7、言葉のはじまり


 次の日も、木立は美術準備室に来た。俺がもろもろの準備を終えた頃、ひとりでに扉が開いて、遠慮がちな顔がのぞいた。今日もここにいてもいいかな、と。

 俺は「好きにしろよ」と言って、その日塗ろうと思っていた遠景の色をパレットの上に広げた。「ねえ、なんでこんなところで描いてるの」木立は壁際に体育座りをしながら、唐突に尋ねた。率直にものをいうのは彼女の美点であり欠点でもあった。

「もしかして左遷?」

「……させん?」

「中国の詩人ってよく地方に飛ばされてるじゃん」

 何のことやらさっぱりわからず、俺は微妙な顔をする。

「うーん、なんか違うかな。じゃあ島流し? 後鳥羽上皇みたいな」

 誰、と顔をしかめたら、「狩岡ってほんとに授業聞いてないんだね」と笑われた。教室でそんな顔をする木立はみたことがない。大概は女友達に話をあわせながら、当たりさわりなく静かに相槌を打っている。それか、一人でじっと本を読んでいるか。

「じゃあ天の岩戸だ」

「さっきから何言ってんだよ」

 俺はとげのある声を出した。もはやわざと難しい言葉を並べ、こちらを弄んでいるのではないかという気がした。木立は少しだけ悲しそうに、「やっぱりなんでもない。ごめんね、邪魔して」と会話を終わらせた。

 それから木立は、重たげなハードカバーの本を取り出して、腿を台にしながら読んでいた。伏せた睫毛の陰が頬に落ちていた。昨日と違う表紙の本には、昨日と同じように図書室のラベルが貼ってあった。

 次の日も、その次の日も、木立は飽きもせず顔を出した。俺が絵を描く傍らで、木立は黙々と課題を片付けるか、本を読んでいた。時折、視線を感じて振り返ると、じっとキャンバスを見つめていることもあった。話しかけられれば答えたが、俺から話しかけることはほとんどなかった。

 今日の絵はムンクっぽいねとか、今度はセザンヌっぽいとか、木立はたびたび適当な言葉で俺の絵を評した。木立の口から出る画家は著名な人間ばかりらしかったが、俺は彼らを全く知らなかった。木立はそんな俺を、珍しい動物でも見るみたいな目で見た。

 木立の話すことはたいてい、絵に関することか、本に関することかのどちらかだった。俺から見ればただ小難しいだけの本を、木立はいつも安らいだ表情でめくっていた。

「いい詩には、独特のにおいがあるんだって。狩岡の絵にもあるかもね、そういうの」

 あいにくここには、テレピンのつんとくるにおいしかしない。首をひねる俺に、たとえだよたとえ、と彼女は愉快そうに目を細めた。

 木立の手に取る本は国も時代もまちまちだった。なんだか難しそうだという点だけが共通していた。彼女が来るようになって何日目だったか、ふと「何読んでんの」と訊いた時、きょとん、と目を真ん丸にされて、こちらまで面食らった。

「興味あるんだ?」

「……文句あんのかよ」

 なんでそう喧嘩腰かな、と木立は呆れたように笑う。だから誤解されるんだよ、と。余計なお世話だ。ふてくされた俺を傍目に、ぱたん、と本が閉じられる。

「よかったら貸そうか。ちょうど読み終わったし。狩岡がどんな感想を持つのか、ちょっと気になる」

 小説などほとんど読んだことはなかったが、俺はなんとなくその申し出を引き受けた。私物なのだろう、珍しく図書室のシールが貼っていない本だった。厚さは一センチ程度だったから、鞄にしまう時には、たいしたことないんじゃないか、と高を括っていた。

 読むのには予想の何倍も苦労させられた。一行目で主人公が毒虫になったところからわけがわからなかった。どうにか文字は目で追おうとしたが、すぐに集中力が切れて、どこまで読んだかわからなくなる、ということを何度も繰り返した。施設では「ひさとくんが本読んでるー!」と最初面白がられたが、眉間にしわを寄せながらうんうん唸っている俺は相当異様だったらしく、顔が怖いだのなんだのとさんざん文句を言われた。

 最後はほとんど斜め読みだったが、一週間程度で最後のページまでたどり着いた。読後に残ったのは疲労感と開放感だけだった。やたら辛気くさかったことだけは印象に残っていた。内容は寝たらほとんど忘れてしまった。

 土日を挟んで、月曜日の放課後に本を返した。どうせ同じクラスなのだが、教室で話しかけるのはなんとなく気が引けた。「思ったより早かったね、どうだった?」という顔にはかすかな期待があったが、俺が言えることはせいぜい「漢字がいっぱいで難しかった」という馬鹿丸出しの感想しかなかった。

 そっかあ、と長い溜息のように木立は言って、壁に背をついた。

「だからもっと簡単なのねぇの」

 俺の言葉はまた木立の目をまんまるにさせた。らしくない台詞だとはわかっていた。けれど、このままこのやりとりが途切れてしまうのは、なんとなく嫌だった。

 木立は俺の言葉を馬鹿にしなかった。「わかった。今度読みやすそうなの持ってくるね」と、木立が持ってきた小さい王子様の話を、俺はおそらく彼女の何十倍も時間をかけて、ゆっくりと読んだ。童話の体で、前回よりもやさしい言葉で書かれていたが、そもそも読書の経験値が少ないから、読むのはやっぱり難儀した。作業が早く終わってしまった日、暇つぶしに本を開いていたら、「すごい険しい顔して読むね」と面白がられた。

 読み終わった本を返すまでに、一か月かかった。これほど時間がかかったのは、前回よりもずっと真剣に一字一字を読んでいたせいでもあるし、読み終わる頃には最初のほうの話を忘れていたから、何度か読み返していたせいでもある。どうだった、という質問に、今度はちゃんと答えられた。読めた。たった一文節。それは大事だね、と彼女は静かに笑った。

 次の放課後には、木立はまた別の本を用意していた。今度は前回よりも分厚い。モモという女の子と、時間泥棒と、カシオペイアという亀が出てくる話を、俺は亀の歩みよりもゆっくりと読み進めた。

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