16、言葉を歌う
悪夢みたいに激しい一か月を終えた後、家に帰るなり壁際に画材を放り投げ、洗濯物とがらくたの中でうずくまった。熱いものは目からひとりでに溢れた。苦しくて情けなくてふがいなかった。こんなことで泣いている自分すら悔しかった。俺の今までの十六年を呪いたくなった。絵を描き続けなさい、と先生は言った。それがこんなに苦しいことだと思わなかった。俺の手にはそれ以外に何もないのに。心臓と目ばかりが夏の夜気よりも熱かった。
俺はあの魔窟に心奪われていた。夏休みが開けても、ノートの隅では学費の皮算用ばかりしていた。予備校にいた正規生たちのように、一年生や二年生のうちから通うことはほとんど無理そうだった。せいぜい夏季の無料体験のたびに潜り込むのが関の山だ。あとは三年生になるまで、爪に火をともして金を貯める。その後の学費は、奨学金をうんと借りればなんとかなるかもしれないが、この調子だと浪人になったら路頭に迷う。
修学旅行の申込書に大きくバツをつけたら、担任にいたく心配された。美大に行きたいからと俺は言った。半分は本当で半分は嘘だった。俺はこの世の何もかもを恨んでいる。俺より上手く生きれる奴。実家が太い奴。才能がある奴。すべてが憎いと思っている。だから俺は、だれかを殺すために絵を描く。
目標ができたのはいいことだなと、担任は例のべたべたとした憐れみの目で俺を見た。
相変わらず昼は食パンだけの学校生活だった。手を動かしていないと不安で、ノートには板書よりもスケッチばかりが増えた。放課後の居残りでもデッサンばかり描いていた。歪に削った十二本の鉛筆はどんどん短くなる。
二年生の夏。二度目の夏期講習に向かう途中。駅前の広間で、ひとりの青年が歌っていた。アコースティックギターを首にかけ、蝉の声に負けないくらい声を張り上げている。ざらついた違和感のある声。だけどその違和感が妙に意識を引き込む。
暑いのによくやるよな、と通り過ぎようとすると、彼の声が後ろからずがんと心臓を刺した。
お前に譲れないものはあるか、とシンガーは問う。
余計なお世話だ、バカ。青々とした歌声に俺は胸中で悪態をつく。
二年生になり、三年生になった。時折煙草を噛みながら、口座の数字を増やすことに執心する俺は、周囲からは真面目とも不真面目とも言われた。思い出作り、のほとんどにまともに参加しなかったから、クラスでは相変わらず異邦人のような扱いを受けていた。クマはその間も、「母ちゃんがおすそ分けしてくれって」と俺に野菜を渡し続けた。
予備校に本格的に通い始めると、金も時間も手元からあっという間になくなっていった。永野は最初の年の夏期講習以来ずっと姿を現さず、物置の片隅に一枚だけ、彼の描いた絵が取り残されていた。俺は見えない敵に噛みつき続けるように絵を描いた。努力、はしているつもりだった。飯を食う時間も惜しくて、食パンと野菜ジュースだけで動いていたら、一度ぶっ倒れてクマにも大家にもすこぶる怒られた。
「そんなだから肌荒れ治らないんだろ」
クマの口ぶりは気づくと随分遠慮がなくなってきていた。「肉食え肉」と押し付けられたソーセージパンを黙ってもそもそ食べた。憐れみだろうが何だろうが腹が膨れるのはありがたい。手癖で肘の内側を掻いたらまたクマにとがめられた。おかんかお前は、と別の奴が突っ込んで小さく笑いが起きる。おかん、というのが母親を示すのだと気づくまでに少し時間がかかった。
受験は長く、苦しかった。ずっと答えが見えなかった。電車に揺られる二時間で睡眠を貪りながら、綱渡りみたいに毎日を過ごした。自分を突き動かすエネルギーは簡単に枯渇した。美大に行って、どうするのか。何がしたいのか。そんな問いを突き付けられるたびに、俺は答えを濁し続け、無理やり手を動かし続けた。お前の人生には何の意味があるのかと訊かれている気がした。お前に譲れないものはあるか。シンガーの声が重なっていく。
俺が必死に藻掻いている間、駅前では相変わらず、例の青年がギターを抱えて歌っていた。通りがかるたびに人だかりは膨らんでいく。彼の歌声もまた魔物だった。つなぎは軽薄な調子でしゃべっていたのに、ひとたび歌い出した途端、別の世界に呑み込んでしまうような、異質さ。それはたぶん、永野の絵の持っていた引力に似ている。
青年の顔は全能感と希望に満ちていたが、目だけが妙に老成して見えた。歌声の津波に足をとられそうになりながら、俺はさっさと青年の横を通り過ぎる。果てのない空間を孕んだ目が一瞬だけこちらを見る。
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