34、中身のない言葉


 月日が進むにしたがって、育児に関連した本が家の中にどんどん増えていく。「これ、すごくわかりやすいから、読んでみて」と言われていた本が、手を付けないまま鞄の中で角をすり減らしていく。夕飯どきに、拾ってきた知識をあれこれ披露してくれることもある。よく知ってるな、と言ったら「親になるんだからちゃんと勉強しなきゃね」と当然のように言われた。何事もお勉強から入る木立らしいといえば木立らしい。ちくりと刺されたようで耳が痛かった。

 ベビーベッドだとか、沐浴用の小さな湯桶だとか、家の中に子どものための道具が揃っていく。中には、離乳食のためのミキサーやら裏ごしの道具やら、時期尚早なのではないかと思うものもある。妊娠中期をすぎても木立のつわりは完全には消えなかった。そのうち、胸も腹も張ってきて、妊婦らしい体型になってきた。白い皮膚の向こうにうっすらと青い血管が見えた。それにどこか生物的なグロテスクさを感じてしまったことは、とてもじゃないが言えない。

 仕事と家との双方を大事にするのは、やはり易しいことではなかった。ずっと、自分の生活など顧みずに絵を描いてきたのだから、自分以外の他者が生活のうちにいることが、生活を大切にするという感覚が、いまいちつかめない。

 つかめないなりに、木立に要求されたことにはできるだけ応じた。部活の時間は六時半まで、一年目は担任の業務もない。できるだけ仕事は持ち帰ることにしていた。

「狩岡先生、奥さん甘やかしすぎじゃない? 妊娠って病気じゃないんだからさぁ」

 そそくさと帰ろうとする俺に、教師たちからの苦言が追いかけてくることもあった。「妊娠させたのは俺なんで」と言うと、何とも言えず微妙な、ぎこちない空気になった。「何、下ネタ?」茶化す声。「今時の若い人は家事も育児もちゃんと手伝ってあげて偉いねえ」という言葉に、女の教師が「自分の子どもなのに手伝うってなんですか」と噛みつき、軽く口論になりかけていた。俺はそれに他人事のふりをしながら帰った。そのくらいの図太さがないとやっていけない。

 木立の体調はずっと不安定だった。仕事も行けたり、行けなかったり。ただ、腹がでかくなるにしたがって、精神的なものは多少、波が小さくなったかもしれない。

「ぐえ、今日はすごく動く日だなあ」ダイニングテーブルでテストの採点をしていたら、苦笑しながら木立が言った。胎動は想像よりずっと激しいらしく、猫が暴れ回っているみたいだと言っていた。「触ってみる?」木立が手招く。赤いサインペンを置いて、俺は恐る恐る手を伸ばす。羊水でぱんぱんに張った腹は分厚いゴムのようで、思っている以上に固い。「ここだよ、ほら」導かれた手のひらに、ぽこん、と何かが触れた。咄嗟に手を引っ込めた俺を、「何びびってんの」と木立は可笑しそうに見ている。

 身体も心も目まぐるしく変わる木立のことが、俺は少し怖かった。木立の立ち振る舞いはすでに、母親、として地に足のついたものになってきていた。むしろ、俺に妊娠を告げたその時から、どこか母親として腹が据わっているような感じがした。俺は未だに、自分が父親になるということを、どこか受け入れられていない。

「父親」を知らないから、どう振舞えばいいのかわからない。亭主関白だなんだと詰られる「ステレオタイプな父親」にリアリティを抱けない代わりに、理想や指標になるものも俺の中に何もない。――そんなことが言い訳にもならないのは、タカトを見ていれば嫌でもわかる。

 ある日の夜、タカトとの仕事の電話のついでに、そんな愚痴が口をついて出た。煙草のない口寂しさのせいだったかもしれない。ベランダの手すりにもたれながら、冷たい風に吹かれていた。

「俺にとっての父親はイエスさまだからなぁ」とタカトは笑いまじりに言った。教会の施設なだけあって、福音書とか創世記とか、そういう読み物だけはたくさんあったのだという。

「父親、っていうのが子どもを教え導くようなものだとしたら、俺を教え諭したのは主の言葉だろうな」

「信心深いことで」

「俺の信心なんてたかが知れてるけどね。俺は創世の神話よりもダーウィンの進化論のほうを信じるし、食事の前の長ぁいお祈りの時も『そんなのはいいから早く食わせてくれ』って思ってたよ」

 曰く、神父のいつ終わるとも知れない口上を聞き終えてから、アーメン、と言わなければ食事にありつけなかったらしい。

 それから少し、寂しげな沈黙があった。昔話が思い出させるのは結局、俺たちには親がいないという現実だけだ。

「……結局さ、何が正解なのか考えながら、手探りでやってくしかないんだよ」

 中身があるようでない言葉。

「親になるのが初めてなのは、皆一緒なんだから」

 電話の向こうで物音と子どもの泣き声がして、「ごめん、一回切るわ」と電話が終わる。

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