33、歯の浮く言葉

 そこから先は、慌ただしさのせいであまり記憶がない。産むか、産まないか。俺たちに産み育てる能力と金があるのか。何度も話をした。俺には不安しかなかったが、結局は木立が、産みたい、と言って押し切った。せっかく授かった命なのだから、と。

「それに、私は、あなたと家族になれることが嬉しいよ」

 その一言で、腹を括った。

 このままでは出費を賄いきれないのは自明だった。正規採用の話にまだ間に合うかと問い合わせたが、俺に降ってきていた枠はすでに別の人間で埋まっていた。あちこち問い合わせてどうにか見つけた採用枠に、間一髪でもぐりこんだ。

 義両親への挨拶も行った。常に張り詰めた空気が流れていた。妊娠の報告をした途端、向こうの父親から、まず木立が頬を張られ、それから俺も胸倉をつかんで引き倒された。「お父さん!」と木立の悲鳴が聞こえた。恨み言と一緒に二、三発殴られた。抵抗することはできたが、歯を食いしばったまま、されるがままになっていた。

 向こうの母親はさめざめと泣き、「またうちの暁美を傷物にした」「いい加減にしてちょうだい」と俺を激しく責め立てた。「あなたが中学生の時に暁美に何をしたのか、こちらはちゃんと覚えているのよ」

 地獄絵図だった。母親は「おうちに戻ってらっしゃい、仕事なんてやめていいから」と木立に取りすがっていたが、「私はこの人と一緒にいたい」ときっぱり告げた。声が震えていた。

「勝手にしろ、馬鹿娘が」父親がそう言って座卓を蹴った。「その代わり二度とうちの敷居をまたぐな」

「ちょっと、お父さん……!」と、今度は母親の悲鳴。

「俺がちゃんと幸せにします」正座によろよろと座りなおして、喉から絞り出した。家族ごっこ、という言葉が頭をよぎった。こんないかにもな展開、何かの三文芝居みたいだ。本人たちは可笑しくないのだろうか。乾いた笑いを、切れた唇の内側で押し殺した。

「あーあ、勘当されちゃった」

 帰り道、実家を背に木立が呟いた。言葉のわりに表情も口調も清々しく、どこか浮足立っていた。

「よかったのかよ」

「いいの」

 伸ばして来た手を握った。相変わらずひんやりと冷たい手だ。組んだ指の間から体温が吸い取られていく。

「成長したね、殴り返さないんだ」

「そりゃな」

「偉いよ」

「そっちもな」

「えー?」

 木立はとぼけたふりをして、曖昧に笑った。「だってずっと言いなりだっただろ今まで」俺が真面目に返すと、今度はふざけた調子もなく、うん、と短い返事があった。

「……一緒だったからだよ」

 手を握る力が、ぐっと強まった。空いている方の手で、頭のてっぺんを撫でる。

「がんばりました」

「何それ、先生っぽい」

「先生だからな」

「何度聞いても似合わないね」

「うるせえな」

 木立の口から、ふふ、と笑い声がこぼれた。ありがとうね。初めて手をつないだあの時みたいな、静かな声音。

「頑張らなきゃね」

 そうだな、と頷きながら、俺はその先にある果てのない道を見ていた。何やら取り返しのつかないことに手を出してしまったという実感だけがあった。



 挙式はせず、籍だけを入れた。式を挙げようにも双方に呼べる親族がいないし、俺も木立も相変わらず友達が少なかった。形だけでも、と安い指輪を買った。慎ましやかに始めた二人での暮らしは、俺が急に忙しくなるタイミングと、木立のつわりのタイミングとが重なって、段ボールの開封と片づけがなかなか進まなかった。

 引っ越してから、木立は少しずつ神経質になった。煙草はもってのほか、テレピンのにおいにも過剰に反応するようになり、家では煙草を吸うことも絵を描くこともやめてほしいと言われた。特に煙草は、子どもの身体にもよくないからと。

 シャンプーも、ドラッグストアで買えるようなものを使わなくなった。人工的なにおいが急に受け付けなくなったらしく、台所用や洗濯用の洗剤も、無香料のものをわざわざ探して買っていた。口にできるものも極端に減った。ご飯や魚のにおいもダメで、吐き気がひどい時には水すらろくに飲めないこともあった。そのくせ、胃にものが入っていないのも気持ち悪くなるとかで、常に菓子を食べている時もあった。

 どちらかというと夜型だった俺は、教師という朝型生活の極致に適応するのに必死だった。洗濯物をまわして、洗い終わるのを待つまでに、木立が作っておいてくれた夕飯を掻っ込んで、授業の準備や書類仕事をした。できるだけ早く帰ってほしいと言われていたが、テストの前後は特に、仕事以外のことを顧みる暇がなかった。それを詰られて軽い喧嘩になったことも一度や二度ではなかった。

「煙草も、やめてって言ったよね」

 顔色の悪さと比例して、口調が強くなる。余裕がないのだとは思っても、それはこちらだって同じだ、と思う。

「家では吸ってないだろ」

 外でも極力帰る前は避けていたし、本数だって随分減らした。「においがわかるの。本当にやめて」と木立は眉を顰める。悪意がないとわかるのが余計に、感情のやり場がなかった。そんな急に断てるかよという言葉を呑み込む。

「家にあるのも捨てて。子どもが口に入れたりするかもしれない」

「……まだ先だろ、そんなの」

「じゃあ急に全部やめてって言われたらできるの? 現に今もできてないのに?」

 ヒステリックに責め立てた、直後。俺の顔を見て、木立が怯んだように目を伏せた。

「……ごめん、今、色々心配で。不安定みたい。――お風呂入ってくる」

 木立は逃げるように風呂場に向かった。しばらくして、水音と一緒にすすり泣きの声が聞こえた。がらんとしたリビングの中で、手が無意識にポケットを探りそうになって、舌打ちをする。

 俺だって、色々なものを犠牲にして今ここにいる。絵の仕事はタカトから受けるもの以外すべて断っている。画家として存在していたはずの未来を潰す形で、教壇に立っている。馬鹿にならない出産費用と、その先の金が必要だから。つわりがひどくて仕事を休みがちな木立の代わりに、稼がなければいけないから。身体の変化もなければ、それがどんな苦しみかもわからないけれど、俺は俺なりに生活の変化に必死でついて行っているつもりだった。

 急に親になるなんて言われても、割り切れないものばかりが腹の底に溜まっていく。発散のための手段は全て失っているのに、俺なりの精一杯は、木立によって容赦なく赤を入れられていく。まるで俺が傷つけているみたいに。

 ――いや、俺が傷つけているのか。

 俺がちゃんと幸せにします、なんて。あの時軽率に吐いた言葉の無責任さを思った。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る