4、遺された言葉
弟が死んだのは二月の寒い日だった。
門限の時間をすぎても、辺りが真っ暗になっても帰って来ない弟は、職員を含め地域の大人たちに総出で探された。その頃にはまだ、職員たちの顔に、心配と同時に迷惑そうな色が浮かんでいた。外には雪がちらつき始めていた。
弟を見つけたのは俺だった。もしかして、と思って、施設の大人に懇願し、母親と住んでいた貸家の近くに行った。弟はひしゃげて潰れていた。錆びてぼろぼろになった柵は、弟の倒れていた部分のちょうど真上あたりが壊れていた。
割れたアスファルトの上に散った血は、思っていたよりも黒々としていた。ところどころ白くてやわらかいものが飛び散っている。弟の丸々とした四肢はあらぬ方向に曲がっていた。大人の制止を振り払って、俺は弟の傍に駆け寄った。上にかすかに積もっていた雪を、俺はそっと手で払った。弟の身体は雪と同じくらいに冷たかった。ポケットに小さな紙切れが挟まっていた。ごめんなさい、と拙い字。
紙切れはすぐ大人のひとりに取り上げられ、それきり言及されることはなかった。
弟の死は事故として片づけられた。柵にうっかり身体を預けてしまって、腐食した金属が弟の体重に耐えられなかったのだろう、と。けれど、実際には単なる事故ではないことに、皆うすうす気がついているようだった。
弟をいじめていた連中も、それを看過し、時には加担していた職員たちも、皆がばつの悪そうな顔をしていた。自殺だという確信が根底にあるからこそ、彼らは頑迷に事故死を主張した。ように見えた。自らが告発されることがないよう、皆が怯えていた。俺はそれを冷え切った目で見ながらも、心のどこかで、同じように、告発されることを恐れていた。
弟の死は施設の管理責任を問う問題になり、一時期は謝罪をする施設長らの写真が新聞に載った。
弟を見つけても、葬式の最中も、涙は浮かばなかった。その代わり、きれいに取り繕われた棺の中を見ながら、彼に最後にぶつけた言葉を反芻していた。ごめんなさい、という文字は目に焼き付いて離れなかった。母親と同じ言葉を遺した弟を馬鹿だとも哀れだとも思った。
――君には、世界がそんな風に見えているんだね。
俺の絵を見て先生はそんな風に言った。弟にはどんなふうに世界が見えていたのだろう。母親を失い、施設でも学校でも虐げられ、兄にすら冷たくあしらわれた弟を、俺が不憫がる資格はどこにもなかった。
――僕は今から、君に呪いをかけます。
あの日、「絵を描き続けなさい」という前、なぜ先生がそう前置きをしたのか、俺はようやく理解していた。言葉というのは呪いだ。想像しているよりもずっと強く、人を縛る。
こんなことになるほど。
母親はとうとう葬式には来なかった。代わりに、またどこかで死に損なっていたと、風の噂で聞いた。会いに来ることはそれからもなかった。
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