42、言葉が重なる


 一週間ほどたって、陽介を伴ってタカトがうちを訪れた。緊張している様子とはいえ、葬儀の時よりもだいぶ顔色がよくなっていた。改めて見ると、この子も随分と大きくなった。初めてうちに来たときは三歳だったか。その頃よりすらっとした手足と、生意気そうなはっきりした猫目が、母親によく似ている。

 長い月日が経ったのだと不意に感じた。ふたりが死んでからもう三年になるのか。写真の中だけ止まった時間のぶん、自分も止まっているような気がしていた。

 灰皿で煙草を擦り消す。

「絵、描いてみるか」

 随分ぎこちない言い方になった。誤魔化すように次の煙草を出そうとしたら、「ヒサ」と目でたしなめられた。

「おれ、絵、あんま上手くないし」

 口をとがらせる陽介。「最初から上手い奴があるかよ」薄く笑いを吐くと、ますます拗ねたようになる。

「上手くなくたっていいんだよ。絵の具をでたらめに乗せるだけでいい。――そういうのが案外高値で売れたりするしな」

「売る気かよ、ヒサ」

 父親の苦笑につられて、陽介の口元が綻ぶ。とりあえず座っとけと言い残し、乾いた洗い物の山からマグカップを発掘した。子どもが何が好きかはわからないが、とりあえずホットミルクを入れた。「陽介、ありがとうは」「……ありがと」ふてくされた声は相変わらず。

 描きかけの絵をどけ、真新しいキャンバスを置く。どうしたらいいかわからない様子だったので、絵筆を持たせ、上から手を握った。子どもの小さな手だと思っていたのに、俺の手では覆いきれない。それでも夕花の手の感触を否応なしに思い出す。

 ――パパぁ、と俺を仰いだ顔と、舌ったらずな声。

 動揺に見ないふりをして、陽介の手をゆっくり導く。油壷に筆を入れ、パレットに適当に出してあった赤と混ぜた。簡単に林檎を描く。光の当たる部分は薄く。陰の部分とヘタのところだけに、暗い色を重ね、最後に別の筆でハイライトを置いてやる。

「すっげえ」

 頬を紅潮させる陽介。なかなか可愛いところもあるらしい。

 そのまま新しいキャンバスを渡す。しばらく好きに描いていいと言うと、「ロボット描いていい?」「恐竜は?」「新幹線は?」と矢継ぎ早に質問が飛んできた。警戒が解けた途端に人懐っこい。「おうおう、いくらでも描け」笑いまじりに言いながら、どうにか平静を取り繕う。

 絵を描かせている間、別室でタカトと少し話をした。俺の持ってきたパンフレットにじっと見入りながら、タカトは深刻そうに何度も頷いていた。

「これは大人向けのグリーフケア。俺も何度かグループワークに行ったけど、子どもには少し心細いかもしれない。小学生くらいの子どものケアだったら、トラウマ治療にも遊戯療法とか色々あるから、ちゃんとした児童心理士のいるようなところがいい」

「でもあの子、子どもだましとかすぐ見抜くよ」

「子どもだましと子ども向けは違うだろ。発達段階ってもんがある」

 そっか、とタカトはそのまま黙り込む。俺が彼を諭しているのが新鮮だった。陽介のことになると、タカトはどこか冷静さを欠きがちだ。それにどこかしら不穏な気配を感じる。

 早めに切り上げて戻ると、陽介は絵の具であちこちを汚してべたべたになっていた。「この短い間に、なんでそんな汚せるわけ?」まったくもう、と呆れるタカトは不穏な影が消え、すっかり父親の顔に戻っていた。



 音楽と哲学しか俺に教えられるものはないから。何かの折、タカトが自虐的に言ったのを覚えている。その言葉の通り、羽山親子はよくふたりで歌い合わせたり、愛や正義や幸福についての話を、とりとめのない会話のように話した。俺はその二人のやりとりを、二人にしかわからない言葉での内緒話のようだと思った。

 二人はたびたびうちに来た。陽介は来るたびににょきにょきと大きくなっていた。父親に倣って「ヒサさん」と俺を呼び、いたずらをけしかけてはけらけらと笑った。けれども、仏壇の前で父親と一緒に手を合わせている時間だけは、真剣な顔立ちで目を閉じていた。「この子はお祈りには慣れてるからね」とタカは言った。指を交差する祈りの手だけが、真剣だからこそどこかおかしい。

 タカトがツアーで台湾まで行った時には、ちょうど夏休みだったこともあり、陽介がうちに泊まりにきた。小麦色に日焼けした身体はやっぱり去年よりも大きくなっていた。遊びに来た、といっても、子どもの喜ぶものなどろくになければ、どこかに連れていくこともなかったから、陽介は仕事場まで俺を覗きにきたり、それに飽きればだらだらとテレビを見ているばかりだった。宿題をやっていた時に一度、質問された問題をうまく教えられなかったときは、「ヒサさん本当にセンセーなの? もっと勉強した方がいいよ」と生意気なことを言われた。「大人は図形の面積より大事なことが山ほどあんだよ」と言ったら「じゃあなんでガッコーで教わるの?」とずばりと切られた。賢いだけに面倒な子どもだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る