40、慈しむ言葉
ぼんやりとした意識の中で夢を見た。
俺は今の家ではなく、昔住んでいた安くて狭いアパートにいる。向かいに座っている木立が「狩岡はいつも同じ顔でごはんを食べるね」と不満げに呟く。俺は手に箸と茶碗を持っていて、目の前の小さな卓にいくつか料理の皿がある。
確かこれは、結婚する少し前の話。
「そうか?」
「うん。美味しいとは言ってくれるけど、うまく作れた日もいまいちな日も反応が同じだから感慨がない」
木立はどこか不満げだが、そんなことを言われても、というのが俺の本音だった。よほどのことでなければだいたいのものは美味しいと思う。木立の料理は実際に美味いと思っているし、労苦を裂いてくれたことには感謝もしていた。
そう俺が弁明すると、「狩岡にとっての『美味い』は『食える』と同義なんだねえ」と溜息をつかれた。
「狩岡って普段何食べてんの?」
「もやしを塩コショウで炒めたやつとか……」
「とか?」
「焼き肉のタレで炒めたやつとか……」
「もやしだけ?」
「米も食ってる」
木立の眉間の皺が深くなる。それから、「あなたにとって食事とは?」と、どこぞのテレビ番組のようなことを訊かれた。しばらく考えて「延命?」と答えるとまた溜息をつかれた。
「狩岡は食事をなめてるね」
そんなんじゃいつか身体壊すよ、と脅しのようなことを言われた。学生のとき、生の食パンだけを食べていて倒れたことがある、なんて言ったらますます怒られそうだった。
小さい頃は給食が命綱だった。施設に行ってからは、弱者が強者に容赦なくおかずを奪われる、戦のような食事ばかりだった。独立してからは、食事にありつくので精いっぱいで、そこにはモノを味わう余裕など到底なかった。
「こりゃ食育が必要ですなあ」呆れた顔の木立はどことなく楽しそうで、けれど少しだけ悲しげだった。
「今度餃子でも作る?」
「餃子って家で作れるのか」思わず尋ねると、「餃子の皮が何のために売ってると思ってるの?」と笑われた。俺は餃子の皮が店で売っていることすら知らなかった。それを聞いて木立はますます愉快そうに笑った。
数日後、材料一式を持って木立が家に来た。ずっしりと重そうなビニールの中には、ひき肉とニラ、白菜。それから、件の餃子の皮と、俺の家にはない雑多な調味料。
木立のおかげで、俺のアパートの狭い台所に、塩コショウと焼き肉のタレ以外のものが揃いつつあった。初めて木立が俺の家に来た時、部屋の狭さと汚さ以上に、台所のあまりの殺風景さに驚いていた。ないのは調味料だけではなかった。食器は平皿と、コンビニでもらえる割りばしだけ。調理器具はアルミの小さな片手鍋と、貰い物の四角いフライパンしかなかった。「玉子焼き機だけ持ってるってどういうこと?」と訊かれてはじめて、それが玉子焼きを作るものだと知った程度には、俺はまるで料理の知識がなかった。
調理器具どころか、最初は家には寝具も座卓もなかった。思えば、「どこでご飯食べてるの?」という質問に「床だけど?」と返したときも、木立は苦々しい顔をしていた。
「さて、始めますか」
手を洗ってきた木立が、切った牛乳パックと包丁をテーブルの上に置く。それから手分けをして、言われるがまま、野菜を切った。
「あっ、料理酒買うの忘れた」という声が台所から聞こえた。「ビールなら冷蔵庫にあるけど」と言ったら「狩岡って本当バカだよね」というシンプルな罵倒が返ってきた。
「んだこら」
「ニラまだ?」
「……まだ」
御されている、と思う。少しムッとしたけれど、「ビールがあるならあとで乾杯できるね。ありがと」と言われて、まんざらでもないような気になってしまう。俺は黙ったまま、ぎこちない包丁さばきでニラを切る。
タネができあがると、木立がボウルごと部屋の中に持ってきた。狭いテーブルの上は、バットとボウルと餃子の皮だけで、もうモノを置く隙間がない。包み方を教えてもらい、見よう見まねでやってみようとしても、なかなかうまくいかなかった。肉が多すぎてはみ出たり、皮が破けたり。ひだを作ろうとしても均等にならなかったり。木立は手際よくするすると餃子を包んでいく。「お肉はあまり入れ過ぎないんだよ」と言われたが、何度やってもうまくいかず、最終的には手も汚れてべたべたになった。
ほっ、という掛け声とともに、木立がフライパンをひっくり返す。器用に丸く並べられた餃子は、真ん中の方がフライパンにはりついて、少しだけ不格好になった。
餃子と白飯、安いビール。テーブルの上はぎゅうぎゅうだ。タレを入れる皿は一つしかなかった。洗い物が増えるのが嫌だから、ビールは缶のまま。
「狩岡が作ったのすぐわかるね」
「うるせえな」
「頑張ってる感じがしていいじゃん」
照れくささと苦々しさに顔をしかめる。いいから乾杯しよ、と木立が差し出して来た缶に、俺もやわいアルミ缶をぶつけた。
どうぞ、と一つ目の餃子権を与えられる。どうも、と手をつけようとしたが、箸で一つだけを剥がそうとするのにも苦心する。「なんで絵描けるのにそんな不器用なの?」「知るかよ」軽口を言いつつ餃子を口に入れて、思わず動きが止まった。長い時間をかけて咀嚼する俺を、木立はどこか怪訝そうに見ている。
「どうよ」
「……うま」
ビールを流し込むと尚更、じわじわとした感動が胸に迫った。「相変わらずリアクション薄いねえ」酔い始めた木立の顔はどことなく弛緩している。
玄関のチャイムの音で目が覚めた。目の前に、あの時と同じビールの缶がある。灰皿に収まりきらなくなった吸い殻を、飲み口から溢れるまで無理やり押し込まれている。
「ヒサ、いる?」タカトの声だ、ということはわかったが、身体が動かない。ドアノブをひねり、戸惑いがちにドアが開かれる音がした。
どろりと濁った意識の中、足音が近づくのを聞いた。ソファで力なく転がっている俺を見て、タカトが血相を変えた。無理やり身体を起こす。血が下がる感覚。頭が重たい。
「……お前、陽介は」
「そんなこと今はいいんだよ馬鹿っ、なんでこんなになるまで連絡よこさないんだよ」
肩を揺さぶられる。ごめん、という言葉が唇の外に出て行かない。何を言っても言い訳になってしまう気がする。俺の言葉になど何の意味もない気がする。呆然とするばかりの俺に不意に温かいものが巻き付いた。痛くて息が苦しい。久しぶりの肉体的な感覚。タカトの腕だと気づくまでに数秒かかった。
「頼ってくれよちゃんと、俺たち友達なんだからさ……」
涙声。肩にかかる息が熱かった。生きている人間の体温。
ごめん、という言葉が、今度はちゃんと外に出る。
「辛かったよな」
辛かった、のだろうか。臓腑に溜まっていた感情の正体に今更気がつく。俺はいつも言語化が下手だ。からからに乾いていたと思っていた俺のなかから、水がいくつもあふれて玉になって落ちた。
彼女がどれほどの光明だったのか。辺りがすっかり闇に満ちてしまってから、俺はいつも、そのことに気がつく。
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