新年
浬は学校がある時は大体七時前に起きているが、休みの日だと起床は大体八時過ぎになる。
本日はめでたい元旦ではあるが特に早起きなどすることなく、浬は八時頃に目を覚ました。
「おはよう、九重」
リビングに足を踏み入れると、まず同居人である由香里に挨拶をする。
「お、おはようございます……御手洗君」
「……? 九重、顔が赤いみたいだけど大丈夫か?」
「は、はい、大丈夫ですから気にしないでください」
と答えるが、顔の赤みが引く気配はない。
それにどこか様子もおかしい。挨拶をした直後は浬から視線を逸らしたかと思えば、チラチラと見てきたりもする。ハッキリ言って挙動不審だ。
「あ、あの御手洗君、昨日私、自分で部屋に戻った覚えはないのに朝目を覚ましたら自室のベッドの上だったんですけど、もしかして御手洗君が運んでくれましたか?」
「ああ、そうだ。確認も取らずに勝手に運んだり、部屋に入ったりして悪かったな」
「いえ、私の方こそごめんなさい。御手洗君にいらない手間をかけさせてしまいました」
心底申し訳なさそうに謝罪する由香里。
抱き上げた由香里の身体の感触やシャンプーの香りに悶々とさせられてた身としては、そう真摯に謝罪されると居心地の悪さを感じてしまう。
もちろん誓って変なことはしてないが、邪な気持ちを少しとはいえ抱いてしまったのは事実なので胸が痛い。
「それでその……運んだ時、重くはありませんでしたか?」
由香里が上目遣いで、恐る恐るといった感じで訊ねてきた。主語が抜けていたが、何のことを訊ねているのかはすぐに分かった。
「全然重くなかったぞ。むしろ軽すぎてビックリした」
「そう……ですか」
由香里がほっと安堵の息を漏らしたのを、浬は見逃さなかった。
由香里だって女の子だ。きっと部屋まで運んだ時に重いと思われたりしなかったのか、不安だったんだろう。
気にしすぎだと思わなくもないが、挙動不審だったのもそういう理由だったと考えると微笑ましい。
ただ、寝てる間に運ばれて気になるところはそれだけなのかと少し心配にもなった。普通、何かおかしなことはされなかったのかと警戒ぐらいはしてもいいはずだ。
それとも、浬はそんなことをする度胸もないチキン野郎だと認識されているのだろうか。だとしたら、地味にショックだ。
まあ、眠っている女の子を襲うような度胸がないのは事実ではあるが。
「けど、次からは気を付けてくれよ。俺も男なんだ、眠ってる九重に何もしないって保証はないんだからな」
「その点は大丈夫ですよ。……いくら睡魔に襲われたからといっても、私は自分を襲うかもしれないような人の隣で無防備に眠るほど危機感のない人間じゃありませんから」
「それって……」
つまり浬のことは、隣で眠っても問題はないと判断する程度には信頼しているということ。
信頼してくれるのは純粋に嬉しい。ただ、由香里にそこまで信頼されるようなことをした覚えはないので、内心首を傾げる。
「信頼してくれるのは嬉しいけど、あまり過信はするなよ。九重みたいな美人が相手だと、次も理性を保てる自信はないからな」
「び、美人ですか……分かりました、次からは気を付けます」
あえて恐怖を煽るような言い方をしたが、どうやら効果はあったみたいだ。
顔を真っ赤にした由香里を見て、浬はそう確信するのだった。
朝食を食べた後は、正月の特番を見て適当に時間を潰していた。今日は茂のところに顔を出す約束をしていたが、約束の時間は十二時なのだ大分時間がある。
そんな状況に変化が起こったのは、十時を過ぎた頃。ふとインターホンの軽快な音が耳に届いた。
正月早々に誰なのか。浬の知り合いに正月から顔を出しに来るような人間は、そんなにいない。誰なのかと当たりを付けつつ、玄関のドアを開ける。
「お久し振りです、坊ちゃん」
「……
ドアを開けた先にいたのは、タクシー運転手を彷彿とさせる服装の初老の男だった。彼の名前は
浬のことを坊っちゃんと呼ぶのは、彼が浬を生まれた時から知ってるからだ。彼からすれば、浬などまだまだ子供ということだろう。
余談だが、以前お見合いの際に浬の送迎の車を運転してたのも彼だ。
「お迎えに上がりました、坊ちゃん」
「お迎え?」
「はい。より正確には、私は茂様の命で坊ちゃんと婚約者様のお迎えに上がりました」
「約束の時間までは、まだ大分余裕があるだろ」
約束した時間は十二時、まだ二時間ほど余裕がある。迎えがあること自体は聞いていたが、来るのが早すぎる。
「坊っちゃんの言う通り、本来の時間にはまだ早いのですが……茂様が早く坊っちゃんに会いたいと言い出しまして」
「それでわざわざ伊黒さんを迎えに寄越したわけか……」
ほんの数時間程度も待つことができないのかと、茂の忍耐力のなさに内心呆れる。まるでワガママな子供のようだ。
「はい、そういうことになります。坊っちゃんには申し訳ありませんが……」
「ああ、分かってるよ。ちょっと由香里にも声をかけてくるから、待っててくれ」
浬は一度家の中に戻ると、由香里に迎えが来た旨を伝える。
由香里は約束の時間をいきなり繰り上げられて慌てるかと思ったが、予め準備は済ませていたようで特に慌てることはなかった。流石としか言いようがない。
二人は手早く身支度を整えると、家を出た。
家の前に停車していたリムジンに乗り、茂が待つ屋敷に向かう。三十分もすると、目的地に到着した。
「……とても大きな屋敷ですね」
車を降りた由香里の第一声は、そんな驚きに満ちたものだった。
二人の眼前に広がるのは、西洋建築の視界に収まり切らないほどの規模を誇る屋敷だ。
「ここに、御手洗君のお祖父様が住んでいるんですか?」
「そうだな。まあ仕事が忙しくて帰らないことも多いし、屋敷の管理のために住み込みで働いてる使用人もいるから、爺ちゃんが住んでると言っていいのかは微妙なところだけどな」
下手すると、屋敷にいる時間は茂より使用人たちの方が長いかもしれない。
「あの、少し疑問だったんですけど、御手洗君のお祖父様ほどの立場の方なら元旦とはいえ忙しいんじゃ……」
「ああ、その心配はしなくて大丈夫だ。爺ちゃん、毎年この日は仕事は完全に休みにしてるから」
「そうなんですか?」
「爺ちゃんは親族の繋がりを大切にするからな。毎年この日は親族を集めて、楽しく過ごすんだよ」
浬が物心ついた頃から、茂は例えどれだけ仕事が忙しかろうと元旦は毎年親族を集めて過ごしていた。それだけ親族との繋がりを大事にしていたであろうことが、今なら分かる。
「今更ですけど、そんな大切な日に私がお邪魔してもよろしかったんでしょうか? 私は親族ではありませんし……」
「大丈夫だろ。この前も言ったけど、呼んだのは爺ちゃんだし俺が誰にも文句は言わせない。……それに多分爺ちゃんの中では、九重は親族扱いだと思うぞ」
「え……私が、ですか?」
「ああ、俺の婚約者だからな」
断定はできないが、茂が由香里のことをちゃん付けで呼んでることから、それに近い確信は得ている。
あくまで婚約しただけなのに親族扱いは気が早いが、まあ邪険に扱われるよりはマシなはずだ。
「だからあまり気にしすぎるなよ、九重。せっかくの正月なんだ、どうせなら楽しく過ごそう」
「そう……ですね。せっかく招待されたんですから、楽しく過ごさないと失礼に当たりますよね」
「そういうことだ。それじゃあ、そろそろ屋敷の中に入ろう。こんなところに突っ立ってたら風邪を引くぞ」
二人は茂が待つ屋敷に向かって歩き始めた。
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