婚約者と着物

 深雪が戻ってきてから数分後。部屋の扉がコンコンと控え目にノックされた。どうやら由香里と深雪を連れて部屋を出た使用人が戻ったみたいだ。


 入室の許可を出すと、扉が開かれその向こう側から由香里が入ってきた。


「…………」


 現れた由香里の着物姿に、浬は思わず目を奪われてしまった。


「うわあ……! 由香里ちゃん、着物凄く似合ってるね! 可愛いよ、もっとよく見せて!」


「み、深雪さん……?」


 深雪が何か騒いでいるが、内容は一切頭に入ってこない。今の浬の意識は、眼前の由香里に注がれている。


 そんな浬を余所に深雪は由香里の傍に移動すると、あらゆる角度から彼女を観察し始めた。


 由香里は深雪の無遠慮とも言える視線を受けて、恥ずかしげ身を少しだけよじった。


「いやあ……由香里ちゃんって元々和風美人だから着物が似合うとは思ってたけど、ここまでとは思わなかったよ。ここまで着物が似合う人も、中々いないよ。カイ君もそう思うよね? ……ちょっとカイ君、聞いてる?」


「え……あ、悪い今何て言った? 話聞いてなかった」


 突然話を振られ、ようやく浬の意識は現実に引き戻された。


「もう、ちゃんと話聞いてよ」


「……悪かったよ」


「まあいいけど……それでカイ君、由香里ちゃんはどうかな? せっかく婚約者がおめかししたんだから、何か感想言ってあげなよ」


 もちろん、言われなくともそのつもりだ。改めて由香里の姿を視界に収める。


 由香里の着物は、濃い青色に優しい色合いの花柄が散りばめられた上品さを感じられるものだ。


 艶やかな長い黒髪は簪によって上にまとめられている。普段とは違う髪型は、由香里の新たな魅力を引き出し、見る者に気品を感じさせる。


 同時に髪をまとめ上げたことで晒されたうなじと、薄っすらと施された化粧は清楚さの中に確かな色気を醸し出している。


 先程深雪が言ってたように、由香里は和風美人なので着物姿は様になっている。これまで何度か由香里の私服姿を目にする機会があったが、ここまでしっくりくるのは初めてだ。


「可愛い……んじゃないか?」


 由香里の着物姿に対してどんな称賛の言葉を送ればいいのかと悩んだ末、出てきたのは単純で面白味の欠片もないものだった。自分の貧相な語彙力が恨めしい。


「何で疑問形? しかも可愛いの一言だけって……もっと気の利いた言い回しはないの?」


「……うるさい、別にいいだろ」


 反論するものの内心深雪と同じことを思ってただけに、その語気は弱い。


「もうカイ君ってば……由香里ちゃんが可愛すぎて照れ臭いからって、そういうのは良くないよ」


 深雪は呆れ混じりの溜息を漏らした。ただ、それ以上不満を口にすることはなかった。


 ちなみに由香里は深雪の言葉に恥ずかしそうに目を伏せていた。そんな姿すら、今は息を呑むほど可愛らしい。これが着物の力ということだろうか。


「よし、それじゃあ次はカイ君の番だね」


「俺の番? 何言ってんだ、深雪?」


「何って……今からカイ君もおめかしするんだよ?」


「はあ? 何で俺までそんなことしなくちゃいけないんだよ、面倒臭い」


 女子の由香里と深雪ならともかく、男の浬は最低限身なりが整っていれば初詣に行くのに格好など気にしない。


「ダメだよ、カイ君。私たちはおめかししたのに、カイ君だけしないなんて認められないから。安心して、ちゃんとカッコ良くしてあげるからさ」


 深雪はニマニマと良からぬことを考えてることが丸分かりの、底意地の悪い笑みを浮かべるのだった。






「お待たせ、由香里ちゃん」


 別室で髪型や服装を散々イジられた浬は、深雪と一緒に部屋に戻ってきていた。ちなみに服は一人暮らしで家を出る際、屋敷に置いて行ったものから選んでいる。


 深雪は浬を伴って由香里の前まで来ると、ニっと口角を吊り上げた。


「どう、由香里ちゃん? 結構気合を入れたから、大分印象は変わったと思うけど」


「は、はい、とても素敵です……」


 黒曜石の如し瞳をぱちくりとさせ、由香里は感想を漏らした。


 今の浬は以前由香里と出かけた時と同等、いやそれ以上にカッコ良く仕上がっていた。浬自身、鏡を見た時本当にこれが自分なのかと驚いたほどだ。


「これ、本当に深雪さんがしたんですか?」


「うん、そうだよ。カッコいいでしょ?」


 意外なことだが、深雪はかなり手先が器用だ。髪型なんかは、正直浬が自分でやるよりも深雪の方が上手にセットできる。


「カイ君って素材はいいのに、昔からあんまり見た目に頓着しないよね。その気になればモテモテなのに、もったいないよ」


「俺はそういうのに興味はないから、別にいいよ」


「ほほう、つまり興味があるのは婚約者の由香里ちゃんだけってこと?」


「全然違う」


 即座に否定する。


「ははは。照れなくてもいいよ、カイ君」


「照れてない」


 などとくだらないやり取りをしてると、車の手配に向かっていた茂が戻ってきた。車の準備はできたらしい。


 五人は茂が用意した車に乗るために部屋を出た。


 この屋敷はとても大きく広い。数年間住んでいた浬でも、全貌は把握しきれないほどだ。故に外に出るだけでも、かなり歩かされる。


 深雪、明人、茂の三人から少し距離を置く形で、浬と由香里は歩いていた。特に会話はなく、二人は黙々と歩を進めている。


 ただ歩いてるだけというのも暇で、何となく視線が隣の由香里の方に移動する。


(やっぱり可愛いな……)


 胸中だからということもあって、素直な感想が漏れた。


 改めて、今の由香里は可愛いと思う。由香里に恋愛的な意味の好意を抱いてない浬でも、今の彼女の姿は見るだけで胸が高鳴るほどだ。


 仮に学校の男子たちが着物姿の由香里を目にしようものなら、まず間違いなく惚れるだろう。断言できる。


「私の顔に何か付いてますか、御手洗君?」


 気付かれないよう横目に見るようにしていたが、無駄だったみたいだ。


「いやその、今の九重は凄く可愛いと思ってな。正直その……うっかり見惚れるくらい、似合ってるぞ」


 見惚れたことを暴露しているようなものなのでかなり恥ずかしいが、他に上手く感想を伝えられる言葉が見つからなかったのだから仕方がない。


 素直な感想を告げると、由香里は足を止めた。そして頬を僅かに紅色に染めると、どこか非難するような眼差しで浬を見つめる。


 何か失言でもしてしまったのかと、身体を強張らせる。


「……そういう不意打ちはズルいです」


「あー、悪い。もしかして俺、何か余計なこと言ったか?」


「ち、違います。……今のは、そういう意味で言ったんじゃありません」


 ならばどうして、そんな非難がましい瞳で浬のことを見ているのだろうか。よく分からない。


「別に褒められるのが嫌だとか、そういうことはないんです。むしろ……」


 後半はゴニョゴニョと声量が小さいせいで、何を言ってるのか全く聞き取れない。


 気にはなったが、素直に教えてくれそうな雰囲気ではないので訊ねるのは諦めることにした。


 それに由香里も満更でもない様子だ。少なくとも、褒められたのが嫌ではなかったということは分かる。


 前方に視線を戻すと、いつの間にか深雪たちとかなり距離が開いていた。このままだと見失ってしまう。


 慌てて追おうとするが、その前に由香里がつま先立ちになり、グイっと顔を近づけてきた。


 視界の大半が、化粧でいつも以上に綺麗になった由香里の顔で占められる。


 つま先立ちになっているせいか、由香里ひ身体がプルプルと震え先程まで以上に顔を赤くしている。


「御手洗君、私言っておきたいことがあります」


「な、何だよ……」


「御手洗君も、その……とってもとっても素敵でしたよ? カッコ良くて、柄にもなくドキドキしちゃいました」


 それだけ言うと、由香里は逃げるように前を歩いている深雪たちの元へ駆けていってしまった。


「ズルいのはそっちだろ……」


 走り去る由香里の背を目で追いながら、気が付けばそんなことを言っていた。当然ながら、前を歩く由香里には届くことはない。


 あんなに清楚な見た目なのに、中身は小悪魔、いや稀代の悪女と言ってもいいかもしれない。


 世の中には、『美しい花には棘がある』なんて言葉があるが、今の由香里を評するにはこれ以上ないくらい相応しい言葉だ。


「ああ、クソ……」


 バクバクと耳朶を打つ心音がうるさい。けれどそれ以上に、顔が熱くて茹だってしまいそうだ。


 先を歩いていた深雪たちが付いてきてないことに気付くまで、浬はしばらく立ち尽くしているのだった。

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