いつもと違う朝

 婚約が成立した次の日の朝。


 浬はいつも通り、七時に設定したスマホのアラームで目を覚ました。


「ふあ……」


 上体を起こして一度欠伸をしてから、緩慢なベッドから抜け出す。本当は睡眠欲に身を任せて二度寝といきたいところだが、今日は平日で学校があるので断念する。


 寝起き特有の半覚醒状態のまま部屋を出ると、ゆっくりとした足取りで一階のリビングに向かう。


「ん……?」


 リビングの近くまで来たところで、浬の鼻が何やら芳しい香りを嗅ぎ取った。何だか、とても食欲をそそる香りだ。


 おかげで半覚醒状態だった脳がクリアになり、完全に覚醒した。


「あ、おはようございます、御手洗君」


 浬がリビングに足を踏み入れると、由香里がキッチンから朝の挨拶をしてきた。


 一瞬、なぜ自分以外の人間がこの家にいるのかと動揺したが、すぐさま昨日のことを思い出して冷静になる。そう、目の前の少女とは昨日から同棲することとなったのだ。


「……おはよう、九重」


 高校生になったのを機に一人暮らしを始めた浬にとって、目が覚めると家に誰かがいるというのは久しぶりのことだ。何だかとても不思議な感覚だ。


「ところで……何してるんだ?」


「今は朝食を作っているところです」


「ああ、それでエプロンを着てるのか」


 今の由香里は紺色のエプロンを身に付けていた。この家にはエプロンなどないので、恐らく昨日届いた由香里の私物だろう。


 学校ではまずお目にかかれない、女の子のエプロン姿。由香里クラスの可愛い女の子のものとなると、思わず見惚れてしまいそうな不思議な魅力がある。端的に言うと、由香里のエプロン姿はとても似合っていた。


「御手洗君、どうかしましたか?」


「……何でもない」


 見惚れていたことを悟られまいと、浬は視線を逸らす。


「もう少ししたら朝食もできるので、座って待っててください」


「分かった。何か手伝うこととかあるか?」


「いえ、大丈夫です。御手洗君は朝食ができるまで、ゆっくりしていてください」


 やんわりと申し出を断られてしまったので、浬は言われた通りダイニングテーブル前の椅子に座って待つことにした。


 退屈しのぎも兼ねてテレビを点け、他愛ないニュースを眺めて時間を潰す。


「…………」


 テーブルに頬杖をついてテレビを眺めているにも関わらずニュースの内容が頭に入ってこないが、それは当然のこと。


 何せ視線こそテレビに向いているが、意識の方は台所へと集中しているのだから。


 台所から調理をする音と、食欲を刺激する香りが漂ってくる。この二つが、由香里の存在を伝えてくれる。


 自宅に婚約者でありクラスメイトでもある少女がいて、朝食を作ってくれる。ほんの少し前までなら考えられない状況だ。


 この家に自分以外にも人が、それも女の子がいるというのは落ち着かない。昨日から一夜明けても、妙に緊張してしまう。


(俺、ちゃんとやってけるかな……)


 朝から何とも言えない不安が、浬の脳裏をよぎるのだった。


 それから数分後。由香里の言葉通り、朝食はすぐにできた。


 朝のメニューは綺麗な焼き目の付いたトースト、芳ばしい香りを放つベーコンエッグ、トマトとレタスのサラダの三種類。


 浬は元々朝はあまり食べる方ではなく、食べたとしても精々菓子パンぐらいだったので、まともな朝食など久しぶりだ。


「昨日も思ったけど、九重って本当に料理上手なんだな」


「……この程度、褒めるほど大したことではありませんよ。それよりも、早く食べましょう。せっかくの朝食が冷めてしまいます」


 由香里が食べるよう急かす。


 まるで何かを誤魔化すかのように感じたのは、浬の勘違いというわけではないはずだ。


(もしかして今……照れたのか?)


 そういえば昨日夕食を褒めた時も、何やら由香里の様子はおかしかった。あれも照れ隠しの一環ということだろうか。


 もし浬の推察通りだとしたら、由香里は存外照れ屋なのかもしれない。






 由香里の言う通りせっかくの朝食が冷めてはもったいないので、会話もそこそこに二人は朝食を食べ始めた。


 朝食は昨日の夕食に比べるとシンプルだが、それでも決して美味しくないというわけではなかった。


 十数分もすると浬は昨日同様、残すことなく綺麗に食べ切った。


「ごちそうさま」


「はい、お粗末様です。全部綺麗に食べてくれたんですね」


「そりゃ、こんだけ美味いからな。さっきも言ったけど、九重ってやっぱり料理上手だよな」


 二度目の手料理で、改めて由香里の料理も腕の高さを思い知った。


「……褒めすぎですよ。御手洗君のこれまでの荒んだ食生活で食べてきたものに比べたらまともかもしれませんが、大したものを作ったわけではありません」


「褒めすぎってことはないだろ。この朝食も、お世辞抜きで凄く美味かったぞ」


「……そんなに褒めても何も出ませんよ?」


「そういうつもりで言ったわけじゃないよ。ただ純粋に美味しかったってことを伝えたかっただけだ。別におかしなことじゃないだろ?」


「それはそうですけど……」


 歯切れの悪い言い方をする由香里。何やらきまりの悪い様子だ。


「あ……そういえば御手洗君に渡すものがありました」


 由香里は不意に立ち上がると、一旦キッチンに向かってから十秒もしない内に大きめの布に包まれた四角いものを持って戻ってきた。


「どうぞ、御手洗君」


「これは?」


「お弁当です」


「お弁当?」


 由香里に手渡されたものを見る。確かに大きさ的には弁当箱くらいのサイズだ。


「どうして俺に……?」


「どうしてって、それは御手洗君のためにお弁当だからですよ。迷惑でしたか?」


「迷惑じゃないけど……いつの間に作ってたんだ?」


「今日です。一時間半ほど前に起きて作りました」


 今が大体七時半なので、一時間半前となると六時ぐらい。学生が目を覚ますには、かなり早い時間だ。


 そんな朝早くに起きて弁当を作る。しかもそれに加えて朝食まで用意する。決して楽ではないことは、浬でも容易に察せた。


「なあ九重、無理してないか?」


「無理……ですか?」


 質問の意味が分からない。そう言いたげな顔をする由香里。


「確かに昨日家事は九重に任せるって決めたけど、俺はお前に無理を強いるつもりはないんだ。だから早起きして弁当を作ってくれるのはありがたいけど、もし辛いならやらなくてもいいんだぞ?」


 もし無理をさせてしまって、由香里が体調を崩しでもしたら心苦しい。


「ああ、そういうことですか。無理はしてないから大丈夫ですよ。弁当を作るのも早起きするのも日課ですから、苦ではありません」


 と、由香里は淡々と返した。嘘を吐いてるとは思えないので、きっと本当のことなんだろう。


「そっか、ならこの弁当はありがたくいただくとするよ。けど本当に無理はするなよ?」


「はい、分かってます。気遣ってくれてありがとうございます」


 由香里は感謝の言葉を告げた。

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