎の威を借る狐っていうか、駆け込み寺っていうか、……とにかく安全な隠れ家が欲しかっただけ。打算だったの。ごめんね、怒っていいよ私のこと。狩岡はその資格あるから」

 本音を言えば、少しだけムッとしていた。別に怒んねーよ、という返事が、なんとなく怒ったようになってしまう。木立は叱られたがっているように見えて、それに尚更、どうしてかわからないけれど、イライラする。

 木立は言い訳のような懺悔のような言葉を延々と続けた。「じゃあ訊くけど」どこか刺々しい気分で、俺は口を挟む。

「なんで部活行かないわけ」

「……あんたと一緒」

 幽霊だから、と木立は言った。

「……小学校の時にミニバスやってたからバスケ部入ったんだけど、最初は普通だったんだ。部員の女の子とも先輩ともそれなりにやってるつもりだった。

 だけど少しずつ、あれ、ってことが増えて。知らないうちにみんなで遊びに行ってたり、みんなで話してるとこに近づいていったら、さーって散ってったり。すごく些細なことだったけど、もしかして嫌われてるのかな、って思うことがけっこうあって」

 そして彼女は少しずつ透明になった。返事をされないことがあって、聞こえなかったのかと思って再度話しかけると、相手は別の人とおしゃべりを始める。しばらくは普通に接してくれていた、ミニバス時代からの友達が、日を追うごとによそよそしくなっていく。制汗剤の貸し借りで自分だけ声がかけられなくなる。パスが出されなくなる。ボールが手元に来て、パスを出そうとしても、誰も目を合わせてくれない。仕方なく、無理な位置からあわてて放ったシュートが外れて、あーあ、と聞こえよがしな声がする。自分の使うロッカーが誰かの私物で埋まっている。見かねた顧問に注意されても、部員たちは、はーい、と言った後に目配せして笑い合うだけ。気にしないでと言っていた二年生たちも、次第にそれに乗っかっていく。

 些細な無視だけだった嫌がらせは、徐々に露骨なものに変わる。ユニフォームが焼却炉に捨てられる。靴がトイレに投げ込まれていたこともある。練習が終わった後、倉庫の中で「何しくってんだよ」とバスケットボールをかわるがわる投げつけられる。

 ――あの子いつまでスカしてんだろうね。

 ある日、日直の仕事で少し遅れて行った部室の前で、木立はそのお喋りの声を聞いた。あいつ調子乗ってるよね、無視しようよ。彼女の無視の原因は、中心核だった女子の鶴の一声だったと、あとあと、親切な友達がこっそり教えてくれた、らしい。

 ――経験者だからって上から目線でウザすぎ。

 ――パス出そうとしておろおろするときの顔、あれ、ヤバいよね。

 誰かが真似をしたらしく、笑い声が弾ける。花火のようにきらびやかに、悪口は盛り上がる。ああ、私、本当に嫌われてたんだなあ、と彼女はしみじみと苦笑する。部室の前に立ち尽くしながら、どうしてもドアを開けられなかった。木立はその日初めて、練習を休んだ。

 大人だから、と権威をかざす奴がいるように、この学校では先輩は先輩だから偉く、後輩は後輩だから卑しい。しごきに鬱屈した奴が、憂さ晴らしのために、スケープゴートを探す。弱い方へ、弱い方へと、暴力は連鎖する。

 彼女はその中で、たまたま貧乏くじを引いてしまった。一度吊るしあげの対象にさえなれば、理由はあとからいくらでも付けられる。身体的特徴。成績。教師への態度。すべてが攻撃の材料になる。

 一度足が遠のくと、ますます行きづらくなる。次第に、体育館に行く途中、部室の前を通るだけで、冷汗が出て、頭が真っ白になるようになった。離れて初めて、彼女は思っていたよりもあの場所が怖かったのだと気づいた。一度自覚してしまうと、なおさら、足がすくんでどうしようもなかった。

 クラスにいる時は、小学校から仲の良かった友達なんかは普通に話してくれる。それだけが救いだったと木立は言った。俺がそのためだけに生きていた二時間半は、木立にとっては一日の中で一番、地獄みたいに長くて苦痛な時間だった。

「だけど、ここで絵ができていくのを見るようになってからは、すごく楽しかったんだよ。本当」

 話を聞いている間に、今日の二時間半はもう終わりを迎え始めていた。作業はほとんど進んでいない。パレットに出しっぱなしの絵の具が使われないまま乾いていく。どんな反応をしたらいいのかわからなくて、俺は自分の足元ばかり見ていた。薄汚れて真っ黒になった上履き。

「さっき顧問に怒ってくれてありがと」

 ごめんね、じゃない言葉をようやく受け取った。木立は肩ひじ張らずにこういうことをさらっと言える。同級生たちより少しだけ早く大人になってしまったことは、彼女の魅力であり、災いだ。

 気恥ずかしさに、「うっせ」と口から転がり出る。木立と違って俺はちっとも大人になれない。そういうとこだよ、と木立は笑う。自虐的じゃない笑顔を、今日初めて見た気がした。

 校舎の端、誰も来ない辺境。地球の隅っこ。名前はなんだっていい。傷の舐めあいだってこともわかっている。だけどここは、学校から溶け残ってしまった俺たちが、唯一、ちゃんと存在できる場所だった。

「明日からも来ていい?」

 木立はすっかり涼しげな顔に戻っている。スカしやがって、と言いたくなる気持ちがちょっとはわかる。こっちがいっぱいいっぱいなのに相手が余裕そうなのは、アンフェアな気がして腹が立つのだ。

 だけど今日は、余裕を失った、この世の終わりみたいな木立の顔を見た。だからおあいこだ、ということにしておく。

「好きにしろよ」

 俺はいつも通りに答えた。

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