由香里の絶望

 ――遡ること、数時間前。


 由香里は定期報告のために、実家に戻っていた。


 実家である九重の家は、昔ながらの日本家屋だ。何度か改築をしたらしいが、かなり古い建物であることは一目で分かる。何でもこの家は戦前から存在するものらしく、単純に古いのではなく歴史を感じさせる造りだ。


 一般の家とは比べものにならないくらい大きく、九重の家は屋敷という言葉がしっくりくる。


 長い渡り廊下を進む。目的地である父の部屋は、屋敷の一番奥の位置しているので移動にそれなりの時間を食う。


「あ……」


 その途中、人と遭遇した。この屋敷は広さとは裏腹に人の数は少ない。かつては屋敷の管理のためにも多くの使用人を雇っていたらしいが、凋落以降は金銭面の問題で雇っていない。


 故に食事時でもない限りこの広い屋敷でこうして誰かと遭遇するというのは、かなり珍しいことだ。しかもその相手が義理の妹ともなれば、驚くのも仕方のないこと。


 彼女と顔を合わせるのは、随分と久し振りだ。義母のこともあり、常日頃互いに極力顔を合わせないようにしてきたので、これまで二人はあまり顔を合わせる機会がなかった。


 勘違いしないでほしいが、由香里は別に朱里のことを嫌っているというわけではない。ただ、どう接すればいいのか分からないのだ。


 二人は長年一緒に暮らしていたにも関わらず、あまりにも互いのことを知らなかった。故にどう話を切り出せばいいのか、見当もつかない。


 向こうも突然の再会に戸惑ってるようで、困惑の表情を浮かべていた。


「「…………」」


 重たい沈黙が場を支配する。相手のことを知らない以上、どう会話を切り出すのが正解か分からない。なので、軽い挨拶だけしてこの場を離れようと決める。


 だがその前に朱里が、その小さな口を動かした。


「お、お久し振りです、義姉ねえさん……」


「え……」


 二度目の驚愕が由香里を襲う。


 今目の前の義妹が『義姉さん』と呼んだ気がした。空耳かと思ったが、彼女のどこか不安に揺れた瞳を目にして違うことはすぐに理解した。


 義姉さんなどと呼ばれるのは十数年振りのことだ。初めて呼ばれて以降、今この瞬間までされることのなかった呼び方だ。


 どうして今になってそう呼ぶのか、理由は見当もつかない。ただ一つ分かるのは、眼前の義妹が義姉さんと呼ぶのに勇気を振り絞ったということだけ。


「――はい、お久し振りです、朱里さん」


 だから由香里は生まれて初めて、義姉として応じてみせた。


 朱里は目を丸くする。もしかしたら、応じてくれるとは思っていなかったのかもしれない。


「元気にしてましたか、朱里さん?」


「……! は、はい、元気にしてました。風邪なんかも引いてません……義姉さんもお元気でしたか?」


「はい、ご覧の通り私も風邪の類は一切引くことなく、健康に過ごしていました」


 交わされるのは少しぎこちなくはあるものの、他愛のない会話。姉妹ならば当たり前のようなものだ。けれど彼女らにとってはかけがえのない、奇跡のような瞬間でもあった。


 朱里の視線が、ふと由香里の首元の辺りへと移る。


「あの……義姉さん、その首のネックレスはどうしたんですか? もしかして、婚約者の方からの贈りものでしょうか?」


「はい、御手洗君――婚約者の方からもらいました。よく気付きましたね」


「義姉さんがそういったものを身に付けているのは、初めて見ましたから。大事なものなんですね」


「……はい、とても大切なものです」


 由香里が今身に付けているのは、ホワイトデーに浬からもらったネックレスだ。ここ最近はずっと肌身離さず持っている。


 由香里は特に理由がなければあまり着飾ることに興味はないのだが、不思議とこのネックレスだけは肌身離さず所持していた気持ちに駆られる。


 デザインは確かに好みではあるけれど、どうしてこんな気持ちになるのかは自分でもよく分からない。とても不思議だ。


「……少しだけ変わりましたね。義姉さん」


「変わった? 私が……ですか?」


「はい、間違いなく変わりましたよ。少しだけ、前よりも雰囲気が柔らかくなってます」


 雰囲気が柔らかくなったと言われても、あまり自覚はない。それにこの家出てからの僅か半年程度で、何かが変わるとも思えない。


 けれど仮に朱里の言う通り変わったのだとしたら、そのきっかけはきっと……。


「顔が赤いですけど大丈夫ですか、義姉さん?」


「は、はい、大丈夫です……」


 不思議と頬が熱いけれど、決して風邪の類ではないので大丈夫だ。


 それから少しだけ会話を続けて、父への報告があったので区切りのいいところで別れた。


「ふふふ……」


 父のいるであろう部屋へ向かう最中、自然と笑みが零れる。


 初めて義妹とまともな会話ができたからか、心地いい気分だ。この家でこんなにも穏やかな気持ちになれたのは、生まれて初めてかもしれない。


 そうして清々しい気持ちで歩を進めていると、再び人に遭遇した。


「…………ッ」


 向こうは由香里を視界に収めると、決して穏やかとは言えない雰囲気と共に鋭い視線で射すくめた。


 その視線を受け、逃げ出すわけにもいかず由香里の身体は恐怖で竦んだ。先程までの穏やかな気分など霧散し、弱音を漏らしそうになる心を抑えつけて由香里は挨拶をする。


「お、お久し振りです……明美あけみさん」


 微かに震える唇で義母――九重明美の名前を呼ぶ。


 明美は由香里に名前を呼ばれ、不快げに表情を歪める。彼女からすれば、由香里に名前を呼ばれることすら嫌悪の対象なんだろう。


「どうしてあなたがこんなところに……ああ、そういえば今日は月に一度の報告日でしたね。全く、忌々しい……」


 明美は嫌悪の感情を隠すことなく、言葉にして吐き出す。


 彼女の態度はいつものことだったので、由香里はいちいち反論しない。甘んじて受けることにしてる。


 彼女にとって自分の存在は視界に入れることすら疎ましいと思っているのは知っているので、互いのために早足で立ち去ろうとする。


 一言「失礼します」とだけ残してその場を離れようとするが、明美はそんな由香里を呼び止めた。


「待ちなさい、由香里さん。……何ですか、そのネックレスは? あなた、以前はそんなもの持ってはいませんでしたよね?」


「これは……婚約者の方にもらったものです」


「まあ色気づいて、いい気なものですね。この家を出て自分の立場というものを忘れてしまったようですね」


 生意気だとでも言いたげな口調。ネックレスの一つであっても、由香里が持ってることは気に入らないようだ。


 不快げな視線がネックレスに注がれる。


「それにしても……あなたに贈りものなんて随分といい趣味をしてるようですね、その婚約者は」


「…………ッ」


 話の矛先が由香里ではなく、この場にいない浬へと移ったことを察した。


「まあ、あなたみたいな卑しい女を婚約者に選ぶ時点で、その婚約者もロクな人間ではないのでしょうけど。あなたみたいな子に贈りものまでするようなら、女性の趣味も大分悪いようですしね」


 この場にいない浬のことをこれでもかというほど罵る。彼を貶すことで、その婚約者である由香里のことも同時に貶しているつもりなのかもしれない。


 実に明美らしいと思った。彼女は由香里を罵ることには一切の余念がない。


 こういうのは、いつものことだ。決して否定などせず、黙々としていればいずれ終わる。黙っていることが、この場における最適解だ。


「て、訂正してください、御手洗君はそんな人じゃありません……!」


 けれど、今回だけは許容できなかった。自分のことなら我慢できるのに、浬のことになると黙っていられなかった。


 どうして浬を悪く言われて我慢できなかったのか。その根幹にある感情が何というものなのか、今の由香里には分からない。


 明美は一瞬目を丸くしたが、次の瞬間には眦を吊り上げ、怒りを露わにした。


「……少し見ない間に、随分と生意気な口を叩くようになりましたね。家を出たことで、増長してしまったということですか」


 初めて由香里が逆らったからなのか、声音にはこれまでにない怒気が入り混じっている。


「ですが、私は何も間違ったことは言ってません。あなたがどういう人間なのかを理解した上で、婚約者に選んだのでしょう? なら、ロクな人間でないと思うのは当然のことでは?」


「……違います。御手洗君には、私の出自に関して何も話していません」


 ポツリと囁くような声量で呟く。この場にいない浬に対する罪悪感からか、声音は酷く弱々しい。


 しかし目の前に立つ明美には、しっかりと聞こえていた。


「由香里さん、あなたは本当に卑しい子ですね。まさか自分のことを何一つ話していないなんて……確かに先程の侮辱は訂正するべきですね。むしろその婚約者の方に同情したくなってきましたよ、私は」


 侮蔑の視線が突き刺さる。由香里は視線に耐えきれなくなり俯いてしまった。


 明美の言葉は悲しいほど正論だから、一切の反論もできない。


「どうやら婚約してすっかり忘れてしまったようですから、今一度ハッキリと教えておきましょう」


 そこで一旦言葉を止めてから、数舜後に話の続きを始めた。


「いいですか? あなたみたいないらない子、必要とする人間なんて一人もいない。あなたの婚約者も、あなたがどういう人間なのか知ればきっと離れていくでしょうね」


「…………ッ」


 明美の言葉は、いつだって由香里の胸を抉ってきた。今回もそれは例外ではない。だがこの時の彼女の声音は、まるで由香里の心身まで染み込ませるようで言葉は鋭利な刃物のように鋭くなり、由香里の心に容赦なく傷を負わせていく。


 明美の言う通り、浬に軽蔑され自分から離れていく様を想像すると、涙が零れそうになった。


 彼に軽蔑されるのが怖い、嫌われたくない。そんな思いで胸の内はグチャグチャになる。


 明美は言いたいことを一方的に言い終えると、その場を立ち去った。後に残されたのは、呆然と立ち尽くす由香里だけ。


 ――それから先のことは、あまりよく覚えていなかった。気が付くと父に報告を済ませて、九重家を出ていた。


 その後家に戻らず公園に向かったのは、浬と顔を合わせるのが怖かったから。先程までの明美の言葉が、彼女に公園への逃げを選択させたんだろう。


 ただそれも結局は先延ばしでしかなく、戻らない由香里を心配した浬が迎えに来てしまったが。

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