39、呪いの言葉

 何の問題もないと思っていた。周囲から怪訝に思われるほど俺は平然としていた。思っていたよりショックを受けていないのが逆にショックなくらいだった。俺は薄情なのだろうとぼんやり思った。忌引きが開けるとすぐ、さんざん溜め込まれた仕事の山が俺を出迎えた。誰もが俺を気遣いたがったが、俺があまりにいつも通りだからか、気づくと態度も業務も元通りになっていた。

 空っぽの家は片づけられないまま、シンクやゴミ箱や洗濯機に汚れ物だけが溜まっていく。灰皿の吸い殻の山には新しい吸い殻が次々に積まれていく。家の中だけがすべての歪さを引き受けて、俺は何でもない顔で外に出た。

 こんな時に申し訳ない、とタカトは仕事を振ることを躊躇っていたが、俺はそれも快諾した。ベストアルバムを出そうかという大事な時期だ。俺が足を引っ張るわけにはいかない。どこか拍子抜けするほど俺は冷静だった。「まさかそっちより先に葬式をやるとはな」なんて不謹慎な軽口すら叩けた。

 異変に気付いたのはその後だった。

 キャンバスの前で、急に動けなくなった。

 どの絵の具をパレットにどのくらい出すか。どんな工程で作業を進めるか。すべて頭の中にあったはずのものが、どこを手繰っても出てこなかった。とりあえず絵の具を出して筆を握ってみても、手は強張るばかりで全く動かない。嫌な汗がじわりと浮き出た。からんと筆が落ちて、電話が来た時のことを思い出した。

 そこからすべてがドミノ倒しに崩れた。



 絵を描き続けなさい、という先生の言葉だけが俺を生かした。それだけが俺の価値だった。何があっても絵筆だけは握り続けてきた。呼吸をするために。存在するために。

 それが急に、絵に関する何もかもを受け付けなくなった。

 今度の拒否感は、今まで感じたことのある億劫さや憂鬱さの比ではなかった。絵を描こうとキャンバスを設置しても、そこから先の一歩が全く踏めなかった。無理に描こうとすると動悸とめまいがして、立っていられなかった。罪悪感、恐怖、後悔、悲しみ。名前のつけられない負の感情の塊に蝕まれる感覚。

 家と生活はますます荒れた。いつの間にか饐えたにおいが家の中を漂い始めた。眠りを妨げるものは何もないはずなのに、ちっとも眠りにつけなくなった。強い酒と煙草を麻酔にすることで、どうにか目の前の苦痛をやり過ごそうとした。食事をしたのか、してないのか、いつもあやふやだった。一度授業中に立ち上れなくなってから、無理をしすぎだと上から叱られ、職場から何日か暇を出された。病院にも引きずって行かれたが、出された薬は飯があやふやなせいでろくに飲めなかった。薬の関係で、酒をやめるよう医者には言われていたが、だめだと思っていても手が伸びた。

 締め切り目前になると、焦る気持ちが負の感情に上乗せされた。感情が重たいものになるにしたがって、身体が動かなくなることは、絵を描いていないときにも起こるようになった。麻痺のような虚脱は日に日に拡大していく。締め切りの直前になっても、身体を動かせないせいで、進捗はゼロのまま止まっていた。

 何日休んだのか。暇はとっくに消化していた気がするが、果たしてそれからどのくらい経っていたか。タカトから電話がきた。電話は手を伸ばして届くところに置いていたから、ソファに寝転がったままでも、なんとかとることができた。仕事の催促の電話だろうと思った。申し訳なさに苦味が口の中を満たした。

「もしもし、ヒサ?」

「ごめん、タカ、まだできてねえわ」

 ひどく久しぶりに言葉を発した気がする。煙草と酒で灼けた声が老人みたいだった。

「……ヒサ? 大丈夫かよ」

「来週までには描くから……もうちょっと待って」

「そうじゃなくて、……飯とかちゃんと食ってる?」

「ん……」

 どうだっただろうか。二十二日にピザをとったというレシートが机の上にある。買いにいく気力がなかったが、電話だけはなんとかできたらしい。一切れと食べられず机の上に放置したピザには、いつの間にか蠅が集り始めている。周りには山盛りの吸い殻といくつもの空き缶。傍に夕花のうさぎのヘアゴムが落ちていた。

「今日って何日だっけ」

「二十四。……なあ本当大丈夫?」

 それから何かごちゃごちゃと言っていたが、ひどく眠くて聞き取れなかった。遠く消えていく意識の中で、電話が手元から落ちる、ごっ、という鈍い音だけを聞いた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る