ホワイトデー
三月というのは、年度最後の月ということもありかなり忙しい。学生ならば三月は期末試験と修了式があり、大忙しだ。
だが面倒事ばかりというわけでもない。ホワイトデーという、バレンタインにチョコを受け取った者たちがお返しをする日もある。つまり修了式を明後日に控えた今日のことだ。
ホワイトデーを迎えた本日、浬は普段通り学校を終えると寄り道することなく帰宅し、現在は由香里が帰ってくるのをリビングのソファーに腰を下ろして待っていた。
「…………ッ」
ただ座ってるだけだというのに、心臓がうるさい。まるでマラソン直後のように心音は高まり、耳朶を打つ。
チラリと、右隣に置かれた紙袋に視線をやる。紙袋の中には、これから帰ってくるだろう由香里へ渡すホワイトデーのお返しが入っている。
(ただ渡すだけなのに、何でこんなに緊張してるんだよ、俺……)
内心、溜息が漏れる。
学校で深雪にホワイトデーのお返しを渡した時はこうはならなかったのに、いったいどうしたというのだろう。妙に緊張してしまう。
こうなってしまうのは、深雪以外にホワイトデーのお返しを渡すのが初めてだからなのか、それとも……。
「まさかな……」
浮かびかけたバカな考えを一笑に付す。いくらなんでもバカバカしすぎる。
それから待つこと数分。由香里は片手に学生カバンを、もう片方の手に買い物袋を持って帰ってきた。
「おかえり、九重」
「はい、ただいま戻りました……御手洗君、何かありましたか?」
「……? どうしてそんなことを訊くんだよ?」
「いえ、御手洗君が玄関まで来て出迎えるなんて珍しいことだったので。それにまだ制服から着替えてないようですから、おかしいなと思いまして」
「あ……」
指摘されたことで、浬もようやく自分が家に戻ってから着替えてないことに気が付いた。普段ならまず自室で着替えているのだから、未だに着替えていない浬は由香里の瞳には珍しく映ったことだろう。
どうやら自分でも思ってる以上に緊張してたみたいだ。一度着替えてから、頭を冷やすべきだろう。
浬は自室で着替えてから、再びリビングに戻ってきた。
由香里は丁度、買ったものを冷蔵庫に入れ終えたところだったようだ。台所を出たところで、戻ってきたばかりの浬とばったり遭遇する。
「九重、今ちょっといいか?」
「今……ですか? ええと、何か急ぎの用件ですか?」
「ああ、できるだけ早めがいいな。その、渡したいものがあるんだ……」
別に用意したお返しは時間経過でダメになってしまうようなものではないから、渡すタイミングはいつでもいい。
だがこれ以上の先延ばしは浬の心臓が保ちそうにないので、早めがいいと口にした。
そんな浬の切実な想いが通じたのか、由香里は「わ、分かりました……」と答えてくれた。今日がホワイトデーであることは由香里も知ってるはずなので、もしかしたら浬の用件を察してくれたのかもしれない。
二人は互いに少しだけ離れて、ソファーに座る。
由香里が座ったのを確認すると、浬は紙袋を手に取った。
「ほれ、これがお返しな。大したものじゃないけど、受け取ってくれ」
「は、はい……ありがとうございます」
恐る恐るといった手つきで、由香里は浬が突き出してきた紙袋を受け取る。それから紙袋の中に手を伸ばし、縦長の箱を取り出した。
「……開けてもいいですか?」
マジマジと箱を見つめながら訊ねてきたので、「好きにしろ」とだけ答えておく。目の前で開けられるのは恥ずかしいが、由香里の反応が気になるので我慢する。
由香里は浬の返答を耳にすると手早く、しかし丁寧な所作で箱を開ける。
箱の中に収まっていたのは、フラワーモチーフネックレスだった。モチーフになってるのは、デイジー、もしくはヒナギクとも呼ばれている花だ。
決して派手ではない、けれどモチーフとなったデイジーの白い花弁が品の良さを感じさせるネックレスだ。由香里にはピッタリのチョイスだと、自負している。
正直、ホワイトデーにネックレスのようなアクセサリーは重いのでは? という危惧もしたが、形だけとはいえ二人は婚約者同士。ホワイトデーにネックレスを贈ってもおかしくないはずだと思い直して、このデイジーのネックレスを選んだ。
「…………」
由香里は無言でネックレスを取り出し、ジっと見つめ続けている。表情一つ変えることなくネックレスに視線を注ぐ様からは、彼女の内心を窺うことはできない。
今の彼女の様子からでは、浬の贈りものを気に入ってくれたのか、それとも気に入らなかったのかすら分からない。あまり心臓に良くない状況だ。
「あー……気に入らなかったら言ってくれ。こっちで処分するからさ」
「……そんなこと言わないでください。このネックレス、とても可愛いですよ」
「そうか、なら良かった。一応九重に似合うかと思って買ってきたんだ、気に入ってくれたなら何よりだ」
由香里がネックレスを気に入ってくれたと分かり、浬は安堵する。
「御手洗君。このネックレス、付けてくれませんか?」
「そのぐらい、自分でできるだろ?」
「御手洗君に付けてほしいんです……ダメですか?」
その言い方は卑怯だ。そういう風に頼まれてしまえば、男ならNOとは言えない。もちろん健全な男子高校生である浬も、例外ではない。
浬は短く「分かったよ……」と呟いてから、由香里からネックレスを受け取る。
由香里は立ち上がるとその場でくるりと反転して浬に背を向けると、背中を隠すほど長い黒髪を束ねて前に持っていく。
結果、先程まで髪で隠れていた由香里の背が露わになった。特に浬の目を引いたのは、普段は隠れていてまず目にすることのない真っ白なうなじ。
「…………」
なぜかこのタイミングで、うなじは分泌されるフェロモンの量が多い場所の一つであるという、いつかどこかで耳にしたどうでもいい知識が頭をもたげた。
立ち上がって由香里に一歩近づくと、留め具を外して彼女の首元にチェーンを回す。少し距離が近いせいで甘い香りが鼻腔をくすぐるが、意識しないよう努めて手を動かす。
「ん……ッ」
「わ、悪い……!」
艶のある色っぽい声音に心臓が跳ね上がり、手が止まる。
「いえ、ちょっとくすぐったかっただけですから、気にしないでください」
「そ、そうか。なら続けるぞ」
動揺を押し殺して、再び作業を開始する。
「……終わったぞ」
チェーンを由香里の首回りで一周させて最後に留め具で留めてから、そう告げた。
由香里の純白の肌と艶やかな黒色の髪に、品のあるデイジーのネックレスはよく映える。自分のセンスが決して間違いではなかったと自信を持って言える。
実はモチーフとなったデイジーの花言葉には『美人』というものがある。由香里にはこれ以上ないくらい相応しい言葉だ。
「ありがとうございます……似合いますか?」
「ああ、よく似合ってる。やっぱり、そのネックレスにして正解だったな」
浬が素直に褒めれば、由香里は僅かに頬を紅潮させながらあどけない笑みを浮かべた。次いで胸元のネックレスを愛おしげに見つめる。
浬の称賛の言葉は、決して気の利いたものではない。だというのに由香里は、あの程度の言葉であんなにも幸せに満ちた表情をしている。
その様はあまりにも魅力的で、一生忘れないだろうと確信を抱かせるほどのものだった。
(ヤバいな……)
笑っている由香里から視線を外せない。まるで吸い寄せられるように、浬の視線は由香里に注がれている。
それに高鳴る心音がやかましい。頭では静まれと命じても、心音は高まるばかりで言うことなんて一切聞いてくれない。自分の身体なのに思い通りにいかないことに、微かな苛立ちを覚えた。
結局動悸が収まったのは、由香里が制服から着替えのためにリビングを出た後のことだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます