19、言葉を吐き出す

「ねえ、先輩んち行ってもいい?」

 バイト終わり。従業員入り口の近くで一服していたら、同じ時間に上がった女が声をかけてきた。針金みたいにがりがりに痩せた女だった。大きめのTシャツから延びる、病的に細い脚。均整な二重とドールみたいな童顔。作り物じみた顔がこちらを見上げる。

 永野ひばり、というのが彼女の名前だった。例の永野の妹らしい。

「なんだよ急に」

「家帰りたくないから」

「家出かよ」

「違うよ、避難」

 仄暗い目。一本ちょうだい、と煙草をねだられて、俺はしぶしぶ箱から引き抜く。ひばりは慣れた所作で素早く火をつけ、煙突のようにもくもくと煙を吐く。それから、へんなにおい、と掠れた笑いを浮かべた。

 うち、最低なんだ。という永野の言葉を思い出した。その話をすると、ひばりは「兄貴もたいがい最低だけどね」と吐き捨てた。

「……帰りたくないなら彼氏んとこ行けば」

「今忙しいって構ってくれないんだもん。――放っといていいの先輩? あたし今日帰る気ないし、その辺で寝てよくわかんない男に襲われちゃうかもよ?」

 もはや脅迫だった。「知るか」と突っぱねることもできず、俺は大きなため息をつく。なんだかんだと俺はお人好しに育ったらしい。

 帰りにコンビニに寄った。アイスと安い酒の缶をふたつ、ひばりがかごの中に入れた。

「夕飯まだだろ。足りんのかよ」

「あたし、アイスでお腹いっぱいになるから。――そっちこそなんか買ったら?」

「金ないから無理」

「クソ貧乏じゃん」

 かわいそうだからあたしが奢ったげる、とひばりは矯正中の歯をにっと見せた。歯以外にも彼女は顔の色々なところをいじっている。だからバイトに明け暮れているのだと、いつかの休憩中に明け透けに話された。

 俺はひばりから妙に懐かれていた。なんでそんなに話しかけて来るのかと尋ねたら、「先輩って、客のこと虫けらかゴミでも見るみたいに見るから。そこが好き」と言われた。蛇の道は蛇という奴らしい。同類はとことん同類のにおいに敏感だ。

 アパートにつくと、ひばりは吸い殻で満たされたペットボトルを「何これ、病んでるねー」と面白がった。鍵を開けている間、しゃがんでしきりに指でつついていた。薄っぺらなドアを開けて中に通すと、「きったない部屋!」と目を丸くして笑った。

「普通ちょっとは片してから客入れるでしょ」

「急に来たいって言いだしたのはそっちだろ」

「それにしたってさあ、玄関先でちょっと待ってもらって片すとかあるじゃん。羞恥心ないの先輩」

 フィキサチーフの缶を蹴飛ばして、ひばりがスニーカーを脱いだ。

「嫌なら帰れよ」

「やだ」

 ひばりは絵の具のチューブをかきわけて畳に強引に座った。小さくて高いアイスのカップを開けて、見せつけるように口に運ぶ。俺はやけくそになって缶を開ける。ぷしゅ、と間抜けな音。アルコールと炭酸が喉に流れ込んでいく。イーゼルと何枚ものキャンバスに圧迫された狭い部屋では、自然と身体的な距離が近くなる。

 それきり無音が訪れた。

 意味ありげな沈黙。無言を受け流すために、人工甘味料の味がする酒をひたすら飲みこんだ。ひばりが肩にもたれかかってくる。濡れたように真っ黒な目がこちらを見上げる。誤魔化すように酒を啜った。酒のせいで目のあたりがぼんやりと熱い。

「先輩、あたしと一緒だね。ここ」袖の向こうから、腕の内側のがさがさした皮膚をなぞられる。痛痒い感覚。とりとめなく蠢いていた黒い靄が、ぶわっと背筋を駆け上がる。木立に手首をなぞられたことを思い出す。何してんだよ、と手をはがそうとしたら、甘えるように指を絡められた。ひんやりとした、肉っけのない手。手首に線になったいくつもの傷がある。手ぇ熱いね、と言ってひばりは太ももの上によじ登ってくる。女の華奢な身体はそれでも想像よりずっと重い。

「やめとけよ」

 太ももに感じる体温と重さ。接している部分がじっとり汗ばんでいく。だるだるに伸びたTシャツの首元から鎖骨とブラジャーの紐が見える。からだは痛いほど脈打っていて、一抹の理性だけが俺を押しとどめている。

「なんで?」「彼氏いんだろお前」「へー、先輩って意外と道徳的なんだね」けらけらと意地の悪い笑みが永野とよく似ている。

「そんなの別にどうだっていいじゃん」

 する、とあごの横辺りに手が伸びてきた。顔が近づく。「……やだ?」耳の後ろを撫でるような、ほんの微かな声。

 沈黙は何よりも雄弁だった。酒が回って来たのか、泣きそうな時みたいに目が熱かった。くす、と薄く笑われた。ひばりは年下の小娘のはずなのに何歳も年上の女みたいだ。

 バニラの味の舌が口の中に潜りこんでくる。トマトのやわらかいところみたいな、どぅるっとした感触が生々しい。自我、が舌の温度に溶けてなくなっていく。熱をもった身体はぎくしゃくと強張るばかりでどうしていいかわからない。

「緊張してんの? かわいー」

 不慣れな俺の手をひばりが導く。甘じょっぱい女のにおいがする。混乱する思考の中で、こういうのってもっとステップ踏むんじゃないのか普通、と考えて、普通なんて言葉を持ち出した自分がひどく可笑しかった。

 窓を閉め切っているせいで、むわりとした夏の夜気が部屋に籠っていた。俺たちはいつの間にかうっすらと汗をかいていた。頭の中が麻酔がかかったみたいに鈍麻している。暑いね、とひばりが言って、舌がざらりと首の汗を拭った。俺は背中側からひばりのTシャツに手をかける。貧相な身体どうしがむき出しになる。暑さはまったく変わらない。素肌で寝転ぶと畳が背中にちくちくと痛かった。その痛みも、手で身体のまんなかを撫でられた途端、白く霞むような快楽の中に消える。息のような嗚咽のような声が喉から洩れる。「女の子みたい」ひばりはくすくすと小鳥のように笑う。

「避妊、は」声が掠れた。生理止まってるから。熱を帯びているのに冷たい声が耳のそばで聞こえる。

   


 家にいると腐ってく感じがするんだ、とひばりは言った。全て終わった後。腹の上にぶちまけた欲望をどうにか拭って、俺はぐったりしながら耳を傾けていた。プールから上がった後みたいな脱力感。とにかく体がだるかった。

「だからときどき、外の空気を吸う時間が必要なの。――父親がとにかくクズで最低でさ、父親、でさえいれば王様になれると思ってて。ことあるごとに自慢話して、そうなんだすごいねーって言わないと機嫌悪くするのね」

 ひばりは下着だけを身に着けたまま、夜の闇にうすく身体を光らせて、煙草を吸っている。無遠慮に俺の煙草をふかしながら、もくもくと煙で部屋を満たす。ああ、大家に怒られる。

 胸のかすかなふくらみの向こうにあばら骨が浮いている。これもお揃いだね、と俺が上にいるときひばりは俺の肋骨を指でなぞった。それを思い出して、快楽の残滓、みたいなものが、身体の内側で少しだけ疼く。

「うち、とにかく空気が悪いの。父親はいつも不機嫌で、いるだけで空気がぎくしゃくして重くなる。兄貴もすぐバトるし。家にいると手足が腐っていきそうな感じがするの。身体中が真っ黒な化学物質かなにかに汚染されてくみたい」

 まさしく真っ黒な化学物質で身体を汚染しながら、ひばりは煙と言葉を吐き出し続ける。毒を摂取してしまった人間が、身体の中のものを吐き出し続けるみたいに。

「兄貴は長男だから、父親は何やってもいいと思ってる。あたしは長女だから、父親は何でもやってもらって当然だと思ってる。おまけに父親も兄貴も、あたしが親にもらった身体にメスを入れるようなバカなクズだから、無条件に馬鹿にしてもいいと思ってる。だけど家事は全部あたしのものなの。女だから。家畜だから。無能だから。役立たずの癖にいさせてやってるだけありがたいと思えって。好きでいるわけじゃないのに、あんなところ」

 あんなところ、と吐き捨てた声が、重たげに床に落ちる。

「あたしが整形するのはね、家族に対する復讐なの。揃いも揃って救えない人たちと似たような顔なのが本当に、死にたくなるくらい嫌だし、どうせなら綺麗な顔で死にたいもん」

「誰彼かまわず寝るのも復讐か?」

「そうかも。呆れた?」

「別に」

 先輩のそういうとこ好きだよ、とひばりは無責任に俺を揶揄う。

 明け方になって、ひばりは彼氏から連絡が来たとかで帰っていった。ひばりがいる時は全く寝付けなかったのに、ひばりが帰った途端、暴力的な眠気に襲われた。空は白み始めている。今日も四時間後には予備校がある。少しでも寝ようと俺は汗のにおいのする畳に横たわる。イーゼルのまわりのブルーシートが冷たい。寝入りばな、引っ張られていくような意識の中で、口の奥に微かにバニラの残り香がした。



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