17、思わぬ言葉

 卒業式の翌日。クラスの打ち上げにも部活の集まりにもいかなかった俺は、引き払う予定のアパートで黙々と荷物を詰めていた。いやに良心的で親切なこの下宿は、高校三年間、という制約がある。次の四月から、新しく施設を出て高校生になる子どもが一人、入れ違いでこのアパートに入居する。

 キャンバスを紐で束ねていると、来客の気配があった。「いつもお野菜ありがとうねえ」「いやいや、余ってるだけなんで」妙に打ち解けた会話。まさか、と思っていたが、すぐに大家が大声で俺を呼んだ。嫌な予感は的中するものだ。

 階段を降りると、クマがいた。よ、と手を挙げられる。いつもの詰襟ではなく私服なのが新鮮だった。なんで来たんだよ、と俺は顔をしかめる。

「ちょっと街まで出ようぜ」とクマが言った。「引きこもってばっかじゃ気が滅入るぞ。日光浴びないと」

「余計なお世話」

 俺は歯をむいたが、「あら、せっかくなんだから行ってきなさいよ」と、大家に無理やり追い出されてしまった。「若い者がおうちに籠ってるんじゃありません」二対一。劣勢ではなすすべもなく、生まれついての日陰者の俺は、うららかな光のもとに引きずり出される。

 光に目を眩ませながら、俺はしぶしぶ歩き出す。

 クマはいかにも高校生らしく三年間を過ごした。柔道部ではたしか部長だったはずだ。兄貴と違って目立った功績こそ残さなかったが、堅実に役目を果たしていた。少なくとも俺にはそう見えた。何せ俺は、唯一の男子だからというよくわからない理由で美術部の部長になったはいいものの、ろくな仕事をしないまま任期を終えた。

「街ってどこ行くんだよ」

「ちょっと行きたいところあってさ」

 クマはやたらと話を濁す。今俺たちは高校生という肩書を失い、何にも属さない時間を生きている。地に足のつかない奇妙な感覚。

 電車に乗って、ターミナル駅に降りる。県庁にほど近い街は、地元の腐ったような駅とは違って、曲がりなりにも賑わっている。発展している駅の外見はどこもかしこも似ている。似たようなビルがあって、服や化粧品やアイスクリームの店があって、広場がある。あの駅と似たような広場で、ギターと、カホンを叩く二人組が、陽気な歌を奏でている。周りに少しばかりの人だかり。歌はあの青年のほうが上手い。

「すごいよな、ああいう人って」

 羨望でいて侮蔑にも似た言葉を、クマは躊躇いなく口にする。俺はそのたびに、俺とクマの間に見えない線が引かれている気分になる。

「何が?」とげとげした気分で俺は口にする。

「お前もそうだけどさ。好きなことをちゃんとやろうって思えるのが」

「普通はできないって? お前はいつもそればっかだな」

 本音が思わず口から転がり出るのは、どうせ最後だと思っているからか。それとも、春のなまあたたかい陽気に気が触れたのか。

 クマは黙っている。少し驚いたような顔で。

「結局、普通でいられることが心地いいから、そういうこと言うんだろ」

「……お前は自分が思っているよりちゃんと普通だよ」

 ちゃんと普通。今もほら、そんなことを口にする。

 俺は普通じゃない。だけど凡庸。真人間にも特別にもなれない。なら俺はなんだ? 俺はまだその答えを見つけられない。

「そういうことじゃねえよ」

 声を荒げた俺に、通行人がちらりと、気にしていない風に視線を投げる。

 最低だ。わかっていた。俺はやり場のない怒りをぶつけているだけ。クマには悪意はない。だけどそれがたまらなく嫌だ。目に見えない小さな棘が幾つも肌にまとわりつく。

「なあ。ずっと思ってたけどさ。クマがいつも言う普通って何なの」

 普通を自認する人間にとって普通という語が優しいのは、自分は安全圏に居られるからだ。守られた場所にいられるからだ。

 能天気なお前に何が分かるんだよ。世界の底を見たことないお前に。歪に愛されたせいで暗闇に落ちたことのないお前に。心の中に嵐が吹き荒れる。父親がいて母親がいて、飢えることも虐げられることもなくて、当たり前に愛されてきて。普通から外れずにいられたから、そんなことを簡単に言える。

 今の俺はきっと、傷ついた顔をしながら俺を叩いたあの人と、全く同じ顔をしている。

 ごめんな、とクマは小さな声で言った。クマはそれから、ちょっとついてきてくれないか、とうつむいている俺の袖を引いた。

 駅ビルの中に入って行く。ガラスのショーケースやきらびやかな照明。場違いに華やかな、宝石みたいなきらめきに満ちた場所。

 クマが足を止めたのは化粧品売り場だった。女の園だ。客も店員も当然のように女ばかり。俺たちはひどく場違いじみていて、販売員が怪訝そうに俺たちを見る。何かの間違いかと思ったけれど、クマは動かない。

 化粧品売り場には、どう使うのかも見当がつかないほど、色々なものが置かれている。口紅だけはかろうじてわかる。クマも同じなのか、口紅の、色々な赤色のテスターの前で立ち止まる。

 きらきらしていたり、淡かったり、鮮やかだったり、くすんでいたり。ピンク色っぽいの、オレンジ色っぽいの。血みたいな色。同じ赤にもいろいろな表情とニュアンスがある。

「ヒサって色とか詳しいだろ。絵描いてるし。俺よりセンスいいだろうから、選んでほしくて。ひとつ」

「誰かにあげんの?」

「……そう、だな。うん。そう」

 変な返事。緊張しているのだ。らしくない。

 意中の相手に告白でもするのか。

 俺は金色のケースに入った口紅を次々に眺めた。化粧品なんてわからない。触ったこともない。

 少し悩んで、一番きれいだと思った、瑞々しいさくらんぼみたいな色を選んだ。「いいなこれ、確かにきれいだ」とクマはパッケージの一つを手に取る。値札には四四〇〇円と書いてあって、俺は思わずぎょっとしてしまう。口に塗るだけなのにこの値段。

 クマは迷いなくレジに持っていく。お包みいたしましょうか、と営業スマイルを孕んだ声。

 それから、本屋を冷やかしたりアイスクリームを買ったりしながら、俺たちはだらだらと時間を潰した。核心には何一つ触れないまま、さっきの嵐なんてなかったみたいに。春の日差しはあたたかいが、手元のアイスクリームはなかなか柔らかくならない。春らしい爽やかなミントグリーン。チョコミントはやっぱり歯磨き粉みたいな味がする。がりがりとチョコチップを口の中で砕く。

 アイスのカップを捨て、帰るころには、日はぼんやり黄みを帯びていた。温かな暖色に照らされて、長く影が伸びる。西日を反射するビルの窓がやたらと煌めいて見える。

 信号待ちの時間、クマが「あのさ」と口火を切った。

「あの口紅さ、オレのために買ったんだ」

 信号が青になって、雑踏が動き出す。

 言葉が追い付かないまま俺は取り残される。

「全然似合わないだろ。笑っちゃうだろ。柔道なんかやってていつも汗臭くてさ。ガタイ良くてクマなんて呼ばれて。男の中でもわりかしゴツい顔しててさ。わかってるよ」

 人ごみにもみくちゃになっても、体格の大きいクマは目立つ。しっかりした眉毛を八の字に寄せながら、クマは少し目元を震わせる。彼が闘っていたものの正体を、俺は今更になって思い知る。

「オレは兄貴みたいになれなかったから。どこまでも普通でしかなかったから。だから少しでも失望させたらダメだと思ってたんだ。こんなのきっと親父に見つかったらぶん殴られる。男らしくない男を親父も兄貴も犯罪者みたいに思ってるから」

 そうか、こいつも。

 俺は自分の過ちに気がついて、彼に必死に追いつこうとする。

「だけど、オレ、どうしてもほしかったんだ。ショーケースの横通るたびに、無意識に目が行ってさ。自分でもわからないんだ。なんでだろうな」

 こいつもどこかで、普通になり損なっていて。

 俺は津波にどかんとぶち当たる。通りすがる人を避けそこなって、まともにぶつかる。

 普通じゃないのは世界で俺だけみたいに、どうして俺は思っていたんだろう。

「ごめん、気持ち悪いよな」クマは言い訳を重ねて俺から心を離そうとする。図体はこんなにでかいのに、怖がっている子どもみたいだ。俺たちはまだ十八歳で、ぐにゃぐにゃで生まれたての自我はいつも不安で、些細なことで簡単に傷ついてしまう。

 正直なところ、俺は戸惑っている。戸惑っている自分にも戸惑っている。一人前の差別心と忌避を、俺を今まで遠ざけてきた人間と同じ醜さを、俺も持っていたのだということに気づいてしまった。

 だけどそれを表に出すことが、まっすぐクマを悲しませることだけは、痛いほどわかった。

 交差点を渡り終わって、クマは少し遠くから俺を見ている。

「きれいなものが好きなんだよ、人間は」

 声が震える。西日が目に突き刺さる。逆光で表情の見えないクマを、あんなに鬱陶しいと思っていたクマを、なぜだか俺は必死に繋ぎとめようとしている。

「一緒だろ。きれいな石を拾うのも、写真を撮るのも、口紅がほしいのも、絵を描くのも。きれいなものが手の中にあったら素敵だと思うから、自分の手で描けたら嬉しいと思うから、だから」

 俺の言葉は何かを紡ごうとして、春のめっぽう強い風にさらわれる。

 言葉尻を見失って、俺は何かを誤魔化すみたいに笑う。少しだけ泣きそうになっていた。



「美大、どうだった」

 帰り際、いつもの薄ぼんやりした最寄り駅。ずっと訊きたかっただろう言葉が、今更になってやっと出てきた。

「だめだった」

 できるだけ何でもないように、俺は言った。

 現役で受かるほど甘くもなければ、実力もなかった。現役合格をすれば、少しは、特別ななにか、があることの証明になるかもしれない。俺はこの期に及んで、自分にとことん甘い望みをかけていた。それがどれほど馬鹿なことだったか、痛いほど思い知らされた。

「じゃあ来年も頑張るわけ?」

「そうだな」

 俺は高校生じゃなくなって、正真正銘庇護を失って、何者でもない何かになって、もうすぐ、この町を出る。

 じゃあな。手を振って俺たちは別れる。いつもと変わらず。何の感慨もないようなふりをして。

 ありがとう、と最後にクマが言った。



「久人くんは優しい子だったね」

 最後の食卓。煮物の干ししいたけを箸で取りながら、大家が感慨深そうに言った。

「どこが」

 言葉は考えるより先に出ていた。優しい、なんて俺の対極にある言葉じゃないのか。

 俺は学校をサボりまくっては灰皿をいっぱいにした。注意されてもうるせえよと睨むばかりだった。絵ばかり描き散らかして、アドバイスも聞かず門限も守らない天邪鬼だった。

 どうしてこの人は、俺が鬱陶しがっているのをわからないのだろうと、露骨に嫌がる態度を見せ、わざと冷たい言葉をぶつけたことだって、幾度となくあった。

 俺はこの人を傷つけたいと思っていた。クマと同じように。ずっと。

「俺大家さんのこと嫌いだったけど」

「知ってる」

 穏やかな声のまま、大家は目じりにわずかに皺を寄せる。

 気づかないほど鈍感だと思っていた。鈍感な人間が苦手だと思っていた。がんもどきを咀嚼しながら、少しずつ味がしなくなる。

「だけどいつも、呼べばちゃんと来てくれたし、お料理もきれいに食べてくれたね」

 俺はいつも最悪なタイミングで、自分の最悪さに気づく。自分勝手で馬鹿だと思う。いつになったら学習するのだろう。

「向こうでもしっかりね。ちゃんと食べるんだよ」

 もうすぐこのアパートには新しい住人が来て、俺の帰る場所はなくなる。

 

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