初めに言(ことば)があった

澄田ゆきこ

ゼロ

 幼少期、俺は言葉を持たない獣だった。

 周りには絶えず薄暗いものが渦巻いていた。倍ほどの背丈に見えた大人たちの顔も、同じ年頃の子供の顔も、すべて灰色に霞みがかって見えた。誰かの話す言葉や誰かの顔よりも、恐怖、怒り、威圧、激しい感情そのものが黒い影となって伸び縮みした。その影を、絵本でしか知らない怪物のようだと思っていた。

 影の怪物になる感情はあらゆるところにあった。知らない場所に立った時、未知の形をした恐怖の影はひときわ大きくなった。怒りや悪意を持った人間のまわりは、禍々しい赤色となってゆがんだ。ひずみが大きくなればなるほど、耳鳴りのようなノイズが大きくなって、声を聞き取ることさえ困難にさせた。

 ちゃんと話を聞きなさい。どうしてじっとできないの。落ち着きのない俺のことを、大人たちはたびたびそう言って諫めた。その声も次第に、水の中に入っているみたいに遠くなったり、間延びしたりした。

 俺はただじっとしていることも、詰られることも嫌いだった。座って話を聞こうとしても、相手の怒気が肥大して般若のように見え、ぐるぐると視界が回っていく感覚がした。気持ち悪さを紛らわすために、無意識のうちに身体が揺り動いた。精神的な安定を欠くほど視界は乱れる。そうして起きた貧乏ゆすりや癇癪に、大人たちはまた目くじらを立て、殴ってでも俺を椅子や床に縛り付けようとするのだから、悪循環だった。

 大人たちにとって俺は「集中力がなく手がかかる子ども」にすぎず、俺は内心を説明する語彙がなかった。言葉がないのだからろくに考えることもできなかった。俺の中にあるのは、快・不快の感覚と、不快を与えた人間を憎むこと、動物のような条件反射、ただそれだけだった。

 俺はしばしばクラスのなかでもめ事を起こした。ある時は嫌な授業から抜け出し、ある時は「セーカツホゴ」と囃して来た同級生の顔を殴った。ある時は、「あーーーノートとってなあい!」と高らかに注意してきた女子を突き飛ばした。ランドセルを蹴られたから倍の力で蹴り返した拍子に、相手が転んで歯を折ったこともあった。

「どうしてそんなことをしたの?」

 別室に俺を呼び出した教師たちは、決まってそんな風に尋ねた。俺の出せる答えは「ムカついたから」というただ一言だけだった。それしか言葉がなかった。理不尽な暴力などありふれていたものだったから、どうして叱られなければならないのか、まるでわからなかった。

 弟は俺と違っておとなしかったが、その分いじめられやすい子どもだった。それには彼の小太りの体形や、人よりもゆっくりな動作や受け答えもまた一役買っていた。狂暴な獣のようだった俺と、デブでのろまな弟とは、大人たちから好かれるほど愛玩動物としての可愛げがあるわけでもなく、当然のように煙たがられていた。

 その二人の子どもを請け負うのは、あらゆる意味で弱かった母親だけだった。一家を支える大黒柱なんてものはうちにはなかった。月に一度、国から振り込まれるいくらかのお金だけで息を繋いだ。決して十分ではなかったが、母親は精神と身体両方の病で、働くことができなかった。飲んでいる薬の作用で、母親の気分は極端な振れ幅をもって変わった。

 学校から呼び出され、「お母さんがもっとしっかりしないと」と言われた日には、母親はやり場のない感情を俺や弟にぶつけた。「あんたたちのせいでお母さんが笑われる」というのが口癖だった。

「なんでいい子にできんの」「そんなにお母さんが嫌いかね」

 そう言って俺を叩く母親は、いつも傷ついた少女のような顔をしていた。

 母親の周りで、黒い影の怪物は家中を覆いつくしていた。母親の張り手が止むのを待ちながら、地震みたいに床が揺れる感覚がした。嵐が過ぎ去ってから、気持ち悪くなって便所で吐いた俺のことを、母親は当てこすりだと言ってまた怒鳴り、泣いた。

 そして、一枚の布団に三人で潜るころには、母親はすっかり落ち着いていて、「ごめんね」と言って俺の髪を撫でるのだった。

 機嫌がいい時の母親は、人並み以上に優しかった。俺の顔にステロイド剤を塗る母親の、ふっくらとした指の感触。膝に弟を乗せた時の穏やかな表情。隙間風の吹き込む貸家の中で、身を寄せ合って眠る温度。クリスマスや誕生日には、ホットケーキに生クリームや缶詰の果物などを乗せて、一緒にケーキを作るのが慣例だった。俺も弟もそのケーキが好きだった。

 動物らしい温かな馴れ合いがないわけではなかった。温度差と高低差には絶えず振り回されていたけれど、庇護を与えてくれる場所はここしかなかった。



 世界はいつも嵐と凪ぎが交互にやってくる。悪意や憎悪や恐怖の萌芽はそこら中にあり、ふとした瞬間に視界を、脳をかき回していく。

 世界が安定するのは絵を描いている時だけだった。一心に紙を埋めている間だけは、心もどこか落ち着いていた。チラシの裏やノートの隅や机の上、色々な場所に絵を描いた。誰に見せるわけでもなく、道楽のためですらなかった。

 俺の絵に対する評価はまちまちだった。学内のコンクールでは時折賞を得たが、中には「気味が悪い」「歪んでいる」という人もいた。父親のいない家庭環境のせいなのではないかと、味方のふりをして下衆な勘繰りをしてくる人もいた。

 そのどれでもない評価を唯一下したのが「先生」だった。いつかの図工の時間、病欠の担任に代わって来たその人は、校内のあちこちで児童たちが絵を描く様子を、楽しげに見て回っていた。

 俺は先生のことを、ほかの人間たちにするように、ずっと無視し続けていた。大人から話しかけられるのは、頭ごなしに怒鳴られる時だけだった。その頃にはもう、まわりの子どもから揶揄われることもほとんどなく、クラスメイトたちは俺を巧妙に爪弾きにしていた。むやみに触れば起爆する爆弾のようなものだ。触らぬ神に祟りなし。誰も近寄りたがらないのは当然のことだった。

 絵を描いている間は、そんなことを気にする必要もない。その日のテーマは写生で、ただ目の前の景色を描き起こせばよかった。ぺたぺたと筆を動かしていたら、不意に画用紙が翳った。いつものあれかと思ったけれど、本物の影だった。

 振り返ると、後ろに先生が立っていた。先生は白いひげを指でなぞりながら、ふむ、と興味深そうに頷いた。その顔から、児童たちに向けていた生温かいものが消えていることに、俺は気がついていた。真剣な先生の顔はどこか冷たく、俺はそれを、少し怖いと思った。

「そうか。君には、世界がそんな風に見えているんだね」

 俺はきょとんとしたまま先生を見上げていた。問題児だった俺の評判は、先生も知らないはずがなかったけれど、口調は透明水彩みたいに平淡で穏やかだった。

「絵を描くのが好きですか?」

 ぱちり、とひとつ瞬きをした。暇さえあれば絵を描いていたのに、好きか、と聞かれると、よくわからなかった。呼吸が好きかと聞かれる感覚に似ていた。

 俺は絵を描く要領を自然に知っていたし、同級生の誰よりもたぶん、形になっていた。それが特別だという感覚はなく、むしろ、なぜこんな簡単なことができないのか理解できなかった。特に写生など、答えが目の前にあって、ただそれを紙に写すだけなのに、どうして色の置き方もわからないのか不思議だった。

「……ふつう」

 そう、と先生は目を細めた。俺が再び画用紙に身体を向けると、先生はいつの間にかいなくなっていた。

 それが、先生との初めての出会い。

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