37、棘のある言葉

 俺はきっと幸せだったのだろう。

「家族」がいること。妻と娘がいること。たったそれだけで、俺に向けられる眼差しから棘が消えたことに、俺はなんとはなしに気がついていた。子どもの頃から俺は異物だったのに、目が合うだけで眉をひそめられるのが当たり前だったのに、子どもという存在があらわれたとたん、世間は普通やまともや幸福という判を簡単に押した。俺は理解可能な存在に還元され、彼らの論理のうちに、「普通」の中に受容された。「お子さんが生まれてから、作品に深みが出ましたね」二冊目の画集の担当編集は平然とそんなことを言った。急に手のひらを返されたような違和感を飲みこめる程度には、俺もいくらか社会性を身に着けていた。

 教職と画家の両立をしようとすれば、おのずと休む間もなく走り続けることになる。割り振られた仕事を消化すると同時に、即座に次の仕事が来る。時には生徒の事故や万引きの対応といったイレギュラーな仕事も。休みらしい休みはとれないまま、業務の隙間で立ったまま冷えたコーヒーとサンドイッチを押し込んだ。その隙間の時間にすら、木立はよく電話をよこした。夕花が離乳食を食べないこと。熱を出したこと。発語の遅さ。木立の気の揉みようはどこか神経質にも見えた。木立に言わせれば俺は楽観的で他人事で、そんな俺の態度が木立を何度も失望させた。

 夕花は気づけば座るようになり、立って歩くようになり、たどたどしくも日本語らしき言葉をしゃべるようになっていた。壁に貼られた落書き。箪笥や冷蔵庫に貼られたシール。床に転がったぬいぐるみや玩具。子どもにもみくちゃにされた家には幸せの体現らしき空気がこれでもかと充満していて、息が詰まりそうだった。

 滅多なことがない限りは、手をあげることはおろか、怒鳴ることもほとんどなかった。時間に余裕がある休みの日には、曲がりなりにも家族サービスと呼ばれるものを提供した。夕花も絵を描くのが好きだった。公園に連れて行っても砂に絵ばかり描いていた。家にいる時は、よく裏紙にでたらめな模様を描いては、「みてー」と自慢げに掲げていた。

 食うに困ることも、電気やガスが止まることも、親の不安定な情緒に振り回されることもない。両親の揃った家で、蝶よ花よと育てられた夕花は、この世の汚いものなど何も知らないという顔をしていた。きっと喜ばしいことなのだろう。けれど、のんびり屋で甘えん坊で屈託なく笑う自分の娘が、俺には時々ひどく遠いものに思えた。

「家族」という羊水みたいに生ぬるくあたたかなもののは、どこかで俺を窒息させた。俺は息継ぎを求め、キャンバスに逃避した。子どもを産んだのは間違いだったんじゃないかと何度も思った。何かと理由をつけて家族から逃れようとしていることは、木立にはとうに気づかれていた。「なんで私がパパって呼んでるかわかる?」いつかの休日、ひとりで家を出ようとする折に、木立はそう言って悲しげに俺を見つめた。含意には気づかないふりをして、俺は引き止める視線を振り払った。



 夕花が三歳になったばかりの、あたたかい日。俺は珍しく家で絵を描いていた。次の年から異動になったせいで、学校に荷物を置くことも、学校で作業をすることもできなかった。自室の一角にイーゼルを置いて、油絵具を練る。部屋の外からは台所の物音と、ばたばたと走る夕花の足音がしていた。

「パパぁ」

 夕花の声がした。ドアの隙間から顔がのぞく。そのままこちらに走り寄り、足元に縋りついてくる。柔らかな頬が俺の膝に潰れる。「夕ちゃん、パパお仕事中だよ」木立が諫める声も、「ゆーちゃんパパのお仕事見たいんだもん」と夕花はもろともしない。

「だめだってば、邪魔になるから」「やあだ」「こっちでビデオ見よう」「パパのお部屋がいいのぉ」押し問答。このまま癇癪になったらうるさくてかなわない。俺が「いいよ、おいで」と言って折れた。俺の返事を聞くなり、夕花は身を弾ませながら俺の膝の上によじ登ってきた。うさぎのゴムのツインテールがひょこひょこと揺れる。

 しばらく夕花を膝に抱いたまま絵を描いていた。小さな頭が俺のあごのすぐ下にある。やわらかな髪が当たってくすぐったい。子ども特有の、ヨーグルトみたいな甘酸っぱいにおい。太ももの上が重く、体温のせいでじっとりと熱かった。

「へんなにおいだねえ」窓を開けていてもテレピンのにおいは残っているらしい。「嫌か?」「んーん。パパのにおいだもん」最初は膝の上で大人しくしていたが、次第に落ち着きがなくなってきた。夕花は油絵具に興味津々で、素手で触ろうとするのを左手で何度も抑えた。

「ねー、ゆーちゃんもやってみたい」

 夕花が肘を引っ張る。躊躇していると、「ねえパパ、やってみたい」と膝の上で足をばたつかせ始めた。足がイーゼルを蹴りそうになる。わかったから、と言うまで動きは止まない。「ちょっとだけな」夕花の手に筆を持たせて、上から俺の手のひらで包み込んだ。ふかふかとした小さな手の感触。

 それほど繊細な作業が要る段階でないのが幸いだった。誘導しながら、キャンバスに筆を置かせてみる。薄紫色が画面の上に乗る。思ったように色を置くのは想像以上に難しい。二人羽織のような体制が面白いのか、夕花はされるがままに操り人形になっている。

「ねえパパぁ」

 のんびりとした動作で夕花が俺を仰ぐ。

「ん?」

「大好きぃ」

 にやぁ、と弛緩した笑顔。心臓が痛んだのは罪悪感か。何かを誤魔化すように、「ありがとう」と空いているほうの手で頭を撫でる。

「ママぁ、みてー、お手伝いしてるの」

 洗濯物を取り込みにいった木立を目ざとく見つけ、夕花が言った。「そう、いいねえ」という声がベランダから聞こえた。

 油絵具に飽きると、夕花はしばらく俺の部屋でお絵かき帳に絵を描いていた。幾度もの「パパぁ、みてー」のたびに俺の作業は中断された。妙に静かになったなと思ったら、勝手に絵の具を開けて手をべたべたにしていた。「何やってんだもう」慌てて絵の具を拭き、手を洗わせる。叱られた夕花は拗ねて泣きべそを描いていたが、気づくとそのまま俺の部屋の床で寝入っていた。

「普段いないパパがいるから嬉しいんだよ」

 諸々が一段落した時。俺の後ろでコーヒーを飲みながら、木立が言った。傍らには眠っている夕花。普段の行いをちくりと刺すような言い方には、気づかないふりをする。

「そうか?」

 夕花を疎ましいと思ったことがあるのも、今日感じた罪悪感も、悟られたくなかった。こんな自分が子どもに好かれる理由など心底わからなかった。

「……四月からの夕花の保育園なんだけど、お迎えだけ、週に何日か頼めないかな。ちゃんと仕事に復帰したいから」

 筆が止まった。緑と白色を練り合わせながら、考えとく、というその場しのぎの返事が口をついていた。

「よろしくね」

 その表情と声音がどこか哀しげだった。最近木立にはこんな顔ばかりさせているような気がした。


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