年越し

 十二月三十一日。それは一年の締めくくりの日だ。


 とはいえ、浬は何か特別なことをするわけでもなくダラダラと過ごしていた。大掃除のような年末にやるべきことはすでに終えているので、ダラダラしても問題はない。


 現在の時刻は午後七時過ぎ。すでに日は沈み、月が顔を出している。


 由香里は台所で夕食の準備をしている。


 今日のメニューは一年の終わりということもあって、年越し蕎麦とのことだ。料理上手の由香里が作るのだから、きっと美味しい蕎麦ができることだろう。できあがるのが楽しみだ。


「御手洗君、できましたよ」


 そう言って由香里が完成させた蕎麦は、浬の想定していた以上に豪華なものだった。


 由香里曰く、麺はスーパーで買ったものとのことだが、出汁は手作りとのこと。出汁を手作りというだけでもかなり手が込んでいるが、由香里の蕎麦はこれだけじゃない。


 具材としてカマボコ、ほうれん草、ネギが蕎麦の上にたっぷり載せられている。それに別皿には天ぷらが用意されている。


 天ぷらは海老、ナス、かぼちゃの三種類。天ぷらは由香里の手作りで、どれもまだ熱々だ。香りだけで食欲を刺激されてしまう。


 これだけ手間のかかるものを顔色一つ変えずに作ってしまう由香里は、素直に凄いと思う。


「御手洗君、冷めない内に食べてください」


「そうだな、冷めたらもったいないもんな」


 二人は両手を合わせて「いただきます」と口にしてから、箸を手にする。


 浬がまず最初に箸を伸ばしたのは、蕎麦。麺は市販のものだが、出汁は由香里お手製なだけあって美味い。


 優しい出汁の味が、口いっぱいに広がるのが分かる。


 次は天ぷらだ。出汁に浸しても美味いだろうが、せっかくの出来立てなのだからまずはそのまま食べてみたい。


 海老の天ぷらを口に運ぶ。出来立ての天ぷら特有のサクサク感と、海老のプリプリした食感が口の中を幸せにしてくれる。


 かぼちゃの天ぷらはかぼちゃ特有の甘みが口を楽しませ、ナスの天ぷらはナスの風味をしっかりと感じさせてくれる。


「……美味い。九重って、本当に料理が上手だよな。こんなに美味い蕎麦、生まれて初めて食ったよ」


「相変わらず大袈裟ですね、御手洗君は」


「謙遜するなよ。この蕎麦に限らず、九重の作る料理はどれも美味しいぞ」


「御手洗君がそう感じるのは、これまでカップ麺みたいな身体に良くないものばかり食べていたからじゃないですか?」


 由香里の鋭い指摘に、浬は「う……ッ」と唸る。


「だ、だとしても、九重の料理が美味かったのは本当だ。……今年は美味いものをいっぱい食わせてくれて、ありがとうな」


「……私の料理なんかで喜んでもらえるのなら、来年からも作りますよ。御手洗君は私がいないと、不摂生な生活に逆戻りしてしまいそうですし」


「お、おう。よろしく頼む」


 今日の由香里は中々痛いところばかり突いてくる。完全に浬の自業自得なので、仕方がないが。


 むしろ嫌な顔一つせず家事をこなしてくれる由香里には、もっと感謝を伝えるべきだ。


「……今年は色々と世話になったな、九重。成り行きで一緒に暮らすことになったけど、お前がいてくれて良かったよ」


「それはこちらのセリフですよ、御手洗君。今年は御手洗君のおかげで、とても楽しい一年になりました。感謝しています」


「そう言ってもらえると、俺も嬉しいな」


 同棲当初は上手くやっていけるかどうか不安になることもあったが、それも今となっては過去のこと。今はそれなりに上手くやれている。


 今のこの生活を、浬はそれなりに気に入っている。いつか終わりが来ることは理解しているが、その瞬間が訪れるまでは今の生活を大事にしていたい。






 普段、由香里は夜の十一時前には布団に入って眠っている。


 しかし今日は一年の締めくくりの日ということもあってか、十一時を回ったにも関わらず部屋に戻ろうとしない。どうやら年越しの瞬間を起きたまま迎えたいらしい。


 年末にもなると、テレビで放送するのは特番ばかりになる。


 いつもはあまりテレビを見ない浬も、こういう時の特番は嫌いじゃない。今は二人でソファに腰を下ろし、歌の特番を見ている。


 普段テレビを見ないだけあって聞き慣れない曲ばかりが流れているが、由香里は楽しそうにしているのでチャンネルはそのままにしてある。


「そろそろ時間か」


 そうしてぼんやりと曲を聞き続けていると、歌番組が終わりを迎えて年越しまでのカウントダウンを数える番組が始まった。


 残り五分、三分、一分とカウントダウンはどんどん年越しに近づいていく。年越しが秒読みになると、番組の盛り上がりは最高潮に達した。


 カウントダウンがゼロになると同時に、テレビの向こうから「新年、明けましておめでとうございます!」という声が届いた。新年を迎えた瞬間だ。


 直後、ポケットのスマホが震えた。


 取り出して確認すると、深雪から『あけおめことよろ』という雑な新年の挨拶のメッセージが届いた。


 浬は『今年もよろしく』という簡素なメッセージだけ返しておく。


 それから姿勢を正して由香里の方に向き直る。


「九重、明けましておめでとう――九重?」


 呼びかけるが、反応はない。代わりに規則的な寝息だけが聞こえてきた。


 顔を覗き込んでみると、案の定由香里は瞳を閉ざして眠っていた。身体を完全にソファーに預けていて、ちょっとやそっとじゃ目覚めそうにない。


 ここ数日は年末ということもあってあまり休む暇がないほど忙しかったから、由香里はかなり疲れていた。それが年越しのために夜更かしまでしたせいで、睡魔となって一気に襲ってきたに違いない。


(初めて見たな、九重の寝顔……)


 いやそもそも女の子の寝顔なんて、見たの自体が初めてだ。同級生の女の子の寝顔なんて、滅多に拝めるものではない。


 整った目鼻立ちに長い睫毛、それに柔らかそうな桜色の唇。それらが男である浬の前で隠されることなく晒されている。


 男の浬がいるというのに、由香里の寝顔は安らかなものだ。


(九重って、やっぱり美人だよな)


 元々由香里の容姿が優れていることは知ってたが、こうして無防備な顔を見せられたことで改めてそのことを思い知らされた。


「ん……」


 由香里の桜色の唇から小さな声が漏れた。


「…………ッ!」


 心臓の鼓動がこれ以上ないくらい跳ね上がり、身体が強張る。別に悪いことをしたわけではないのだから堂々としてればいいのに、動揺してしまう。


 心臓の鼓動が早くなるのを自覚しながら由香里の次なる動きに注目するが、動く気配はない。どうやら起きたわけではないみたいだ。


 リビングは暖房が効いてるから風邪を引くことはないだろうが、ソファーで寝ると身体を痛めてしまうかもしれない。このまま由香里を放置するわけにもいかない。


「九重、起きろ」


 控えめな声音で呼んでみるが、反応はない。熟睡している。


 その気になれば強引に起こすことも可能だが、せっかく気持ち良さそうに寝てるのに強引に起こすのは忍びない。


「仕方ない、部屋まで運んでやるか……」


 手間ではあるが疲れて眠ってしまった由香里のためということで、浬は由香里を部屋まで運んであげることに決めた。


 起こさないよう慎重に由香里の背と膝裏に手を回し、ゆっくりと抱き上げる。お姫様抱っこのような形になる。


 抱き上げた由香里は驚くほど軽かった。普段ちゃんと食べているのかと、問い質したくなるほどだ。


(こいつ、何でこんなにいい匂いがするんだよ……ッ)


 それに抱き上げて距離がかなり近くなったせいか、由香里からとてもいい匂いがする。きっとシャンプーの香りなんだろう。両手に服越しに伝わってくる女の子特有の柔らかな感触も相まって、とてつもなく居心地が悪い。


 さっさと部屋に運んでしまおうと、意識を極力由香里から逸らしつつリビングを出た。


 由香里が目を覚まさないよう、慎重に部屋まで移動する。両手が塞がっていたので、ドアノブは肘を使って器用に開けた。


 室内は真っ暗でほとんど何も見えなかったので、肩で照明のスイッチを押して明かりを点ける。


 室内が明かりで照らされ、由香里の部屋の全貌が露わになる。


 部屋の主の許可もなく勝手に立ち入ったのだからあまりジロジロ見るのは失礼だと分かってはいるが、ついつい視線が動いてしまう。


 由香里の部屋は一言で言い表すと殺風景だった。


 必要最低限の家具くらいしか部屋になく、物寂しさを感じさせる。もしかしたら、由香里はミニマリストなのかもしれない。


 グルリと部屋を軽く見回していた視線が、勉強机を目にして止まる。


 勉強机の上には、可愛らしいぬいぐるみが置かれていた。以前遊園地に二人で行った際、浬がプレゼントしたものだ。目につくような場所に置いてるということは、それだけぬいぐるみを気に入ってくれてるということだろう。


「……大事にしてくれてたんだな」


 以前渡した際はいらなければ捨てていいと口にしたが、こうして大事にしてくれてるところを目の当たりにすると、自然と口角が上がる。


 それから浬は、両腕で抱き上げていた由香里をゆっくりとベッドの上に寝かせる。そして布団を上からかけてあげる。


 この間も由香里に起きる兆しはなく、スヤスヤと安らかな寝息を立てている。起きる気配は一切ない。


 人の気も知らないで無防備な寝顔を晒す由香里に、ムっとなると同時にほんの僅かではあるがイタズラ心が芽生えた。


 芽生えた気持ちに従い、ちょっとしたお仕置きのつもりで由香里の髪の毛に触れる。


 触れた髪からは、サラサラと滑らかな感触がした。手入れにはかなりの手間暇をかけているんだろうことがよく分かる。


 前から由香里の髪は綺麗だと密かに思っていたが、触り心地までいいとは驚きだ。ずっと触っていたくなる。


 自分の髪を知らない内に触られてたと知ったら、彼女はどんな顔をするだろうか。言えば今後の関係に亀裂が入るだろうから、絶対に言わないが。


 由香里の髪から手を離す。名残惜しくはあるが、もう夜も遅い。そろそろ自室に戻らなければいけない。


「おやすみ。それと……今年もよろしくな、九重」


 最後にそれだけ言い残して、浬は部屋を出た。

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