28、変わらぬ言葉、変わった言葉

 個展を今更やめることはできない。かといって、一週間の展示期間の間、ずっとその場にいられるわけでもない。持ち主に対応を頼んで、間の何日かはバイトをし、片手間で義務的にひばりの相手をした。一緒にいられてうれしい、という言葉は本当なのか嘘なのかわからなかった。彼女に求められるがまま数度身体を重ねた。好き、という甘ったるく焦げそうな言葉を、彼女は耳の際で何度も言った。言い聞かせるみたいに。縛るみたいに。

 途中、タカトから連絡がきた。俺の連絡先ではなく、彼の事務所あてに、俺の母親を名乗る手紙が届いたらしい。差出人は間違いなく母親の名前だった。封筒は二重になっていて、外側の封筒の中に、関係者に宛てた便箋と、俺宛の、小ぶりな封筒がひとつ入っていた。一応受け取って目を通したが、許しの懇願と愛を連ねた、自己陶酔の結晶のような文章だった。苦労をかけたことはすごく申し訳ないと思っています。よければ会って直接謝りたいです。息子に対する他人行儀な距離がおかしかった。決して上手いとは言えない不器用な字。今更、虫が良すぎる。そう思うのに、感情のままに破くことができなくて、そのままゴミ袋に捨てた。そんな芝居がかったことをしてまで感情に酔うのは馬鹿らしい。と自分で言い訳をした。

 最終日はさすがに顔を出さないわけにはいかず、ギャラリーに足を向けた。俺を見送るひばりは、眠気もあってひどく機嫌が悪かった。一緒に来るかと尋ねても、不満そうに「いい」と言われるだけだった。

 最終日は初日よりもずっと暇だった。閑古鳥が鳴くとはこのことなのだろう。それを自覚するのが嫌で、俺は細々した雑事以外は、奥のスペースにひたすら引きこもっていた。呼ばれたのは小さな子どもが絵を落としてしまった一度だけだった。クロッキー帳にいたずらにスケッチをして、手を動かすのに飽きれば本を読んで時間を潰した。甘い期待も、ピアスを開けた痛みみたいに、いつしか忘れ果てていた。

「ヒサ、お客さん」と呼ばれたのは、個展が閉まるまで一時間を切ったころだった。空はもう薄闇にのまれつつあって、夕方と潮風のにおいがしていた。俺は文庫本を伏せ、億劫な気持ちで腰をあげる。暖簾で仕切られた向こうの光の中へ歩く。まさか母親だろうか。そう思うとみぞおちがぐっと重くなる。腹の中で小さく覚悟を決める。

 蛍光灯の無機質な灯りに目が眩む。「で、誰が……」タカトに問いかけようとしたとき、その横にいる人影に、目が引き寄せられた。

 言葉を失った。まっしろな頭の中に、なにも言葉が浮かんでくれなかった。

 まさか。

「本当に狩岡だ」すんなりと透明な声。髪の艶がベルベットみたいだった。

「久しぶりだね」

 彼女はあの絵を見ただろうか。中学生のあの日に掬った水の色を覚えていただろうか。例の絵があの日を切り取ったことだと、とっくに気づいているだろうか。

 血が顔にのぼっていくのが嫌なほど分かった。

 俺ちょっと出てくるわ、と言って、タカトがアイコンタクトを送ってくる。やかましい。

「……久しぶり」

「絵も狩岡も変わってないね。すごく洗練されてるけど、雰囲気というか、核の部分がそのままだ。ちょっと安心した。羽山さんのCDで見た時は、随分遠くなったなって思ったけど。実際に見るとやっぱり違うね」

 木立は相変わらず、何の執着もなさそうに言葉を手放す。

 目鼻立ちや輪郭は当時のまま。けれど木立は明らかに垢ぬけて、華やかになった。もともと大人びた奴ではあったが、服や化粧や、控えめに染めてある髪のせいか、随分と雰囲気が変わった。あの頃彼女を包んでいた、うっすらとした絶望感の影みたいなものも、今はない。

 それから少しずつ、近況を話した。木立はあのまま東北の国立大学に進学し、今は就職活動でこの辺りにいるそうだ。あの頃言っていた通りに学芸員の資格を取ったらしい。すごいな、と俺が言うと、「羽山タカトに絵を提供している方がすごいでしょ」と笑われた。

 半ば信じられない気持ちのまま、連絡先を交換して、「また今度ゆっくり話そう」と次の約束までしてしまった。「今日は忙しいんだろうし。ギリギリに来てごめんね」涼しげにヒールの音が鳴る。「見に来れてよかった」こんなことをさらりと言えてしまうのがやっぱり、彼女の美徳であり、災いだった。

 肝心な言葉は何一つ口から出てこなかった。


 

 今日も出かけるんだね、とひばりに言われた。

「外出るのとか嫌いだったのに。やな感じ。そわそわしながら服なんか選んじゃってさ」

 膝を抱えながら言葉を突き刺すひばりは、拗ねている子供のようだ。どんどん嫌な奴になろうとしているのは、引き寄せようとしているのか、突き放そうとしているのか。

「女でしょ」

「……タカだよ」

「嘘ばっかり」

 だいたいあたしあの人も好きじゃないし、ちょっと褒められただけでいい気になっちゃってさ、馬鹿みたい。そんなこと誰にだって言ってるに決まってんじゃん。

 ひばりはとめどなく言葉をぶつける。

「お前だって散々男と寝てんだろ。しかもカメラの前で」

 俺がそう言った途端、ひばりがひどく怯えたような目をした。顔が強張り、それから紅潮する。

「よくやるよな」

 コンパクトミラーが投げられる。派手に背後にぶつかり、がしゃん、と鏡とプラスチックの割れる音がする。

「そっちが、そっちが寂しくさせたんじゃん。あたしのこと大事にしてくれないからじゃん」

「そうやって一生責任転嫁してろよ」

 俺はこんなに冷たいことを言える人間だったのか。彼女への感情が芯まで冷え切っていることに、俺は今更驚く。永野からあの話を聞いてから、おそらく俺は、彼女のことをうっすら見下していた。彼女が今まで受けていた眼差しと、全く同じように。

「……いいよ別に。別れても。あたし別に言うほど久人のこと好きじゃないもん」

 冷え切っている、なんて自認したくせに、この程度の言葉にまともに傷つくのだからやりきれない。そうだな、とわざと余裕ぶっているのが、我ながら馬鹿みたいだった。

 どんな人なの、とひばりが訊いた。この期に及んでそんなことを訊きたがるのは何故なのだろう。普通の人だよ。面倒くさくて適当にいなしたら、「普通の人と久人がうまくいくわけないじゃん」と精いっぱいの力でぶつけられた。効いていないふりをしながら、かもな、と俺はひばりの言葉をやり過ごそうとする。どこまでも俺は優しくなれないままでいる。

 だらしなく続いていた俺たちの関係は、かくも醜く終わる。


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