20、祝いの言葉

 本命の入試の二週間前になってインフルエンザになった。一人暮らしでは世話をしてくれる人もおらず、悪寒と関節の痛みで、寝ることすらままならないまま、ひたすら毛布の中にうずくまっていた。枕元にティッシュの残骸がうず高く積もる。食料もなかったからカルキ臭い水だけを胃に入れていた。

 初めてまともにバイトを休んだ。居酒屋のほうは「ああ、そう、お大事にね」とすんなり暇をくれたが、人手の足りないパチンコ屋のほうからは、長い溜息のあとに「タイミング考えろよ。使えねえな」と言われ、電話が切れた。受話器を乱暴に置いて畳に倒れこんだ。優しい言葉をかけてくれたのは予備校の講師だけだったが、「焦ってもしょうがないよ」という言葉の向こうに、この子は今年も棒に振るのか、というかすかな憐憫を感じていた。

 熱が下がるのを待つのは、子どもの頃、嵐をひたすらやり過ごしていたのに似ていた。その頃よりも孤独と不安はずっと生々しく俺を襲った。病院代が予想外に高かったのに、バイトを休めばそれだけ給料が減るのだから無理もなかった。繰り返し見る悪夢の中で、入試に落ちる夢も、金がなくなって路頭に迷う夢も、幾度となく見た。

 絵を描かずに何日も過ごしたのは久しぶりだった。焦燥感の奥に、今年もだめなのかもしれないという絶望感と、もしそうなったらどうするか、という妙に冷静な気持ちとが交互に浮かんでは消えた。

 直前に数日休んでしまったのは大きなハンデだった。数枚分を積み重ねられなかった悔しさより、諦めが勝っていた。入試当日にはほとんど受かる気は残っていなかった。どうにでもなれと投げやりな気持ちで課題に取り組んだ。課題に無理やりな拡大解釈をあてはめて、強引に自分の描きたいものだけを描いた。餞別のつもりだった。

 合格発表まで、すっかり落ちたような気で今後の目算を立てていたが、ダメもとで見に行った掲示板には、なんとびっくり、俺の受験番号があった。

 喜びと実感が追い付くまでには、かなりの時間がかかった。ひばりや、いまだに年賀状を送ってくれる施設長や、高校の時の下宿の大家は、俺よりもずっとずっと大袈裟にはしゃいでいて、俺のほうがいまいち熱狂から取り残されていた。アパートの更新やら奨学金の申請やら入学金と授業料の減免申請やら、手続きに追われているうちに、あっという間に四月が近づいてきていた。

 ずっと、何かの間違いなんじゃないか、という気がしていた。今にでも訂正の連絡と謝罪が来るのではないかと。俺は自分の技量も実力も信じられていなかった。大学から送られてきた書類に、俺の名前が宛名としてあるのを見て、ようやく、間違いじゃなかったという実感が伴った。

 重くのしかかっていたものが外れて、肩はずいぶんと軽くなっていた。慢性的な頭痛と、悪化を辿るばかりだったアトピーは、受験が終わってからかなり改善していた。俺は思っていたよりも不安でがんじがらめだったのだと気がついた。美大にいけばとりあえず教員免許がとれる。それがあればたぶん、食いっぱぐれることだけはなくなる。

 一息つけるようになると、長いこと切っていなかった髪を切りに行った。床屋のおやじもまた、俺が春から美大生だと知るに、大袈裟なまでに俺を褒めた。短くさっぱりとした髪をドライヤーでぶわああと撫でられながら、どうせだから髪染めちゃいましょうよ、サービスするから、と言われた。

「無料でいいよ。合格祝い」

 時々、こういう気前のいいことをするおやじだった。俺が貧乏で身寄りがないと知っているから、髪を切りに来たときはいつも、こっそり値段をまけてくれていた。

「美術系なんてパンクな人多いんだから、舐められちゃわないように、ね。明るくした方がカッコよくなって女の子にもモテるよ」

 言いくるめられて、俺は釈然としないまま生返事をする。貧乏人はとかく無料という言葉に弱い。興味がないわけではないから、ものは試しと染めてみたら、思っていたよりもブリーチが効く髪質だったらしく、説明されていた色より倍くらい明るくなった。いきなりド金髪になった自分の顔には違和感しかなかった。「男前男前、似合ってるよ」とおやじには言われたが、その後のバイトではひばりに「ガラ悪っ!」とけらけら笑われた。



「ほんと一目でヤンキーくさくなったね。もともと目つきわるいのに」

 裸のまま、俺の傍に寝っ転がったひばりが、ゆっくりと俺の髪を撫でた。そうかよ、と俺は気だるく彼女の言葉を流す。事後は相変わらず身体がだるくて、ずっしり重いくせに妙にふわふわと軽い。それでも、最初にはなかった余裕が少しずつ生まれつつある。後始末にもだいぶ慣れてしまったのが、どこか悲しい。

「かっこよくなったよ」

「嘘つけよ」

「ほんとだもん」

 何の意味もない言葉の羅列が、弛緩した空気の中にぼんやりと漂っていく。あ、跡、とひばりが自分のつけた歯型を指でなぞった。声を殺すとき、ひばりはやたら俺の肩やら首やらに噛みついた。キスマークなんて洒落たもんじゃなく文字通りがりがりと齧られるので、冗談じみた半月型の歯型が薄赤く残っていたりする。

「合格、おめでとう」

 身体を重ねたあとだけ、ひばりはやけにしんみりと素直になる。

 あの夜以来、温度の低いだらしない関係は、ずるずると続いていた。ひばりのまわりにはいつも複数の男の影があって、寂しくなったとか喧嘩したとか別れたとか、あるいはただただ家にいたくないとか、そういう夜にひばりは俺のところに来た。恋愛相談を受けたこともあった。ひばりが好きになるのはどうしようもない男ばかりで、いくつも痣を作っていた時期もあった。幸いその男とは別れ、本人曰く、今は好き勝手にフリーを楽しんでいる。

 俺は欠落を埋めるだけの都合のいい存在だ。先輩は優しいから、つい寄り掛かったくなっちゃうんだよね、といつかの夜に言われた。俺は別に優しくないと言うと、でも拒まないじゃん、あたしのこと否定したりしないじゃん、となぜだか怒ったような顔をされた。

 久人くんは優しい子だったね。あの時大家に言われた言葉が頭によぎった。そうか、俺は拒まないだけだ。拒絶の結果弟がどうなったか、俺の心の奥にはずっと根が張り続けている。

 俺はずっと流れに飲まれながら、流されて、流されて、自分の意志なんてまるでないまま、ここまで生きてきてしまった。

「なんか、全然嬉しくなさそうなんだね。すごいのに」

 汗が冷えて寒くなってきた。「そうか?」と返事を濁しながら、俺は毛布を肩口まで引っ張り上げる。ひばりはその中にもそもそと潜り込んでくる。

「かっこいいじゃん美大生なんて」

「……お前の兄貴は現役だろ」

「もう行ってないもん」

 ひばりはさらりと口にして、うとうととまどろむ。「一人の天才は家というどうしようもないものに潰されました」嘘みたいに現実味のない口調でひばりは語る。永野は相変わらず、俺がほしくてたまらないもの簡単に手に入れて、そのくせあっさり手放す。

「親が金出さないって言ったらどうしようもないからね。父親が使っちゃうだけで家に稼ぎがないわけじゃないから、奨学金とか学費免除も受けれないし。途中まで頑張ってたんだけどね、兄貴。潰れちゃった。父親に画材捨てられて、そこでもう、ぽっきりいっちゃったみたい。今もう部屋から出れないんだ」

 いいね、君は自由だ。あの時の永野の台詞が頭によぎる。一度父親が部屋に怒鳴り込んだら、めちゃくちゃに暴れて大変なことになったらしい。「それ以来うちは本物の地獄だよ、揃いも揃ってろくでなしだとか聞こえよがしに言われて。誰のせいだっつーの」ひばりはいたずらに笑い飛ばそうとする。

 家族はときに暴力そのものだ。暴力は自尊心を根こそぎ折っていく。欠けた自尊心は戻ることなく、代わりに卑屈さと憎しみだけが心にまとわりつく。

「……兄貴はたしかに上手かったけど、あたし、先輩の絵のほうが、繊細できれいで、ずっとずっと好きだよ」

「そうかよ」

「本気にしてないでしょ」

「してない」

「ひどーい」

 冗談っぽく笑い飛ばしたあと、ひばりは急に、慈母のような顔になった。もう一度、俺の髪を梳く。その所作がどことなく母親に似ていて、俺は恥ずかしいような苦いような気持ちになる。眠気に負けて静かに目を閉じる。

 ねえ、付き合おうよ。

 思ってもみない言葉が聞こえて、思わずぱちりと目を開けた。

「本当に男の趣味悪いな」

 皮肉のつもりで言ったら、へへ、とだらしない笑みを浮かべられた。

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