婚約者の涙

「――御手洗君、少しだけ私の話を聞いてくれますか?」


 マグカップのコーヒーを飲み終えたところで、由香里はそう話を切り出した。


「御手洗君、私は望まれて生まれた子供じゃなかったんです」


 淡々とした声音で、由香里は残酷な言葉を口にした。彼女の表情には、喜怒哀楽のいかなる感情を見られない。


 今の由香里は、さながら言葉を吐くだけの機械のようだ。


「……私は、父が犯した一夜の過ちで生まれました」


 一夜の過ち。その意味が分からないほど、浬は子供ではない。


「もちろん、父に子供を作るつもりはありませんでした。その時父はすでに結婚していましたから。だから、たった一度の過ちで私ができるなんて、青天の霹靂だったでしょうね」


 皮肉げに口角を吊り上げる由香里。


「当然ながら、私は父ではなく母に引き取られました。まあ既婚者に手を出すようなロクでもない人でしたから、幼い頃に私を捨ててしまいましたが」


 実の母親に捨てられたというのはかなり辛い話のはずなのに、由香里に悲壮の類は感じられない。悲しみを悟られまいと取り繕ってるのではなく、本当に気にしてない様子だ。


 きっと、捨てられたことを悲しむだけの情を母親に感じられないからなんだろう。彼女の口振りから、そのことは容易に察せた。


「結局、私は父に引き取られることになりました。本来なら児童養護施設に送られるはずでしたが、その前に引き取られたのは、きっと父が体裁を気にしたからでしょうね」


 父は名のある企業の社長ですから、と由香里は付け加える。


 九重グループは名のある企業だ。企業として醜聞になるようなことは、あまり知られたくないということだろう。


「そんな経緯で私は九重の家に引き取られました。当然ですが体裁を気にして引き取られただけの私を、父はもちろん義母も愛してはくれませんでした」


 由香里が少し困ったような、それでいて諦観を帯びた笑みを浮かべる。


(ああ、そういうことか……)


 由香里は時折、自虐的な振る舞いをすることがあった。どうしてそんな振る舞いをするのか、これまでは分からなかったが今は自分の生まれに起因するものであったことを浬は理解した。


 これまで由香里は、自分の存在を祝福されたことがなかったんだろう。話を聞く限り、両親から当たり前のように与えられるはずの愛情を一度も受け取ったことがなかったはずだ。


 代わりに与えられたのは、存在否定の言葉だけ。誰一人として由香里を肯定してくれる人間がいなかったことは、今の彼女を見れば容易に想像がつく。


 だから由香里は、当たり前のように自分を卑下する。いらない、誰にも必要とされない人間だと自身を認識している。


「今にして思えば、私を婚約させたのも厄介払いのためだったんだと思います。あの家に私の居場所はありませんし、いるだけでも私は邪魔でしたから。あの人たちからすれば、私は家族ではなく他人ですから仕方のないことですが」


 自分が邪魔だという言葉を、由香里は当たり前のことのように口にしている。その事実に、胸が締め付けられた。


 今の由香里は、さながら触れれば壊れてしまう薄氷のような儚さを抱かせる。こうなるまで由香里を追い込んだであろう人間に、今までにない怒りを覚えた。


「…………ッ」


 不意に右手に鋭い痛みが走った。


 どうやら拳を強く握りすぎていたみたいだ。爪が手の平に深々と食い込み、血が出ている。


「私は生まれてきてはいけない人間だったんです。私は存在するだけで、他人に迷惑をかけてしまいます」


「……そんなことはないだろ」


 弱々しい反論を口にする。それが何の慰めにもならないと分かっていながらも、そうせずにはいられなかった。


 そもそも浬と由香里は他人でしかない。婚約関係も所詮は偽りのもの。そんな奴からどんな慰めをされたところで、彼女の嘆きを止められるわけがない。


 だというのに、由香里の表情が少しだけ柔らかいものに変わる。


「……やっぱり御手洗君は、優しい人ですね」


「婚約者を悪く言われたんだ……これぐらいは当たり前だろ」


「まだ私のことを婚約者だと思ってくれる時点で、十分優しいですよ。ですが御手洗君も、本当は嫌ですよね? 私みたいな誰にも望まれていない女が婚約者だなんて」


 そんなことはない。そう否定しようとしたが、その前に由香里が話の続きを始めた。


「もし御手洗君が望むのでしたら、婚約はこのまま破棄しても構いません。事情を話せば、父も納得してくれるはずですから」


 由香里は穏やかな声音で告げる。まるで、これがせめてもの誠意とでも言うように。


 だったら、浬の答えは決まっている。


「――ふざけるな」


 口をついて出た言葉には、発した当人である浬も驚くほどの怒気を孕んでいた。そこで彼は、自身が先程までの憐憫が吹き飛ぶほど怒っていることに気が付いた。


「俺の気持ちを勝手に決めつけるな。俺は九重との婚約が嫌だなんて、一度も口にした覚えはないぞ。第一、九重が生まれてきてはいけない人間なわけがあるか。そんなこと、俺が誰にも言わせない。もちろん九重、お前にもな」


「で、でも、私は生きてるだけで迷惑な存在なんですよ? 私がいて喜んでくれる人なんているわけが――」


「俺がいるだろ」


 由香里の言葉を遮り、きっぱりと告げる。


「少なくとも、俺は九重がいてくれて……たとえ偽りでも婚約して良かったと思ってる」


 偽りのない本音は、するりと口から零れてくれた。


「お前がこれまでどんな人生を歩んできたのか、今話を聞いただけの俺じゃ想像もつかない。だから安易に気にするななんて言えないけどさ……それでも自分をいらない人間なんて思うのだけは、やめてくれ」


 これは懇願だ。由香里のためではなく、今浬は自分のために由香里に懇願した。


「お前が自分のことをいらないなんて言うのは……俺が辛いんだ」


 どうして辛い気持ちになるのか、自分のことなのに理由は見当もつかない。


 けれど、この想いだけは伝えたかった。彼女を大事に思っている人間が少なくとも一人、目の前にいることを知ってもらいたかった。


「……おかしな人ですね、御手洗君は。私のことなのに、どうして御手洗君が辛い思いをするんですか? 意味が分かりません」


 気が付くと由香里の声が、全身が何かをこらえるように震えていた。


「本当に……意味が分かりません」


 いつの間にか、由香里のつぶらな瞳からポロポロと涙が溢れてきた。「あ、あれ……?」と戸惑いながら由香里は涙を拭おうとするが、拭っても拭っても涙は止まることなく溢れてくる。


 それどころか零れる涙はどんどん勢いを増し、由香里は嗚咽交じりに泣き始めてしまった。


 他人の泣き顔なんて好き好んでみるものではないが、それでも泣いてる由香里の姿は見ていて安堵できるものだった。


 だって、あの涙は彼女がこれまで溜め込んでいたであろう悲しみだったから。それが泣くことで少しでも晴れてくれるのなら、今は好きにさせてあげたい。


 とはいえ、女の子の泣き顔をジっと眺めるのは決まりが悪い。なので視界に入らないよう、由香里に背を向けて泣き止むのを待つことにした。


 由香里の涙は、そう長くは続かなかった。十分もすると涙は止まり、何事もなかったかのように見慣れた冷静な表情に戻った。


 先程まで泣いていたのは夢か幻だったんじゃないかと思いたくなるが、赤く腫れた目元が由香里の涙が現実のものであったことを教えてくれる。


 由香里は涙の名残がある腫らした瞳の上目遣いで、恐る恐るといった感じで形のいい唇を開いた。


「……御手洗君、私なんかと婚約を結んだままで本当にいいんですか?」


「いいに決まってるだろ。もちろん、九重が嫌だって言うのなら話は別だけどな」


「い、嫌じゃありません! ただ御手洗君は本当に私なんかでいいのか、不安なんです。……私は可愛げもないし、面倒な性格をしてますから」


「まあ、面倒な性格って部分はさっき嫌というほど思い知らされたよ。けど、そういう部分も全部含めて九重だろ? 俺はそういうのも込みで、九重と婚約して良かったと思ってるんだよ」


 大体、面倒云々の話になると浬の方が余程手間がかかる。むしろ自分なんかでいいのかと、浬の方が訊ねたいくらいだ。


「だから九重、不安になんてならなくていい。お前が愛想でも尽かさない限り、俺はお前の婚約者であり続けるよ」


 黒曜石の如し瞳を見つめながら本心を告げると、由香里はプイっと逃げるように視線を逸らしてしまった。


 流石に今の発言は臭かったかと危惧したが、次の瞬間にはギョっとすることになった。


 なぜなら、由香里の微かに赤みの差した頬に一筋の涙が流れていたからだ。ただ先程と比べると流れる涙はごく少量で、静かなものだ。


「わ、悪い九重、俺今何か余計なこと言ったか?」


「い、いえ、違います。これはその、悲しいから出た涙じゃないんです。御手洗君の言葉が嬉しくて、つい……」


 浬が慌てれば、由香里もまた慌てた様子で返答してきた。


「本当に御手洗君のせいじゃないんです。ただ嬉しくて、気付いたら……涙って、悲しい時以外でも出るものだったんですね。初めて知りました」


 涙を拭った由香里の顔に、不器用な笑みが浮かぶ。


 由香里の顔は涙でグシャグシャだったけれど、それでもこれまで見た何よりも綺麗だと感じた。




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