35、言葉が生まれる

 二月の暮れ。四限目の授業を終え、急いで昼飯を押し込んでいた時、「狩岡先生!」と職員室で甲高い声がした。受話器を片手に持った、学年主任の女性教師が、真っ青な顔でこちらを見ている。「奥さん、破水したって」

 職員室中の目が、ざ、とこちらを見る。おにぎりが喉につまりかけた。予定日は三日後だったはずで、その日には有休をとっていたが、今日はこの後六限目に授業がある。どうする、と俺が答えを出すより先に、「行ってあげなさい」と肩を叩かれた。

「奥さん、いますごく不安だから。出産前後の、弱っている時期にされたことってね、女の人はずーっと覚えてるから。良くも悪くもね」

 ドスの効いた声音は脅すようだった。

「授業は……」

「そんなのどうにでもなるから。ほら、早くタクシー呼ぶ!」

 分厚い手でばんと尻を叩かれる。俺はおぼつかない所作で電話をかける。出来の悪い生徒に戻った気分だ。そうこうしているうちに、周りに人が集まってきた。「男が行ったってすることないでしょ」「何言ってんの、行くのが大事なんですよ」口論。「ついに父親かあ」「がんばれよ」無責任な応援。焦りのせいで、荷物をまとめる手が逆にもたつく。「先生、帰んの?」「破水って何?」面白がって近づいてきた男子生徒を「君たちは教室帰りなさい」と学年主任が手で払う。

 追い立てられるがまま職員室を出た。タクシー代は想像の十倍は高かった。ぎょっとしながら会計を済ませ、病室に雪崩れ込む頃には、軽く息が切れていた。てっきり苦しみにのたうち回っているのかと思っていたら、木立は案外平気そうな顔で、きょとんとしながらこちらを見ていた。助産師と目配せし合って、くすくすと笑われる。「慌てすぎじゃない?」と。

 陣痛らしき腰痛はまだ来たり収まったりらしい。「子宮口もまだ一センチしか開いていないので、まだまだですよー」傍で見ていた助産師が笑いを抑えながら言う。そこからはひたすら待ちの時間だった。何もかも放り出した授業のことが気にかかった。職場に電話をして戻ってくると、木立が顔をしかめていたが、まだ、分娩室に入るほどの状態ではないらしかった。

 そのまま何時間も経った。顔をしかめる頻度は、ほんの少しずつ多くなっていたが、助産師は確認のたびに「まだですね」とあっさりと言い捨てた。何かの機械の音。慌ただしい足音。誰かの絶叫が聞こえるたびに、木立はびくりと身をすくませていた。あれが産婦の声か、と気づいたときは俺も鳥肌が立った。

 夜が更け、やがて朝になった。事態は焦れるほどゆっくりと進展する。ゆるい眠気に意識が飛びかけていた時。うぅ、という木立の唸り声で目が覚めた。眉間に深く皺が寄り、細い首に髪が張り付いていた。慌ててナースコールを押す。お水、とうわごとのように呟いた木立に、ペットボトルのストローをあてがった。切れるような呼吸の中で、痛みからか、時折声が漏れ出ていた。顔色が真っ青だった。

 慌ただしくストレッチャーが運ばれてくるころには、声は呼吸のたびに大きくなっていた。痛い、いやだ、なんで代わってくれないの、と泣き言と恨み節。次第に発音も怪しくなり、吠えるような声の隙間で、もう無理、死んじゃう、と言っていることだけが辛うじて聞き取れる。

「これからだからねー」

 ストレッチャーで運ばれている最中、獣のような大声が鼓膜を貫いた。握られた手にぎりぎりと爪が食い込む。静かな木立がこんなに叫ぶのを初めて見た。人をこんなにする痛みとはどれほどのものなのだろう。内臓がきゅっと縮む。木立は汗だくになりながら何かと闘っている。その中で痛みひとつ感じない俺はあまりにも場違いな気がした。

 分娩室に入ってからも、お産はなかなかスムーズには進まなかった。初産は時間がかかるものだというが、一時間も二時間も大声を絞り出し続ければ、さすがに体力の消耗が激しいらしかった。髪を振り乱して叫ぶ木立は何か別の生き物みたいだった。「頭、出てきてるよ。あとちょっと。いきんで」もう力など残っていない、という風に、木立が頭を振る。いやいやをする子どもみたいに。

「もうちょっとだから。頑張って。赤ちゃんも今頑張ってるから」

 むり、と上ずった声。大きく開いた足の間から、どぷ、と液体があふれ出る。胸にすがりついてきた木立の頭を受け止める。

 しばらくして、何かの器具で掻き出されるようにして、子どもがこの世に引きずり出された。女の子の赤ん坊は、長いお産で消耗していたのか、産声が心配になるほど弱々しかった。やがて、真っ白なタオルに包まれた新生児が、そっと木立の胸の上に置かれた。

 皺くちゃの顔はまるで猿みたいだ。これが腹に入っていたと考えると十分にでかいが、そら豆みたいな大きさの拳や足は、やっぱり嘘みたいに小さい。木立が手のあたりに指を伸ばすと、小さな拳がゆっくりと指を握った。

 病室で落ち着ける頃には、すっかり夕方になっていた。夕日が目を焼くほど鮮やかな日だった。黒い枝にぽつぽつとついた白い花が病室の窓の外に見えた。

「暁美、の由来は朝方に生まれたからか」

「うん。そうだったと思う」

 木立は虚脱したように呟く。新生児用のベッドの上で赤ん坊は静かに眠っている。

「――夕花、は安直か」

 きょとん、とした沈黙。なんでもない、と言葉を濁そうとすると同時に、「どんな字?」と質問が重なる。

「夕方の夕に、花」

「いいね。……うん。すごくいい」

 まっすぐな賛辞がこそばゆい。ゆうかー、と木立がささやきかけると同時に、子どもの口元がむにゃりと動く。

「よかったね、素敵な名前をもらったよ」

 木立のほころんだ口元は子どもとよく似ている。穏やかな気持ちよりも先に、いよいよ引き返せなくなった、という実感だけが募っていく。無性に煙草が吸いたかった。「手、大丈夫?」と言われて、自分が腕を引っ掻いていたことに気がついた。


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