36、拙い言葉

 一度生まれてしまった命を元に戻すことはできない。

 役所。書類が手から離れ、もういいですよ、と職員に言われて、ますます胃がぐっと重くなる。これで公的にも人間がひとり増えたことになる。昨日のひっかき傷は深いみみず腫れになっていて、服に擦れるたびに痛む。

 子どもをうまく可愛いと思えなかった。あるのは肩が凝りそうな重圧だけ。責任感、とも言えない脅迫観念だけが俺を押さえつけている。うまく愛することも慈しむこともできない。沐浴をやってみましょうかと言われた時も、首も座っていない新生児のやわらかさと儚さに、落としたら終わりだということだけで頭がいっぱいになった。ふにゃふにゃと猫みたいな声で泣く子どもは存外力が強く、緊張に思わず息を止めながら、ぬるま湯に浸した。終わった後にはどっと汗があふれ出た。

 沐浴。ミルクをやること。おむつを替えること。必要な諸所の世話は、不器用なりに見よう見真似でどうにかなった。一番困るのは、「もっと話しかけてあげて」「笑いかけてあげて」といった言葉だ。「表情をやわらかくして」と言われるほど、身体も顔も強張っていくばかりだった。

 反応がない子どもに、何を話しかけていいのかわからない。どうやって笑いかければいいのかわからない。まだ目もろくに見えない赤子に、どうしてそんなことをする必要があるのか。必要なことだと説かれても、頭ではわかっても、腑に落ちない。

 生まれさせてしまったこの子に、俺が与えられるものなんてあるのか。

「狩岡先生!」と声が聞こえて、びくり、と肩が跳ねた。その拍子にボールペンが手元から抜ける。

 職員室のデスクの上。いつの間にか船をこいでいた。「生徒さん、来てますよ」年配の教師はキッと目を吊り上げて俺を見ている。俺はボールペンを拾い上げ、職員室の入り口で待っている美術部の生徒のもとに急ぐ。

 この頃夜泣きがひどくてろくに寝られない日ばかりだった。産声のか細さなど嘘みたいに、張り裂けんばかりの絶叫が家中に響いた。隣から苦情の連絡が来たこともあった。

「先生、大丈夫? 隈すごいよ」

 スケッチブックをめくっていたら、生徒が不意に呟いた。十一月には美大の推薦入試を控えている生徒だ。

「俺のことはいいから、今は作品づくり」

「はあい」生徒が肩をすくめる。スケッチブックのデッサンとエスキースを見ながら、こまごまとしたコメントをしている間にも、俺はあくびを何回もかみ殺した。

 腕のひっかき傷は日に日にひどくなり、何年かぶりに、暑くても長袖が手放せない生活が戻ってき始めている。

 俺の中の困惑は消えないままなのに、赤ん坊はびっくりするほど成長が早い。いつの間にか丸々と肉がついて、最近ではよくわからない言葉もしゃべる。静かな子どもだ、と思ったことなんて嘘みたいに思えるほど、家の中は絶えず夕花の声が響いている。およそ八割が泣き声で、うるさいと思ったことも、一度や二度ではない。

 家にいるのが憂鬱だと思うほど、外での作業は進んだ。受験生の相手を除けば美術部はほとんど放任主義だ。その時間でようやく、絵を描く、という息継ぎのような行為を取り戻しつつあった。家ではとても仕事の絵など描けない。二年目からは担任の業務も課され、そうなれば生徒指導やら面談やらで自然と時間もとられた。学校にいる時間はずるずると長くなっている。

 どこまで行っても、結局のところ、家族という関係には煩わしさがつきまとう。玄関のドアを開けるのが億劫になったのはいつからだろう。

「パパおかえりー」

 木立が夕花の手を持ってこちらに振ってくる。ただいま、という声に重なるように、あーい、と夕花が声を上げる。わかっているのか、いないのか。

 妻子がいて、教師なんて職に就いて。まるで、子どもの頃に苦手だった「健全な大人」そのままだ。自嘲的な気分のまま靴を脱ぐ。

 風呂の間、夕花を見ていてほしいと言われる。夕花は母親の手から離れた途端、癇癪を起こすように泣いた。「はいはい」といなしながら飯を温めている間も、のけぞったり蹴ったりしながら俺の腕を嫌がり、母親を求める。肩口に鼻水をこすりつけながら、耳元で激しく泣きわめく。その声に、睡眠不足の頭がぎりぎりと痛む。

 しばらくすると泣き疲れたのか、声が弱々しくなってきた。俺を親の仇のように拒んだ夕花は、ゆっくりとソファの上におろすと、再び激しく泣き始めた。夕花は小さな手足をじたばたと振り回す。おむつは濡れていないし、試しにミルクを作って持って行っても、夕花は顔を反らして嫌がった。勢いを取り戻した泣き声はちっとも収まらなかった。とりあえず縦抱きの姿勢に戻す。汗の酸っぱいにおいと、乳くさい、甘ったるいにおいがする。

 人間は言葉を持たない獣として生まれる。かつて、幼いころの俺がそうだったように。コミュニケーションの取れない生き物相手に、俺は「父親」をどう演じればいいのだろう。



 夕花が五ヶ月目に入った頃、タカトが陽介を連れて遊びに来た。陽介はしばらくタカトの脚の後ろに隠れていたが、挨拶をしなさい、と促されて、おずおず陰から出てきた。人見知りがあるのか、「陽介です」と言うなり、もじもじと顔を伏せてしまう。「何歳だっけ?」とタカト。「さんさい」と差し出した手は上手く三を作れずピースサインになっていた。

 傍らにはオフの日の立川幸。最初は恐縮していた木立と俺だったが、陽介の「あかちゃん、ちいさいねえ」という声を境に、なんとなく空気が弛緩してきた。ベビーベッドを覗き込む陽介を、タカトが脇を持って抱きかかえる。「陽介もあのくらい小さかったんだぞ」「えーうそだぁ」じゃれる父子。試しに夕花を補助付きで抱かせてみたりして、静かに時間は過ぎる。

「パパたちは向こうでどうぞ。積もる話もあるでしょ」

 子ども用に手土産の菓子を開けていた時。幸がそう言って女優の微笑みを見せた。どこか含意のある笑みだった。

「いえ、お気遣いなく」俺はどこかこわごわと答える。

「何言ってんの、こっちはこっちで旦那の悪口言うに決まってるでしょ」

「幸さん」苦笑いで諫めるタカト。この夫婦の力関係が知れようというものだ。

「いいから、ほら」

 手で払われてしまい、父親どもはすごすごと退散する。「ごめんね、失礼なこと言って」タカトはどこか居心地悪そうに肩をすくめる。

 さて、そうは言っても行く場所はなく、俺たちリビングからベランダに追い出された。夏も盛りのベランダは生憎南向きで日当たりが良い。俺たちの立場の低さが思いやられる。

 ベランダに来ると煙草が吸いたくなるのはいつものこと。行き場をなくした溜息がひとりでに口から洩れる。何かを誤魔化すような、上滑りした近況報告の後。「幸さんがさ」と、タカトがどこか重々しげに口を開く。

「子宮に癌が見つかったんだって」

「そう……か」

 俺は言葉を見つけられない。「まだそんなに、進んでないみたいなんだけどね」声にはいつもの覇気がない。蝉の声にかき消されそうな、小さな溜息。

「考えたくないけど、万が一ってことはあるから。もし陽介と二人になったら俺は大丈夫なのかなって思ってさ」

「自信ないのか、らしくないな」

「そりゃね。……血、つながってないもの」

「血なんて関係ねえよ」

「そんなもんかなあ」珍しく弱気なタカト。

「血が繋がってたって終わってる親子なんて山ほどある」

「説得力あるね」

「だろ?」

 軽く笑ってから、俺と夕花がそうなる可能性もあるのか、と頭によぎる。娘に嫌われる父親、なんて死ぬほどありふれた話だ。

「大丈夫だろ、あれだけ懐いてるんだから」

 はにかみがちな陽介は最初、タカトにべったりとすがりついていた。虐待されていて大人を信用していない子どもは、まずああはならない。殴られている子どもは手を差し出すだけで身を竦める。彼らが身をもって学習させられるからだ。

 無垢で子どもらしくいられるのは健康的な環境の表れだ。生きるために、大人にならなければならなかった子どもを、俺は施設で何人も見てきた。それはきっとタカトも同様だろう。少なくとも、陽介はそれなりに健全に育っているように見えた。

 だといいな、とタカトが言った途端。おとうさぁん、と小さな手が窓ガラスを叩いて、「こら、陽介!」とあわてて制止する幸の声が聞こえた。


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