24、言葉が通じる
寒空の下、一日一日と作業を進めた。晴れて風の強い日、曇天のつんとした冷気、みぞれの日の濡れた寒さ。冬の日の空気の冷たさにもいろいろな種類があるらしいと知る。身体を温めるために買った缶コーヒーは瞬く間に温度を失う。時折、休憩のために煙草に火をともすと、張り詰めていた手の皮膚が、熱にじわりと溶けて緩びた。
吹雪の雪原を歩いているような気分だった。きりきりと蝕む冷気と闘いながら、ぎしぎしと痛む腕に顔をしかめながら、ひと筆、ひと筆を重ねていく。自分の行為が報われる確証なんてどこにもなかった。それでも作業を進めたのは、執心か、それとも惰性だったか。
作品の提出を終えると同時に、俺は一気に体調を崩した。インフルエンザは陰性だったにもかかわらず、三十九度を超える熱が三日間続いた。身体は焼けつくほど熱いのに、いつまでも寒くて仕方なかった。俺が半ば死んでいる間に授業での講評はとっくに終わってしまった。今までで一番手ごたえを感じていたのに。俺は毛布の中で歯噛みするしかなかった。
すっかり春休みに入った二月の半ば、ようやく熱が下がったのを機に、重い腰を上げてギャラリーに向かった。進級課題の作品は一般公開され、大衆の目に晒されることになる。自分の作品が他の学生のものに比べてどう映るか、緊張半分、怖いもの見たさ半分で、足を踏み入れる。
人影はぽつりぽつりとあった。年配の人と高校生が多い。受験生だろうか、冬の上着に着ぶくれたまま、熱心にメモをとっている少年がいる。
俺の絵はギャラリーの奥のほうにあった。目に入った瞬間、思わず顔をしかめた。バカでかいせいで悪目立ち甚だしい。絵を眺めている人は三人。今このギャラリーの中ではなかなか多い方だ。
若い男が一人と、物見遊山ふうの女子高校生が二人。高校生が「すごいね」「大きいね」とささやき合っている一方で、若い男はじっと、無表情のまま絵に見入っている。
提出時にはそれなりの自信があったはずだった。だが今は、素材の強さに頼りすぎている気がする。無邪気にはしゃいでいる少女たちはまだしも、男の眼差しはまったく感情がうかがえなくて恐ろしい。
「あの」
唐突に声をかけられ、俺はびくりと顔を上げる。見ると、例の若い男がじっと俺を見ていた。黒縁の眼鏡が文学青年じみている。「ここの学生さんですか?」紙やすりみたいな質感の声。顔も声もどことなく既視感がある。俺はぎこちなく頷く。
何を言われるのだろうと期待と不安に苛まれる。俺が作者だなんてことをこの人が知るはずもないのに。作品をつくりあげた直後はどうも自意識過剰になりすぎる。
「この絵を描いた人、知ってます?」
言葉の意味を咀嚼して飲みこむまでに、少し時間がかかった。
「あ、俺……ですけど」
俺の答えに、青年はひとつ瞬きをする。「わぁ、こんな偶然ってあるんですね」個性の強い声にはやはり聞き覚えがあって、はにかんだような顔を見ていたら、ピースがかちりとはまった。
――羽山タカト。
駅の広場で歌い続けていたあの青年。
まじまじと見てしまった俺に、彼はかすかに目を細めて、しー、と唇に指を当てた。
俺は真面目くさった顔で頷く。黒縁の眼鏡は伊達眼鏡だろうか。だからすぐ結びつかなかったのだ。
目の前に羽山タカトがいて、俺の絵を見ている。絵を描いているとき、ラジオで何度も聞いた曲を歌っていた人が、目の前にいる。変な気分だった。
「素敵な絵ですね」
まっすぐな誉め言葉にも、まるで現実味がない。どうも、と言ったきり、俺は答えに窮する。
「きれいだなって思って見ていたら、タイトルが『言葉』で鳥肌が立ちました。言葉って、どれだけ慎重に選び取ったつもりでも、どこかに伝えきれない部分が生まれてしまうんですよね。限られた中で何かを伝えるのって、俺もすごく難しいなって思ってて。――この絵、すごくいいですね」
藍色の海。手のひらから水がこぼれおちる。たったそれだけの絵だ。
――伝わったのか。
感情がパンクして処理しきれない。目から鼻にかけてがじわりと熱くなる。
「あっ、俺、なんか失礼なこと言いましたか?」
俺は慌てて顔のまんなかを抑える。うつむいたまま、「いや、そうじゃなくて」と誤魔化そうとしても、涙目になってしまっているのが嫌でもわかる。
彼のせいなのか、俺のせいなのか、知らぬ間に注目を集めていたらしく、周囲がざわつき始めた。「ちょっと、外出ましょうか。……あの、もう少し時間あります?」眉をよせて彼が微笑した。
かくしてカリスマは俺を強引に引きずり込む。
少しはずれたところにある喫茶店に入った。奇しくも、以前永野と話した場所と同じ店だ。彼はココアとナポリタンを頼んだ。大盛にできるかどうかを店員に尋ねる。「いやあ、小腹すいちゃって」と、聞いてもいないのに、店員が去ってから言い訳をする。
ほどなくして、彼のココアと俺のコーヒーが出てきた。生クリームの乗ったココアに、しばらく彼はうっとりと頬を緩ませていたが、はっとしたように表情を引き締める。
彼がゆっくりと眼鏡を外した。
「さっきはちゃんと挨拶できなくてすみません。羽山タカトと言います」
名刺を差し出される。シンガーソングライター、という肩書が目に眩しい。少し恥ずかしそうにしているのが初々しかった。テレビカメラの前ではあれほど堂々としているのに。
最近、何かのCMのタイアップでさらに話題になっていた。テレビで見る機会は日に日に増えているような気がする。
「知ってます。聞いてるし」
「本当? 嬉しいな。一年生のブースにあったけど、ってことはまだ十九?」
「いや、一浪してるんで」
「そっか、じゃあ二つしか違わないのか」
フランクな笑み。いつの間にか敬語がとれている。屈託はないのに、どこか食えない。そんな男があれほど荒々しくまっすぐな歌を歌うのが、どこか不可解な気もする。
「もしよかったら、あの絵をCDに使わせてもらえませんか」
思いもしなかった言葉が放たれる。「俺の、絵を?」「はい」それきり沈黙がテーブルを包む。お待たせいたしました、と湯気をまとったナポリタンがテーブルに置かれた。ケチャップの甘いにおい。どことなくそちらを気にするタカト。どうぞ、と俺が言うと、ぱあっと顔を輝かせて、「じゃあ」と手を付け始める。
「わ、おいしい」
唇を赤くしながら、タカトはナポリタンの山をもりもり崩していく。先ほどまでの緊張感は一瞬で失せた。
俺はどこか気が抜けていた。珍しい生き物でも目の前にしている気分だ。
「さっきも言ったけど、あの絵はびっくりするくらい俺の所感そのままだった。その上、タッチも雰囲気もすごく好きでさ。なんというか、奇跡的に気の合う美人が目の前に現れたような……わかるかな」
「はあ……」
「ギャラはこのくらいになるはずだから、悪い話じゃないと思うんだけど」
概算だけどね、と言って見せられた金額は想像よりはるかに多かった。俺の一ヶ月のバイト代をゆうに超える値段。
こんなことがあっていいのだろうか。予想外の付加価値に目が回りそうだった。現実のスピードに自分の心が追い付いていない。美大に受かったときの、何かの間違いじゃないかという気持ちを、そのまま倍に煮詰めたような感じだ。
「どうでしょう」
口の周りを拭いて、タカトは不敵に笑う。
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