30、祈りの言葉

 教育実習、採用試験、卒業制作。季節は慌ただしく過ぎていった。お勉強などろくにしてこなかったツケで、一般教養の分野ではひどく苦戦させられた。常識的な知識も教養も俺には何一つ備わっていなかった。

 木立に中学レベルの英語や理科社会を教わったりして、なんとか教員免許は手に入りそうだったが、正直なところ、まっすぐ教員になるかは迷っていた。誰かの先に立って教えを説けるほど、俺は高尚な人間じゃない。「教師やるってことは才能ないってこと?」と茶化されたこと、「やめとけよ教師なんて。絵描く時間なくなるよ」と現職の人間から言われたこと。色々な言葉が逡巡して、結果的に、俺は結論を先送りにした。

 卒業後しばらくは、画家としての仕事をもらいつつ、カルチャーセンターの講師をしていた。画家としての俺は、タカトから仕事をもらう以外は、時折、小説の表紙の依頼や、マイナーな雑誌の取材なんかが来たりした。グループ展も何度か誘われた。ひとえに羽山タカトの名前あってのことだ。描いた絵はこまごまと売れ、若手としては売れっ子なほう。けれど食っていくには十分ではない。絵だけで稼ぐ額など、平均すれば高校生のバイト代にも満たない。出版社から打診されて画集も出すことができたが、出版不況と言われて久しく、たいした収入にはならなかった。ギリギリ黒字を保てただけまだマシなほうだった。

 奨学金を返しながらの生活はあまり楽ではなかった。ひもじさと眠気は呪いのようについてまわった。相変わらず特売品ともやしばかり食っていた。

 だらしなさと浅ましさは指先まで満ちていた。付き合いたいとか好きとかいう言葉もなく、最初に木立に手を出したのは俺だった。珍しいお酒を貰ったから、と家に誘われた折。トイレから部屋に戻った後、木立の狭い背中を見たら、身体の芯がぎゅっとこわばった。

 木立は膝を崩して座っている。後ろにしゃがみ込んで、肩に手を回した。髪が鼻先に触れて、ほのかに花みたいなにおいがした。

「酔ってるの?」半笑い。首から上がぼうっとするような熱を帯びていた。ぐりぐりと額をこすりつける。したい、という声が疚しさに焼けついていた。静寂。つけてくれるならいいよ。目的語を伴わない会話。

 木立とのセックスは静かで淡泊だった。途中、彼女はぐっと顔をしかめた。痛いのかと思って動きを止めたら、久しぶりだったから、だいじょうぶ、と苦しそうに言われた。その割に彼女はすんなりと俺をのみこんでいった。身体は細いのに、ひばりと違って骨がぶつかる感じはなく、どことなくやわらかかった。破れそうな皮膚のむこうにかすかに肉の感触がした。

 それから何度目か会った時、「これってさ、付き合ってるってことでいいの?」と木立に訊かれた。俺はそうしたいけど、と返したら、硬かった表情がふわりとゆるびた。俺は不安にさせていたのだとその時はじめて悟った。

 木立はどこか安心した様子だったが、怖くなったのは俺のほうだった。どこか夢みたいで、嘘みたいで、いつか訪れる喪失に耐えられないような気がして。



 俺が二十五で、タカトが二十七のとき。女優、立川幸の第一子妊娠が報じられた。「タカはつくづく報われないな」俺の言葉にタカトは肩をすくめて微笑するばかりだった。立川幸は父親を明言しておらず、マスコミから様々な憶測を呼んだ。その中には羽山タカトの名前もあった。

「本当にタカじゃないのかよ」

「むしろ心当たりがあってほしかったよ」

 そう言った彼があまりに悲しげで、そりゃご愁傷さまだな、なんてつまらない返事しか出てこなかった。

 あの人が幸せだったらいいんだけど、とタカトは遠い目をして言った。

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