6、ボーイ・ミーツ・ガール


 次の日の朝、教室に入ろうとするなり、化け物でも見るような視線があちこちから刺さった。俺に対する扱いは、関わるのに消極的であるという域を出て、積極的に忌避するという段階に達しつつあった。それは教室ではなく部活でも同様だった。

 何も考えずに入った美術部は、最初はとりたてて居心地の悪い場所ではなかった。部員はだいたいが、教室では中心からはずれた場所にいる奴ばかりだ。男子は俺含めて二人だけ、あとは三、四人の女子のグループがいくつか。人の目を気にして、何かに怯えるように群れているのに、徒党を組むと気が大きくなるところは、クラスで騒いでいる奴らと変わらない。そんな小動物みたいな部員たちの中で、下校時刻になるまでなんとなく絵を描いていれば、放課後はいくらだってやり過ごせた。

 はずだった。

 例の暴力沙汰は部の中にもあっという間に話が広がった。それを契機に、俺と一緒の教室にいたくないと、示し合わせて部活を休む女子が出始めた。部活は強制参加だと校則で決まっていた。どんな理由があろうと、基本的に例外はない。対応に頭を悩ませた若い女の顧問は、最初は女子たちをむりやり部活に引っ張ったが、一人が貧血だか体調不良だかで倒れて、ますます行き渋るようになった。

 唯一の解決策は、俺がその場からいなくなること、だった。俺にももちろん強制参加のルールは適応される。けれど、俺だって、遠くからひそひそ言われて、顔を向ければ露骨に目をそらされるような場所に、好き好んでいたいわけじゃなかった。

「せんせえ」と声をかけた時、顧問は女子生徒みたいに顔を強張らせた。「なんか空いてる教室とか、ないの」と訊くと、顧問は躊躇うそぶりを見せながら、わかりやすくほっとした顔をした。

 旧美術準備室。今はただの物置になっている埃っぽい教室が、その日から俺の根城になった。

 美術室から退く代わりに、俺は顧問に交換条件を持ち出した。油彩の道具を好きに使わせてほしいということ。画用紙とアクリル絵の具ではなく、キャンバスと油絵具で絵を描いてみたかった。

 顧問は人目を憚るようにしながら、いくつかの道具を奥から出して、使い方を俺に教えた。それから、何かの罪滅ぼしみたいに、「これ、先生のお古で悪いけど」と、初心者向けの油彩の教本をくれた。

 旧美術準備室は、常に薄暗くて温度の低い場所だった。欠けた石膏像や壊れた乾燥棚に囲まれながら、美術室から拝借してきたイーゼルと絵の具で絵を描いた。下校時刻になり、部員たちもすっかりいなくなったころ、人目を忍ぶように美術室に戻り、筆を洗って、帰る。それが、幽霊になった俺のルーティーンだった。

 人気のない場所に籠っているのは、一抹の寂しさよりも気楽さが勝った。おしゃべりの声をうるさく感じて苛立つこともない。埃っぽいせいなのか、くしゃみと肌荒れは少し酷くなった。何日も通いつめていると、じめじめしたにおいと画材のにおいが混ざって、何度も筆を洗った水みたいに、空気が澱んでいくような感覚がした。重い腰を上げ、がらくたの隙間を縫いながらどうにか窓までたどり着き、窓を開けた。長いこと開けられていなかった窓はきしきしと嫌な音をたてた。びゅうとぬるい風が吹きこんで、乾燥棚の金属がからからと鳴った。それ以外にこの教室には何の音もなかった。

 別に律義に絵を描く必要はない。こんな教室、教師も生徒も近づかないのだから、さぼって漫画を読んでいても、なんならまっすぐ帰ったってバレはしなかっただろう。顧問からは、コンクールに出すための絵は完成させてほしいと言われていたが、都合がよすぎる自覚はあるのか、ゆっくりでいいから、という言葉を欠かさなかった。俺はどこかムキになった気持ちで、美術室にいる誰よりも真剣に、滾々と絵を描いた。手になじむまでは違和感があった油彩も、要領をおさえるまでさほど時間はかからなかった。

 油絵具は乾くまでにかなり時間がかかるから、同時進行で何枚か絵を描いた。そうして描いた絵が知らないうちに懸賞に出され、そのうちの一枚が、なんとかというコンクールの最優秀賞に選ばれた。無人の体育館を描いた絵で、顧問が勝手に「青春」とかいう歯の浮くようなタイトルをつけていた。その「青春」のおかげで俺は全校生徒の前に引きずり出され、校舎の踊り場に絵が飾られるはめになり、参観日に来た施設長にめちゃくちゃに髪をかきまぜられた。

 とはいえ、教室でもどこでも忌避される俺の立場は変わらなかったし、ペアを作らされる時はずっと一人だけ余った。絵を描くことだけを考えながら授業をやり過ごして、放課後になったら無心で手だけを動かした。帰り道には、キイキイうるさい自転車をこぎながら、次の日に進める作業の手順を考えていた。放課後の二時間半のためだけに、俺は残りの二十一時間半をどうにか生き延びていた。

 


「『青春』って、あの絵の題名には合わないと思う」

 最初にそう言われた時、俺は思わず手を止め、まじまじとそいつの顔を見てしまった。

 ここに来て初めての来客だった。担任から言伝を頼まれて、美術室からたらい回しにされてきたらしい。確か同じクラスの学級委員だった。

 木立こだちあけ。頭いいんだから、と推薦の体で友達から学級委員を押し付けられていた生徒だ。そのあと、まさか本当にやるとは思わなかった、と本人のいないところで女子たちが盛り上がっていた。その苦さをなんとなく覚えていた。

 本人はいたって地味な生徒だった。肩の近くで揃えられた髪と、どこも着崩していない制服。なのに妙に肝が据わっている。へんなやつ、と俺は目をそらす。

「俺がつけたんじゃねえし」

「だよね。先生が勝手につけちゃったんでしょ。そんな感じする」

 女子にしては低い落ち着いた声が、人気のない教室に響く。「だって、あの絵の目線は、『青春』の外側にいる人の目線だもん。美術の先生なのにわかんないんだね」

 俺は返事をしないのに、木立はひとりで話し続ける。

「ねえ、絵描くの見ててもいい?」

「……はぁ?」

 俺がすごんでも、彼女は表情を変えない。情緒が薄い、けれど興味深そうな眼差し。

「絵がどうやってできるのか見てみたい」

 私、絵、好きなんだ。木立はなんでもないように言った。「だったら美術部入れよ」と言うと、「無理。描くのは全然だめ」と即答された。

「しゃべってるだけで描いてないやつなんていくらでもいるけど」

「そうじゃなくて。あくまで、自分は絵を描かなくていいっていう、無責任な状態で見ていたいっていうか。わかる?」

 木立は大人みたいなしゃべり方をする。わかんねーよ、と適当な返事をしながら、俺はパレットの上で絵の具を練る。

 木立はいつまでも教室の入り口に立っている。好きにすれば、と投げやりに言ったら、彼女はほんの少し嬉しそうな顔をして、スカートを直しながら壁際に座った。「てか狩岡って意外としゃべるんだね」という言葉は無視した。背中への視線も、パレットナイフで絵の具を混ぜているうちに、そのうち気にならなくなった。

 木立は下校のチャイムが鳴るまでここにいた。作業は時折見る程度だったらしく、手には美術史の本が握られていた。絵が好き、というのは、嘘ではないらしい。俺の視線に気づいた木立は、学芸員になりたいんだ、と、なぜだか少し後ろめたそうに言った。

「……なにそれ」

「美術館で働きたいの。美術品の管理をしたり、展示を考えたり」

 木立の説明はいまいちぴんとこなかった。美術館なんて行ったこともなかったし、そんな仕事があるのも、初めて知った。

 木立の目は、田んぼと畑と雑木林しかないこの町の外にある世界を見ていた。そういうところだろう、となんとなく思った。木立が本当の意味で大人たちに気に入られないのも、女子たちの輪からなんとなく、一見気づかない程度にはじかれているのも。

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