九重朱里
その人と初めて出会ったのは、五歳の時。ある日父が、一人の女の子を連れてきた。少し年上の、とても綺麗な女の子だ。
「今日からこの娘はお前の姉になる。仲良くしなさい」
しかも父は開口一番に、とんでもないことを言った。
その発言が無茶苦茶なものであることは、幼いながらに理解できた。けれどその時の少女は、いきなり義姉ができたことに戸惑い以上の喜びを抱いた。
少女は一人っ子故、ずっと兄弟がほしいと思っていたのだ。兄弟のいる友達のことを、内心羨ましく思ったことも何度もある。
その願いが叶った。しかもできたのは、自分より年上の頼れる
少女は幼い故に無邪気であり、同時に無知でもあった。それに義姉ができた喜びで、些細な疑問など考えられなかったんだ。
――この時の少女は何も知らなかったし、何も気付かなかった。父の自分と義姉になる少女に向ける瞳の温度差も、なぜいきなり父が義姉になる少女を連れてきたのかも。
家族が一人増えてから数日後、義姉になったあの子のことを『お姉ちゃん』と勇気を出して呼んでみた。初めて口にした『お姉ちゃん』という単語は、想像してたよりもくすぐったくて少しだけ照れ臭かった。
少女に『お姉ちゃん』と呼ばれて、義姉は一目で分かるほど困惑していた。ただその表情はよく見てみると、嫌がってるというよりはどう答えればいいのかといった戸惑いに似たものであることがすぐに分かった。
嫌というわけでないことが分かり一安心する。実は内心『お姉ちゃん』と呼ばれて嫌な顔をされないか幼いながらも不安に思っていたのだ。
しかしほっとしたのも束の間、その場に偶然居合わせた母が烈火の如く怒りを露わにした。厳しくはあるが、それでも好きだった母の生まれて初めて見る本気の怒りに、心の底から恐怖した。
「私の子に近づかないで……!」
母は少女を抱き寄せると親の仇でも見るような眼差しで、義姉にそう警告した。
母の敵意剥き出しの言葉に、義姉は一瞬だけクシャっと泣きそうに顔を歪めた後、その場をあとにした。
その後少女に向けて母は言った、汚らわしい売女の子だから義姉には近づいてはいけない、家族と思ってはいけないと。
まだ幼く『売女』という言葉の意味は理解できなかったが、それでも母が義姉を嫌悪してることだけは五歳の子供でも容易に察せた。
母の言葉が間違っているのはすぐに分かったけれど、母の言うことには従うしかなかった。まだ幼い少女にとって、母の言うことは絶対だったから。
当時は幼かったため母の義姉に対する様々な理不尽の理由は分からなかったが、それもある程度年月を経て成長することで次第に分かるようになってきた。
どうも義姉は、自分とは腹違いの姉妹だったらしい。父がある時一夜の過ちで生んでしまった子供とのことだ。それがどういった経緯でこの家に来たのか、理由は不明だったが一つだけ分かったこともある。
それは母の義姉に対する酷い仕打ちのことだ。
躾と称して母が義姉に理不尽に怒鳴り散らしたり手を挙げていた理由も、納得はできないが理解はできる。父が浮気してできた子供と一つ屋根の下で暮らすなんて、母からすれば苦痛でしかないだろう。
ある意味母も被害者と言える。もちろん、それで母の義姉に対する仕打ちが正当化されることはないが。
義姉は一度だって母の理不尽に反抗したことはなかった。ただ、その全てをどこか諦観を感じさせる顔で受け入れていた。
その様はあまりにも痛々しかったが、少女は何もしなかった。いや、より正確に言えばできなかったというのが正しい。もし義姉の味方をすれば、母が壊れてしまうと理解していたから。
母は理不尽な仕打ちをして貶めることで、辛うじて義姉の存在を容認していた。自分が義姉の味方をしてしまえば、母に味方する人はいなくなってしまう。少女は母と義姉を天秤にかけ、母を選んだのだ。
一度父に裏切られ傷付いた母がこれ以上悲しむ姿は、見たくなかった。だから罪悪感に苛まれながらも、義姉を切り捨てた。
申し訳なく思いながらも、少女は母の行いを見ないフリをし続けた。
それから更に年月が経ち少女は中学生、義姉は高校生になって半年が過ぎた頃、父は唐突に義姉に婚約の話を持ってきた。持ってきたといっても、義姉に拒否権はないが。
しかも相手は御手洗グループの縁者とのことだ。御手洗グループと言えば現在のトップが戦後に興した企業で、僅か半世紀ほどで国内有数の大企業へと成長を遂げたことで有名なところだ。
会社の経営が数年前から上手くいってないことは何となく察していたから、金銭の絡んだ政略的な婚約であることはすぐに分かった。
これまで冷遇してきたのに、自分たちの都合で義姉を利用しようとする父に怒りと軽蔑の入り混じった感情を抱いた。
同時に憤るばかりで何もしない自分を嫌悪をした。初めて義姉に会った頃と比べて成長したとはいえ、まだ子供の少女にできたのは、精々義姉の婚約相手がいい人であるのを願うことだけ。
婚約はあっさりと成立し、姉は家を出た。姉が家を出たことで母は数年ぶりに穏やかな表情を見せたが、それ以外に家に特別大きな変化はなかった。数年間暮らしていた人間が一人いなくなったというのに、あまりの変化のなさだ。
義姉が家を出て二週間と少々が経った頃、義姉は月に一度の近況報告のために戻ってきた。
母は義姉の顔も見たくないということで部屋に引きこもっていたが、少女は二週間ぶりに戻った義姉のことが気になり、様子を見に行った。
すると視界に映ったのは、穏やかな表情をした義姉だった。
母に何をされても淡々と機械のように受け入れていた義姉があんな表情をできるなんて、初めて知った。
僅か二週間ほど見ない間に、義姉に何かあったのは間違いないだろう。それぐらい、劇的な変化だった。
二週間の間に義姉に何があったのか、どうしてそんなに優しい表情をするようになったのか。
これまでどんな目に遭っていようと見ないフリをしていたのに、今更義姉のことが気になるなんて勝手な話だ。
けれど八年以上一緒に暮らしていて一度も見たことがない義姉の表情は、見なかったことにはできなかった。
とはいえ、知りたいとは思ったものの知るための手段がほとんどない。知っていそうなのは義姉本人、もしくは……。
「御手洗浬……」
父から聞いた、義姉の婚約者の名前を呟いた。彼については、名前と義姉と同い年であること以外は何も知らない。
しかし彼は義姉と一つ屋根の下で暮らしているから、義姉の変化について何か知ってるかもしれない。
それとなく父に義姉が現在住んでる家の住所を聞き、鉢合わせになるのを避けるために義姉が確実に家を空ける日――近況報告に来る日に行動することにした。
「ここが……」
そして現在、目的の二階建て一軒家の前に来ていた。何の変哲もない、普通の家だ。
インターホンを押す。軽快な音がしてからしばらくすると、ドアが開かれ奥から一人の少年が現れた。
恐らくこの彼が義姉の婚約者である、御手洗浬なんだろう。
失礼ながら第一印象は、根暗そうなイメージを抱いてしまう。容姿の整った義姉とは、どうしても不釣り合いに見えてしまう。
「ええと……君は誰だ?」
「私は――
義妹であることを名乗るか一瞬躊躇したが、自分のことを紹介するのなら義姉との関係は口にしておかなければいけないので言うことにした。
「九重の妹……? 九重って妹がいたのか……」
婚約者の彼の反応からして、義姉は自分の存在は話していないようだ。
だが、それも当然のことだろう。これまで何があろうと助けることなく無関心を通し続けたのだ、わざわざ話したりするはずもない。
そもそも向こうは自分のことを家族と認識しているのかすら、怪しいところだ。
「九重なら、今は実家の方に戻ってるからいないぞ?」
「はい、知っています。今日こちらに来たのは、あなたに話があったからです。御手洗浬さん」
「俺に? ……こんなところで立ち話もなんだし、話をするなら上がっていってくれ。軽いお茶とお菓子ぐらいなら出せるからさ」
「ありがとうございます。お言葉に甘えさせてもらいます」
ペコリと頭を下げてから、彼のあとに続いて家に上がった。
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