最終話、言葉をつなぐ
羽山タカトの訃報はすぐに耳に入った。あの日彼の身体は冷たい海の底に沈んだ。東京湾から引き揚げられた遺体から遺書が出てきたことと、俺に来た電話の内容から、彼の死は自殺として処理された。
「身内から自殺が出るなんてねえ」「子ども一人残して、可哀想だと思わなかったのかね」「お父さんが自殺なんて本当に気の毒ねえ」
斎場には陽介の祖母に当たる人がおり、同じ年頃の友人たちとしきりに耳打ちしあっていた。教会のいたずらに高い天井に、その声はどこまでも響いて聞こえた。斎場にはほかにもいろんな噂が満ちていた。中には、バンドメンバーとうまくいっていなかったらしいとか、子どもを人質にとられての自殺だったのだというものもあった。
陽介はぶかぶかの学生服を着て、長椅子に呆然と腰掛けていた。泣く代わりに、人形のような無表情で座り込んでいた。仕事の関係者がほとんどを占める中で、ひとり子どもの彼はひどく浮いていた。
弔辞を読み終わって一段落した後、いたたまれなくなって、陽介の隣に座った。少年の頭がちらりとこちらを仰ぐ。いつもの溌溂さもあどけなさも表情にない。怜悧な顔立ちの中には、ただ、大人びた失望と悲しさだけがある。
――この子はこんな目をするようになってしまったか。
そうさせたのは間違いなくタカトの罪だ。胸が痛かった。あいつはなんてものを背負わせたのだ。まだ小学校も卒業していないような子どもに。
「辛かったな」
泣くことすらできない深い悲痛の中にいた俺に、タカトは全く同じ言葉をかけた。あの時、電話越しにタカトが俺の状態を察しなければ、俺はきっとあのまま野垂れ死んでいた。
陽介は人形のような顔のまま、じっと手元を見つめている。手の中には細身のシンプルな指輪があった。華奢な指がそれをいじくる。結婚指輪だろうか。いつだったか、タカトが浮かれながら俺に見せてくれた。
俺はタカトがいたからひとりじゃなかった。
だけど、この子は。
「俺も自死遺族なんだよ、陽介」
陽介はようやく、ゆっくりと顔をあげた。
「昔弟が死んだ。お前と同じくらいの時」
少しだけ、表情に驚きが宿る。思えばあの時の俺も、少しも泣けなかったのだったか。
あの時から俺は、後悔だけをひきずって生きている。
「最初は何も感じないかもしれない。実感もないかもしれない。だけどそれは、心を守ろうとするための無意識の防衛本能だから。自分が冷たい人間なんじゃないかなんて思ったりはしなくていい」
誰かが言った言葉。
「少し時間が経ってから、その無意識のバリアが壊れる時がある。悲しくて、つらくて、腹立たしくて、憎たらしくて、自分じゃどうにもできなくなることもある。だけどそれも自然なことだから。そうなったら、俺のとこにいつでも連絡していいから」
俺が言ってほしかった言葉。
うん、とかすかな返事が聞こえる。
「立ち直るには時間がかかる。それも当たり前なんだ。専門的なケアがいる。その手の人間は職業柄何人か知ってるから、落ち着いたら紹介する。四月からの中学校も、無理はしなくていい」
俺らしからぬ口数の多さに、陽介の戸惑う気配がする。
「……どうしてこんな子どもを残して逝くかね」
声が震えた。陽介が悔しげに目を伏せる。目線の先にはやっぱり、例の指輪がある。
斎場の外に、遠く喧騒があった。身内と関係者だけの葬儀のはずなのに、どこからか情報が漏れていたのだろう。彼を悼む声と大袈裟なほどの嗚咽が聞こえる。熱心なファンの中には、不登校の中学生の自殺を皮切りに、彼を追って死んだ人間も何人もいたらしい。
「なんでヒサさんは、俺のこと、そんなに気にしてくれるの」
陽介は淡々と呟く。自分のことすらどうでもいいと思っているように聞こえた。「タカは俺の恩人だからな」さっき自分がマイクの前で語った言葉を、俺は思い出す。「俺を見つけてくれたんだよ、あいつは」
「なにそれ」
「そのうちわかるさ」
「……またそうやってはぐらかす」
拗ねた言い方にやっと、いつものあどけなさがあった。それに俺はどうしようもないくらい安心していた。
「なあヒサさん」
「ん?」
「三位一体説によれば、イエスは神の子であると同時に神なんだ」
父親譲りの口上。粗末な木のベンチの上で、陽介は足を揺らす。だぶだぶとした袖から覗く手が、しっかりと指を組んで握られている。
ステンドグラスの明かりがゆらりと揺れる。
「だったら俺も、神になれるよな、ヒサさん。親父がそうだったんだからさ」
生前、一番興に乗っていたころの彼は、神とまで褒めそやされた。熱心なファンは信者とまで言われた。ここ最近は、特に揶揄の意味で、
俺は言葉を失った。陽介の瞳はまっすぐで真剣だ。しばらく呆然として、それから少し、笑ってしまった。
「なんで笑うのさ」
不服そうな陽介。いや、と誤魔化しながら、薄っすらにじんだ涙を拭う。
何を言うかと思えば、随分と大きな口を叩いたものだ。親父の言葉に並ぶ不遜さだ。俺はね、救い主になりたいんだよ。ちょうど陽介の父親になったばかりの時、彼が語ったことを思い出す。
「音楽、好きか」
「……うん。好きだよ。歌うの」
灰色だった陽介の声に、少しずつ色が戻り始めている。まだ根深い喪失と不安の揺らぎを含んではいたが、その中にまっすぐな芯がある。
両親を失って、彼はこれから、祖母に引き取られると聞いた。黒の留袖を着て、始終陰口に忙しそうなあの御仁だ。
よるべのない、みなしご。弟を失ったばかりのときの、かつての俺が今、目の前にいるような気がした。
「陽介」
俺は襟を正し、陽介の傍に膝をつく。かつて先生が俺にそうしたみたいに、手を取って、まっすぐに目を見る。吊り目がちな双眸がしっかりと俺を見つめ返す。
「俺が今から言うことをよく聞け。いいな」
陽介は戸惑いがちに、けれどはっきりと頷く。
絵を描き続けなさい、と先生は言った。その言葉を受け取ったから、今俺はここにいる。
呪いとは
「歌を続けなさい。それがお前と世界を繋げてくれる」
この子に呪いは必要ないかもしれない。けれどそれが、どこかで彼をこの世と結びつけて、助けてくれますように。俺は手に力をこめる。
「辛いことはこれからも山ほどある。音楽そのものが辛くなることだってある。だけど絶対に音楽をやめるな。歌い続けろ。――それが必ず、お前を救うものになるから」
かくて俺は呪いの言葉をかける。どうかこの子が生きていけますようにと。
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