15、大海を知る


 夏休み。真新しい画材を膝に抱えて電車に乗った。長い座席の端を選んで座る。二つ目の乗り換えで、正面に海が見えた。水面は夏の陽を容赦なく反射して、目が焼かれそうになる。海を見に行ったあの日のことが少しだけ頭によぎる。今は隣には誰もいなくて、俺はひとりで長椅子に座っている。手持無沙汰に文庫本をめくる。ロシア人の兄弟の話。名前がややこしくて覚えられない。

 予備校の最寄り駅で降りると、建物の密度の濃さに驚いた。熱をもったアスファルト。地元では見ないようなビルが、土筆みたいににょきにょきと生えていた。同じように画材を持った人間について行けば、迷わず予備校まではたどり着けた。雑多なビルが立ち並ぶ一角。ぐ、と肩に食い込む画材を持ち上げて、あつあつに熱された銀色の螺旋階段を上る。

 受付を終え、教室に一歩入った時から、空気の異質さを肌に感じた。緊張感と熱。授業が始まってからは、いっそうその空気が濃くなった。

 一日目はデッサンだった。瓶と林檎とブリキのバケツ。鉛筆を握っている時は自分の絵だけを見ていたが、ふと隣の絵が目に入った時、質感の表現の差に驚いた。全体の前に張り出されると、己の粗さはなお浮き彫りになった。線が荒い俺の絵は簡単に霞む。「雰囲気だけで描いてある感じがします。もっと実物をよく見て」講師の評が痛いほど耳に刺さった。真っ黒になった手をどこにおいていいのかわからなかった。

 別の日の油画は、ある程度道具を使い慣れていたこともあって、もう少しだけマシだった。数時間で完成を要求されることには戸惑ったが、形にすることそのものにはさほど苦労しなかった。オイルの使い分けを覚えると、もう少しスムーズに描けるようになった。だが、それだけだ。たくさんの絵の中に並べられると、拙いところばかり目についた。予備校には絵画コンクールで一位をとったことのある人間なんていくらでもいた。俺の絵は壁に貼られた何枚もの絵の中で、認めがたいほど凡庸だった。

 一番目を引いたのは、同じく体験生の作品だった。はっきりとした明暗の中に、怖くなるほどの引力の渦があった。初めてその絵を見た瞬間、負けた、とはっきり思った。勝ち負けなど意識したことはなかったのに。

 どこにいても自分が抜きんでていられるのではないか。そんな、漠然と抱いていた慢心は、簡単に崩された。井の中の蛙。手垢にまみれた言い回し。だがこれ以上にふさわしい言葉もない。「調子に乗るな」と突っかかってきた教師たちの言葉は、ある意味では決して的外れではなかった。俺は無意識に、けれど確かに自惚れていた。自分は特別なのではないか、と。

 普通にもなれず、特別にもなれない。絵だけが俺を生かし、この世に繋ぎとめたけれど、俺の絵はあまたある作品の、ほんのありふれた一つに過ぎなかった。



 予備校で流れる時間は目まぐるしく、食らいついて行くだけで一か月が過ぎた。何かを見つけられた感じはせず、むしろ、見失ったような感覚だけがあった。予備校の生徒たちは誰一人迷っていなかった。自分の進むべき場所をまっすぐ見つめていた。それが気持ち悪くて恐ろしかった。俺だけが子どものままのような気がして。

 最終日。俺は昼休みが始まると、すぐに教室から出る。オイルのキツいにおいが薄くなって、それだけで少し呼吸が楽になる。踊り場には合格した生徒の絵がずらりと並ぶ。その全てが怪物じみた何かを飼っている。引き込むような構図や、複雑だけど鮮やかで力のある色。執着。思想。哲学。ここにある絵と比べたら、授業で見る絵などままごとだ。俺はそのままごとにすらまともに食らいつけていない。

 息継ぎをするために煙草を吸った。喫煙所は浪人生のいるフロアにある。美大入試は二浪も三浪も珍しくはなく、たまに、見慣れない生徒が煙草を吸っている。それ以外は、ほとんど人も寄り付かない。

 見えるのは隣の建物の壁と室外機だけ。排気ガスや人の営みの混ざった空気。蝉の音。汗がじんわりと滲む。拾いものの煙草に、半透明の安いライターで火をつける。一箱目とは違う銘柄で、味も香りもこちらの方が好きだった。スパイスみたいな不思議な香りがする。手すりにもたれかかって大きく息を吐いた。

 昼休みまであの教室にいるのはごめんだった。文化階層の違いを見せつけられて嫌になる。通常授業は月にン万、年間でン十万とかかる。浪人するならさらに。美大に通うなら学費も。美大を目指すような奴らはみんな育ちが良い。俺には金も、金を出してくれるような人もない。今月は生活費がギリギリで、最終日の今日は昼飯を買えなかった。俺が施設の出らしいということは、同じ高校の三年生を経由してなぜか広まりつつあった。施設、という言葉を彼らはまるで刑務所か少年院みたいに口にした。

 煙では空腹は満たされないのに、俺はいたずらに酸素を消費する。

 時間ギリギリになって帰ると、隣の男がちらりと俺を見た。長い手足を持て余すように座っている。例の体験生だ。永野司、という名前は、名札を何度も見るせいで覚えてしまった。席につくなり、「うわ、不良だ」と顔を顰められた。「煙草のにおい」

 永野はわざとらしく煙たがる所作をした。よれよれの長袖の陰に、クレーターみたいな丸い跡。

 軽く睨むと、同時に講師が入ってきた。最後の一日で、この夏最後の油彩画を完成させる。終了後には上から順番に並べられ、講師からそれぞれ講評を受ける。最後の課題は、目の前のものを描くモチーフ課題ではなく、イメージ課題だった。俺はこちらの方が好きだ。枷が少ない分自由に動ける。

 俺の絵は、一番目の永野の絵から数えて、六つ目だった。「一か月でずいぶん成長しましたね」と講師はフォローにもつかないことを言った。

 永野は黒の使い方がうまい。闇の色が絶望的に深くて、瞳が吸い込まれていく。俺の絵は対照的に、普通に描いているつもりで、どことなく淡くてはっきりしない。

 煮え切らない気分で夏期講習が終わった。重い画材を肩にかけながら、よたよたと帰ろうとすると、誰かに呼び止められた。俺を「うわ、不良だ」と言ったのと同じ声。「駅まで一緒でしょ」と、永野は当然のように俺の隣を歩く。永野はひょろりとしていて背が高い。

「秋からも来る?」

 永野の耳にも俺の噂はきっと届いていたはずだ。

「いや。金ないし」

 そっか、の次に、僕もだよ、と永野が言ったから驚いた。特待生にならないかと講師から口説かれているのを見たことがある。

「特待生なら、学費免除だろ」

「父さんが許してくれないから」

 氷みたいに冷たい声。「うち、最低なんだ」長袖の下に隠されていた丸い火傷。冷房の効きが悪いあの教室で長袖なのは俺と永野だけだった。

 親から毒を浴びてきた奴らは、やたらと同類に敏感だ。

 幼少期。家の中を襲っていた嵐を、俺は思い出す。なんでいい子にできんの。そんなにお母さんが嫌いかね。母親は泣きながら俺を叩いた。俺の頬を、背中を、熱ぼったくなるまで打った手のひら。

「絵なんかに無駄金使うな、って。自分が時計とか車とかに好き放題に使ってるせいで金ないのにさ。それ言ったら『自分の稼いだ金を自分で使って何が悪い』『文句あるなら俺の家から出てけ』って。それで母さんが出てったのもわかんないんだよね」

 似たような話は施設でも再三聞いた。そりゃ大変だな、と俺は他人事のように相槌を打つ。ありふれた家族の毒。苦しんでいる子どもは、愛や孝行という道徳で透明になる。

「君はいいね。最初から全部持ってて」

 ぴしり、とヒビが入ったような感覚がした。全く同じセリフを永野にぶつけたかった。一番左上に張り出された永野の絵は、今でも目の裏に焼き付いている。

「そういうのは、親に金出してもらえる奴らに言えよ」

 言葉にあからさまな不機嫌がまとわりついた。「ああいう子たちって話通じなそうじゃん」永野は八つ当たりだということを公然と告白する。

「こっちは一人で生計立ててんですけど」

 えらいねー、と永野は子どもをあやすように言った。

「だけど、負債はないんでしょ。一人暮らしってことはさ。親に妨害されたりしないじゃん。いいね。君は自由だ」

 何もかもを諦めたような目が癪だった。俺が唯一、欲しくてたまらないものを、とっくに手に入れているくせに。

 改札を抜けようとして、がっ、と画材をぶつけた。みっともない俺を永野はけらけら笑う。こいつ、絵は上手いけど性格最悪だな。俺は舌打ちをしながら改札を通る。

「じゃあまた。君の絵、優しくてよかったよ」

 永野は反対側のホームに向かう。俺の絵が認識されていたことにほんの少し驚いて、同時にそれがすごく歯がゆかった。無性に馬鹿にされている気がした。恥ずかしさと悔しさに苛まれながら、いつかこいつを絵で殺してやりたいと思った。最初に彼の絵を見た時、俺が言葉の一切を奪われたみたいに。苛立ちをぶつけるように駅の階段を上った。

 永野の目は真っ黒な虚空だ。電車が風と共に雪崩れ込んでくる。向かいのホームで、永野はうつむきがちに電車に乗る。地獄へ帰るために。

 夏の終わり。ひぐらしが鳴いていた。

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