27、再会

 個展の日は、夏も盛りの暑い日だった。

「ヒサぁ、この絵こっちでいいのー?」

 おー、というおざなりな俺の返事は、やかましいセミの鳴き声にかき消された。

 地面に滴り落ちた汗が、じわり、と瞬く間に乾いていく。俺は顎の先をぬぐって、やたら汗ばむ軍手をはめなおす。ギャラリーが開くまであと二時間ほど。準備はまだ終わっていない。

「ひー、なんで油絵ってこんな重いの」

 よいしょ、と大袈裟な声をあげながら、タカトが絵を床に置いた。彼が持っていたF八〇号のキャンバスは、短辺すらゆうに一メートルを超える。その上俺の絵は厚塗りがちだから、たっぷりと塗りたくられた絵の具の重さは、シャレにならないものになっている。

「ヒサの絵ってなんでこんなバカでかいのかなあ、そこがいいんだけどさ」

「喋ってる元気があんなら運ぼうぜ」

「へーへー」

 生返事をしながらも動こうとしないタカトを尻目に、俺は路肩の軽トラへと向かった。道路の向こう側には、きらきらとした光を返す海が見える。潮風は爽やかだったが、何にも遮る物がない分、焼け付くような日差しがきつい。

 軽トラに積まれた絵は、残り五枚。首元のタオルで汗をぬぐい、俺は荷台の上に手を伸ばす。その拍子にトラックのへりに当たった二の腕が、びっくりするくらい熱かった。

 F五〇号のキャンバスを抱えながら戻ると、タカトは先ほど運んだ絵をじっと眺めたままだった。

 日焼け防止のカバーが外され、壁に立てかけてあるだけの油彩。

 描かれているのは、藍色の水と、それを掬おうとする一組の手だけ。指の間から零れる水に、金平糖みたいな淡い色彩。今は昔、一年生の進級課題だ。

「やっぱいいなあ、これ」

 タカトはしみじみと呟く。俺は運んできた絵を壁際に置いて、「おいサボんなよ」とわざとぶっきらぼうに言った。 

 準備が一段落して、外に出た。嘘みたいに青い空に入道雲が伸びている。海の反射と、ぎらぎらと照りつける日差しが眩しい。咲きかけの向日葵。風鈴の音。濃い色の影。夏だなあと思って感慨深くはなるけれど、暑いのは嫌いだ。

 煙草を取り出して、火をつけた。吸い込んだ煙を吐き出してようやく、自分が思っていたよりも緊張していたのだと気づく。吐く息の端が震えていた。あれだけの絵を狭いギャラリーに詰め込んで、いよいよ開始が迫った今でもなお、いまいち実感がわかない。

 つい数日前。ひどく懐かしい人に電話をした。小学生のときに貰った連絡先を、俺は今でも、お守りみたいに律義に持ち続けていた。番号をもらって十年以上経っている。どうか通じますようにと、コール音の中で祈る時間は、何をしているよりも長く感じた。

「もしもし」と最初に電話に出たのは、年老いた女の人の声だった。間違えたのか。緊張に心臓が潰れそうになりながら、先生は、とどうにか口にすると「ああ、教え子の方ね。少し待っていてね」と電話が保留になった。音楽が二周しかかるところで、「はい」とやわらかくしわがれた声が聞こえた。記憶の中にある通りの声かどうかは自信がなかった。何せ恩人なのに名前すら憶えていない。

 言葉がうまく出ない。怪訝そうな様子が受話器越しにも伝わってくる。「もしもし、あの」乾く口の中からどうにか絞り出した。「狩岡久人です、覚えていますか」

 十年以上前、何度か言葉を交わした程度の子どものことなど、果たして記憶にあるだろうか。手にぎゅっと力を込める。

「ええ、もちろん。覚えていますよ」とその人は穏やかに言った。

 先生。絵を描き続けなさい、と俺に呪いをかけたその人。

 自分で電話を掛けておいて、にわかには信じがたい気持ちだった。かすかだった希望にうち震えながら、俺は今度個展をすることになって、とどうにか口にする。「そうか、もうそんな年頃ですか」と、先生はしみじみと呟いた。それから先のことは、よく覚えていない。俺は気づいたら床にへたりこんでいて、胸の中があたたかい何かで苦しいほどいっぱいになっていた。

 来てくれないだろうか、と思う人はたくさんいる。けれど、実際に顔を出されたら、俺はどんな顔をすればいいのだろう。

 ――木立。

 アホか。俺は煙をふかす。

 あの絵を描いてから、どうも余計なことばかり思い出す。

「なあに黄昏れてんだよ」

 ギャラリーから顔を出してきたタカトが、にやにやしながら俺を覗いた。

「黄昏てなんかねえよ」

「昔のことでも思い出してた?」

「別に」

 なんでこういうときだけ、こんなにも勘が鋭いのだろう、こいつは。

「なあ飯食いに行こうぜ。腹減った」と言い、彼はそのまま有無を言わさず俺をひっぱった。俺は慌てて煙草をもみ消して、言われるがまま彼のあとに続いた。

 近くのさびれたラーメン屋は、客入りもまばらでクーラーの効きも悪い。古い木造の建物で、ガラス戸にはテープの跡がこびりついている。この時間になると、鉢の朝顔もほとんどがしぼんでしまっていた。

 外の自販機でアイスを買う子供の声が、ぎゃあぎゃあとうるさい。

 タカトは醤油ラーメン、俺は冷やし中華を頼み、ぼんやりと料理を待つ。

 先に来たのはタカトのラーメンの方だった。「こんな暑いのによく食えんな」と言うと、「ラーメンはいつ食ってもうまいんだよ」と暴論で返された。

「さっき何考えてたの? 中学のころの『あの子』のこと?」

 割り箸をぱきんと割りながら、タカトはいたずらっぽい目でこちらを覗いた。

 苦々しい俺を傍目に、タカトがラーメンに箸をのばす。麺をすする小気味いい音。ぐう、と胃の奥が鳴った。

 実のところ、個展にあいつが来てくれないかな、と淡い期待を抱いていたりもする。だけど、十中八九無理じゃないかと思っている。期待をするだけ、実らなかったときのダメージがでかいのは、重々わかっている。

「いやー、俺ああいう話に弱いんだよね。どんな子だったの? かわいい子?」

「そうだな」

 ちょうどのタイミングで冷やし中華が来た。割り箸に手を伸ばし、続きを答える。「まあまあかわいかったよ」

 タカトの目はにやついたままだ。何と言い返していいかもわからず、俺は箸で麺を探る。

「きっと来るよ」

「どうだろうな」

 フライヤーを張るために色々なところに頭を下げた。タカトも宣伝には全面協力してくれた。彼の知名度は確かに馬鹿にならないが、確証なんてどこにもない。

「大丈夫だって。人間、案外変わらないもんだから」

 子どもをなだめるように言うタカトは、何もかも見透かしたような目をしている。俺は返事をせずに、麺を無理やり口の中に押し込んだ。咀嚼し、飲みこむ。エネルギーを得るための作業。どうして人間は食わないと生きていけないのだろう。

 タカトが食い足りないと言ってチャーハンを追加注文したので、暇つぶしがてらに外の自販機でアイスを買った。木製のテーブルに、俺とタカトの食い終わった器が一つずつ。その上チャーハンの器が置かれているのは、狭いテーブルにはかなりの圧迫感がある。

「ラーメン食った上にそれとかよく食えるな」

「暑いと腹減らない?」

「いや」

 もりもりとチャーハンを頬張るタカトを尻目に、アイスの蓋を剥く。手に伝わる冷気が心地いい。

 ちらりと時計を見る。個展の開始まではあと三十分と少し。何も気にしていないふりをしながら、一口目をかじる。冷たいものが喉を伝って流れ落ちてくる。

「ヒサまたチョコミントかよ。それ歯磨き粉みたいな味しない?」

 チャーハンを集める手を止めないまま、タカトが言った。

「ばあか。それがいいんだよ」

 そう言って、もう一度アイスに口をつける。

 夏の味がした。


 

 個展の一日目。タカトは仕事があるのでもう帰ってしまった。ひとりで孤独と静寂に耐えるために、文庫本に必死に目を落とした。恋は罪悪ですよ。国語の教科書に載っていた、罪に苛まれる男の話。精神的に向上心のないものは馬鹿だ、という言葉に、ぐさりとまともに刺される。

 ほどなくして、ひと組の老夫婦が入って来た。男のほうは頭髪から髭まで真っ白だった。俺を目に留めると、軽く会釈してくれる。先生だ、とすぐにわかった。「これがあなたの生徒さんの絵? きれいねえ」老婦人が惚れ惚れしたように呟く。先生はどこか自慢げに相槌を打っていた。先生は展示をゆっくりと見てまわると、入り口にいた俺に声をかけた。「いい絵を描くようになりましたね」と。

「……先生のおかげです」

「あなたの努力ですよ」

 元気そうで本当によかった、と言われて、情けなくも泣きそうになってしまった。先生はポストカードを一揃い買って帰っていった。次も楽しみにしていますね、と言い残して。

 一日目に来たのは知っている顔ばかりだった。冷やかしに来た同級生やバイト先の同僚。嬉しいようで微妙に嬉しくない面子。施設長も来た。大袈裟に涙ぐんでいる施設長を俺は妙に冷静な気持ちで対応していた。

 慣れないことをしたせいで、身体がどっしりと疲れていた。過去の清算をしているような気分だった。ギャラリーまでは片道二時間かかる。高校時代、予備校に通っていた道のりの、発と着を丸々逆にした感じだ。

 シャワーを浴びてさっさと寝るつもりでドアを開けたら、ひばりがいた。「おかえりい」体育座りで、クレンジングシートを顔に滑らせている。悪びれている様子は全くない。

「……どこに行ってた?」

「韓国」

 彼女は平然と答える。あごと頬の骨を削って整えたとのことで、彼女はますますドールじみた丸顔に自らを近づけた。薄っぺらだった唇もぷっくりと丸く膨らんでいた。今まで音沙汰がなかった件については、術後のダウンタイムは顔が腫れるから、可愛くない顔で会うのが嫌だった、とのことだ。気抜けしたせいでますます肩が重くなった。

「事前に一言くらいあってもいいだろ」

「電話したよ。出なかったのはそっちじゃん。てかそっちに怒る資格ある?」

「怒ってないだろ別に」

「じゃあなんでそんなこと言うの?」

「心配だったんだよ」

「嘘。全然探してなかったんでしょあたしのこと。個展だって平然とやってさ。本当に心配だったらもっと必死になるよ。結局どうでもいいんでしょ」

 狭い部屋にキンキンと高い声が響く。俺は宥めるために彼女の薄い肩を抱く。小さい子どもをあやしているみたいな気分だ。一方で、彼女を見ていると、情緒不安定だった時の母親を思い出す。

「ねえ、本当にあたしのこと好き?」

 小さな手が背中に縋りついてくる。当たり前だろ、と俺は答える。好きだ、と言ってほしいことはわかっているのに。

「だったら絵もやめてくれる?」

 俺は何も答えない。答えられない。「ほらね、どっかで冷静なんだよ久人は」人生を投げうてるような激情なんてないことを、ひばりはやすやすと見透かす。それから少しして、ごめん、と自虐的な声がした。最低だねあたし、ごめん。情緒の揺れに自らも苛まれている。これも母親と同じ。ピアス開けちゃったんだね、やってあげたかったのに。ファーストピアスの無機質な金属に、ひばりが歯を当てる。耳元で固いものが合わさる音がする。

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