3、投げつけた言葉

 弟は死んだ。もしかしたら、俺が殺したのかもしれなかった。


 施設へと移ってからの生活は、決してやさしくはなかった。今までの普通が急に全否定され、新しい普通が周りの大人たちから押し付けられる。戸惑い、怒り、自己否定。言語化できない黒い靄はいつも身体の内側にあった。

 見知らぬ他人の集団の中にいきなり放り込まれ、共同生活を強いられる。どんな時でも周りに子どもの声がする。風呂も食事も大員数で、時間割や規則は、学校のようにきっちりと決められている。その中で、俺たちは常に好奇と吟味の視線に晒された。新参者というのはそれだけで娯楽なのだ。施設の子どもは娯楽に飢えていた。

 施設の子どもは様々なやり方で俺を試した。攻撃性のない弟とは違い、俺は相変わらずトラブルを起こし続けた。貸して、といきなり鉛筆を取られたこと、わざと食堂の席を塞がれたこと、手を洗う水道への横入り、きっかけは様々だった。引っ掻き返されて顔にできた傷は、みみず腫れになってなかなか治らなかったが、そのうち俺は、彼らなりの儀礼のうちに受容された。部屋で絵を描いていたら、「絵え上手いねえ」と無邪気にのぞき込まれたり、漫画のキャラクターや似顔絵を描いてとせがまれることもあった。同年代や年上の子どもよりも、なぜだか年下の子どもによく懐かれた。

 学校生活は、転校した先でもまるで変わらなかった。「生活保護の子」という色眼鏡が、「施設の子」という色眼鏡に変わっただけだ。授業のときも寝ているか絵を描くかしかしていなかったから、生真面目な教師からはちっとも好かれなかった。児童からも教師からも、腫物に触るような扱いをされるか、邪険にされるか、だいたいそのどちらかだった。

 変わり始めたことがあるとすれば、視界が不安定になることが減ってきたことだった。

 には前兆がある。頭が痛くなって、耳の詰まるような感覚や耳鳴りがする。予兆を察知した時、俺は「絵を通して世界を見る」という先生の言葉を実践しようとした。均一なようでそうでない壁の漆喰、服の布地の色合いや質感、腕時計の金属の光沢など、色々なものをじっと観察した。何をどう描くかを考えることは、気を紛らわすのにはちょうど良かった。

 退屈な授業中にも、窓の外の空や、揺れる木々や、そよぐカーテンを見ていた。動揺に振り回されることは少なくなり、代わりに、話を聞いているのか、と怒られることは増えた。

 そうこうしている間に、施設の職員いわく、俺は少しずつ「丸くなっていった」らしい。施設に入った当初にくらべれば、周囲を緊張させるほどの警戒心もなくなり、俺はいくらか人間らしく振舞えるようになっていった。



 俺の合格した試験に、弟は落第した。弟は、施設の子どもに仲間として受け入れられなかった。

 最初の食事のとき、盛切りの飯をあっという間に食べ終わり、「あの、おかわりって、できないですか」と訊いた時、空気がどんなふうに凍りついたか。情けないくらい声が震えていたのに、そんなことを聞かずにいられない食い意地は、食堂を静けさと忍び笑いで満たした。どうしてこんなのが弟なのだろうと俺は恥ずかしかった。思えばこのころから雲行きは怪しかったのだろう。

 弟は卑屈なほど臆病で、どんくさかった。体が大きくて動きがのろいから、よくドッジボールの的になった。運動も勉強も、まじめにやっているはずなのに、何をやらせても人より劣った。大まじめなのが尚更おかしいのか、お調子者が弟の動きを誇張しながら真似し、周囲の笑いを買った。弟は悲しそうにうつむくだけで何も言わない。

 弟が無抵抗を貫くことで、周りの子どもの揶揄いはますます増長した。そのうち耐え兼ねて弟が癇癪を起すと、それすら面白おかしく真似され、嘲笑の的になった。

 一度馬鹿にしてもいいと認定されると、人間としての尊厳を失うのはあっという間だった。名前の代わりに「おい、豚」と呼ばれていた彼は、施設の中であっという間に娯楽になり果てた。彼は加虐心を満たすためだけに蹂躙された。ズボンを下ろされたり、プロレスごっこ、と技をかけられたり。一見じゃれ合っているようにも見えたからか、施設の職員からは看過されていた。トイレの用具入れに閉じ込められた時には、さすがにちょっとした騒ぎにはなったが。

 弟からの助けを求める眼差しには、気がついていないわけじゃなかった。弟は俺を見つけると、すがるようにこちらをじっと見つめた。俺は彼の何か言いたげな目をずっと無視し続けた。助けてほしい、とはっきり口にしないのも、自分じゃなく誰かになんとかしてもらおうという他力本願も、俺の苛立ちを煽るだけだった。

 俺に嫌われているのは気が付いていそうなものだが、それでも弟は何かと俺にまとわりついた。彼への同情や後ろめたさがないわけではなかった。弟は施設だけでなく、新しい学校でも上手くいっていなかった。彼にはどこにも逃げ場がなかった。

 消灯時間になると、弟はたびたび俺の布団に潜り込みにきた。弟が二段ベッドのはしごをのぼると、ぎっ、ぎっ、と木の軋む音と、かすかな揺れがした。「兄ちゃん、入ってもいい?」と訊かれ、俺はできるだけそっけなく「いいよ」と答える。そんな夜が何度かあった。

 弟と一緒の布団で寝る夜は、母親と住んでいた時のことを思い出させた。それは弟も同じだったのだろう。ひそひそ喋りかけてくる弟に、俺は背を向けたまま、答えることも、答えないこともあった。

 母親に対する気持ちは、兄弟でまるで違っていた。母親のことなど思い出したくもない俺に対し、弟はあたたかな思い出をいつまでも引きずっていた。そんなものにすがらざるをえないほど、弟は女々しく、弱かった。悪意のない言い方をすれば、優しかった。

「クリスマスにさ、ケーキ作ったよね。おかあさんと」

 クリスマスパーティがあった夜も、弟はそんな風に話しかけてきた。その日彼は、施設長扮するサンタからもらったプレゼントを、ほかの子どもにめちゃくちゃにされたばかりだった。目と鼻がうっすら赤かったから、こっそり泣いていたのかもしれない。

 どこかとげとげした気分で、俺は弟の言葉を無視していた。

「ホットケーキに生クリーム塗ってさ、桃缶といちごの切ったやつ、間に挟んでさ。今日食べた本物のケーキもおいしかったけど、あれもおいしかったよね」

 俺は何も答えない。下で寝ている子どものいびきが聞こえる。

「また食べたいなあ、ホットケーキのケーキ」

「あのさあ」

 思ったよりも尖った声が出る。弟が身体を強張らせたのがわかった。

「いつまでそんなこと言ってんの」

 弟は何も言わない。俺はうつぶせになって、顔だけを弟の方に向けた。弟は唇をきゅっと結んでうつむいていた。今にも泣きそうな顔が、余計に腹立たしさを煽った。

「帰れると思ってるわけ?」

「でも、おかあさんが元気になったらさ、また……」

「いい加減現実見ろよ。あいつが一回でもここに来たかよ」

 施設の子どもの中には、たびたび親が会いに来ている人もいる。弟がそれを羨ましそうに眺めているのは知っていた。

「あいつは来ないよ。俺たちから逃げたんだから」

「……おかあさんのこと、どうしてそんな風に言うの?」

 俺は思わず弟の頭をはたいた。この期に及んでそんなことを言える神経がわからなかった。

 そして決めた。たとえ母親が迎えに来ても、弟が一緒に帰ると言っても、俺だけは絶対にここに残ってやる、と。家族なんて鬱陶しいだけだ。俺にはそんなもの要らない。

 しばらく俺たちは何も言わずにいた。そのうち弟がトイレに行きたいと言い出した。トイレに通じる道はほとんど屋外みたいなもので、暗いし、寒い。夜には時折、鳥か獣のような、妙に甲高い声が暗闇から聞こえる。夜中にトイレに行くことを怖がる子どもは多かった。

 一緒に行ってほしいのだろうが、弟はそうとは言わない。「ひとりで行けば」と言っても、いじいじと身体を動かしているばかりで、ベッドを降りようとしない。

 弟のこういうところが嫌いだった。

 弟はやがて諦めたように身体を起こした。ぎっ、ぎっ。規則正しく木の軋む音がする。

「あのさ」

 ひとつ間を置いて、弟がゆっくり顔を上げる。こういうテンポの遅さに、やっぱりイライラさせられる。

「もう話しかけるなよ。そういうのうざいだけだから」

 弟は少しの間、呆然と俺を見ていた。それから、重力に負けたように、こくん、と頷いて、そのまま廊下の闇の中に消えた。俺はそれを見届けてから、ふてくされた気分で寝返りを打った。

 アホの弟のことだから、どうせ忘れて話しかけてくるだろうと思ったのに、彼は俺の命令を律義に守り続けた。その日から弟は、話しかけてくることも、目を合わせてくることもなくなった。一緒の布団に入ることもなかった。同じ空間にいながら、俺たちは互いを空気のように無視し続けた。最初は後ろめたかったが、そのままずるずると日々を過ごしているうちに、何もかも手遅れになった。

 そのまま一年が経った。俺はもうすぐ中学生になろうとしていた。学校で一度、外の水道の傍で取り囲まれている弟を見かけた。弟はホースで水をかけられていた。服が体に張り付いて、脂肪のついた腹の形が露わになっていた。弟は身をよじったり呻いたりするたびに笑われていた。囃す人垣の間から、一瞬、弟の顔が見えた。まともに目が合ったが、俺も弟もすぐに目をそらした。

 優しい人になんかなれなかった。


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