婚約者のチョコ

 いつもとは違う雰囲気の学校だったが、あまりバレンタインに関心のない浬にとっては普段とあまり変わりのない一日だった。


 故に放課後も何か特別なことが起こることもなく、普段通り帰宅した。


 由香里もいつもと同じく帰りにスーパーに寄っていたので、浬より遅れる形で帰ってきた。


 夕食を作る時間帯になると、由香里はソファーから立ち上がり慣れた手つきでエプロン着る。そのまま台所に向かうのかと思えば、浬の方に視線をやった。


「……そういえば御手洗君は、今日はチョコレート何個もらったんですか?」


「俺? 俺はゼロだよ、ゼロ。俺みたいなモテない人間が、チョコなんてもらえるわけないだろ?」


 自分で言ってて虚しくなるが、どうしようもない事実なのだから仕方ない。


 バレンタインは、イケメンのみが楽しむことを許されるイベント。浬のような非モテには縁のないものだ。


「ゼロ? 今朝深雪さんからもらっていませんでしたか?」


「あー……まあ、一応もらいはしたな。けど、何というかだな、俺の中では深雪からのチョコはもらったチョコにカウントしてないんだよ」


 深雪からのチョコは、浬的には母親からもらったお情けのチョコのようなもの。だから、もらったチョコの一つとしてカウントするのは、男のプライド的に躊躇するものがある。


 そもそも、もらったチョコの個数に義理チョコは含めてもいいのかという疑問があるが、ややこしいので考えないことにしておく。


「ああ、もらったチョコにカウントしないからって、ホワイトデーのお返しをしないわけじゃないからな? お返しはしっかりするつもりだ」


「御手洗君は意外と律儀ですから、その辺りのことは疑ってませんよ」


 と、当然のことのように言った。


 由香里の絶大な信頼に戸惑う。なぜここまで信頼してくれるのだろう。約四ヶ月の同棲生活の賜物だろうか。


「ですが深雪さんのチョコを数に入れないとなると、御手洗君はチョコレートをもらえなかったということになりますね」


「……そういうことになるな」


 ゼロチョコは毎年のことなので慣れているのだが、他人の口から改めて言われると少しばかりむっとなる。


「……そういう九重は、誰かにチョコを渡したりしたのか?」


「いいえ、誰にも渡していません。渡すような人はいませんから」


 由香里の学校での人付き合いは、必要最低限ものでしかない。故に義理であれ本命であれ、チョコを渡すほど親しい男子などいないだろう。


 まあ逆に由香里からのチョコを期待してる人間は、かなりの数いそうだが。






「御手洗君、食後のデザートはほしくありませんか?」


 夕食を食べ終えた後、由香里がそんなことを訊ねてきた。


「デザート? 何か用意してるのか?」


「はい、用意してあります……できれば、食べてくれると嬉しいです」


 どこか懇願するような口振り。由香里がここまで言うのは珍しいことだ。


 となると、用意したデザートというのは浬にそこまで勧めたくなるほどのものということになる。夕食を食べた直後ではあるが、まだ多少なら腹に余裕がある。


 それにせっかく由香里が勧めてくれたのだ、断るのも悪い。浬はありがたく、食後のデザートをいただくことにした。


「どうぞ、御手洗君」


 そう言ってダイニングテーブルに座る浬の前に、可愛らしいラッピングの施された箱を置いた。


 まるで人に渡すプレゼントのようだと感じたのは、決しておかしなことではないはずだ。


 疑問に思いつつも箱を開けてみると、中に入っていたのはブロック状のチョコレートだった。ココアパウダーらしきものがふりかけられている。


「…………」


 丁寧なラッピングの施された箱と、中に入ってるチョコレート。しかも今日はバレンタイン。この意味が分からないほど、浬はバカじゃない。


「……さっき、チョコを渡すような人はいないって言ってなかったか?」


 訊ねてみると、由香里バツの悪そうな、それでいてどこか気恥ずかしそうな顔をした。


「そ、それはあくまで学校での話です。家なら別です。それとも……迷惑でしたか?」


「いや、そんなことはないけど……」


 嫌なわけがない。むしろ、嬉しいぐらいだ。バレンタインは自分には縁のない行事と割り切ってはいたが、実際にもらえるとなると話は別である。


 実は内心、由香里がチョコを用意してくれるのではと期待したりもしていた。ただ、それはあくまで期待でしかなく、半ば自分なんかに用意してくれてるわけないと思っていた。


「なあ、このチョコって……」


 ――本命なのか、それとも義理なのか。


 そう問い質そうと口を開きかけて、やめた。


 訊くまでもないことだ、このチョコは義理に決まっている。訊いたところで、『婚約者としての義理』なんて言葉が返ってくるに違いない。


 こんな妄想のような考えをしてしまったのは、バレンタインの甘ったるい空気のせいに違いない。バレンタインを縁のないイベントだと感じでいながら、知らない内にバレンタインの空気に毒されていたようだ。


「それじゃあ、早速もらうとするか」


 気持ちを切り替えて、視線をチョコに落とす。箱の中の丁寧に並べられたブロック状のチョコを、一つ手に取り、口に運ぶ。


 どうやら由香里のくれたチョコは、生チョコだったみたいだ。柔らかい生チョコは口に入ると、あっさりと溶けて口内いっぱいに濃厚な味わいが広がった。


 浬のために作ったからだろう。当然の如く甘さは控えめで、甘いものが苦手な浬に不快感を抱かせない。


 生チョコにまぶされたココアパウダーが、砂糖の類が一切ない純ココアを使っているからだろう。ココアの風味は感じるが、決して甘くはない。それにこれなら、コーヒーとの相性も良さそうだ。


「どう……ですか?」


 由香里は少しの不安が入り混じった表情で、おずおずといった感じで感想を求めてきた。


「ああ、このチョコ本当に美味いよ、九重。ありがとうな」


「そう、ですか。初めて作ったので上手にできたか不安でしたが、そう言ってもらえると……嬉しいです」


 由香里の口元に、ふにゃりと柔らかい笑みが浮かぶ。先程までの自信のなさそうな顔が嘘のようだ。


「けど、こんなのいつの間に作ってたんだ? 家ではチョコ作りなんてしてなかっただろ?」


「一昨日です。深雪さんの家の台所を借りて作りました」


 一昨日と言えば日曜日だ。そういえばあの日は用事があるとかで外出してた。由香里が買い物以外で休日に外出するのは珍しいと思っていたが、チョコ作りのためだったというわけだ。


 納得すると同時に、今朝から密かに抱いていたもう一つの疑問が解消された。


「深雪が今年は手作りチョコを用意してたのは、九重が家に来たからなんだな。あのトリュフ、九重が教えたんだろ? 深雪に料理教えるの、大変じゃなかったか?」


「いいえ、深雪さんは真剣にチョコ作りに取り組んでいたので、大変ではありませんでしたよ。それに私、誰かと一緒に料理するのは初めてでしたから、むしろ楽しいくらいでした」


 語る由香里の声音が弾んでいることから、彼女の言葉は嘘ではないんだろう。深雪が真剣にチョコ作りに取り組む姿というのはいまいち想像できないが、楽しかったのなら何よりだ。


 わざわざ深雪の家の台所を借りたのは、渡す相手である浬に作ってるところを見られたくなかったからなんだろう。


 もう一つチョコを口に運ぶ。先程と変わらぬ味わいに、頬が少しだけ緩む。


 このチョコを作るのがどれほど手間がかかることなのか、料理をしない浬には見当もつかないが、それでも決して楽ではないことは分かる。


(これはお返しも相応のものにしないとな……)


 果たして、このチョコに見合うだけのお返しとなると何がいいだろうか。


 お返しは何がいいかと思案しながら、浬はまた一つ口に含んで濃厚なチョコの風味を楽しんだ。

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