第27節 -災厄の形-
玲那斗は目の前に広がる海洋に向けてヘルメスをかざす。するとヘルメスは即座に現在の海洋の汚染状況分析結果をホログラムモニターへと表示した。
数日前、イベリスと共にこの地を訪れたときにしたことと同様のことをしているにも関わらず、今目の前で表示された結果には驚愕する他ない。
雲に覆われた空の明るさが徐々に弱まっていっている。きっと今頃太陽は南の空を通過し、西へ傾いて落ちていく最中だ。
玲那斗とイベリス、そしてアルビジアの3人はリド=オン=シーの海岸へと訪れていた。
アルビジアがマークתの宿泊するペンションを朝訪れ、話し合いをした後に一度ダンジネス国立自然保護区で全員がデータ採集調査を行ったが、今はジョシュアとルーカスだけを保護区へ残して別行動となっている。
ジョシュアとルーカスの2人はグリーンゴッドの効能に対する疑義照会に必要なデータ採集が完了したことで公式資料作成に取り掛かっている頃合いだろう。
今日の夜までにCGP637-GGの効能について疑わしい点があることを大西洋方面司令へと伝達し、司令部から英国政府に対し正式調査許可の取り付けを行う手筈だ。
政府と機構が結んでいる協定に基づき、早ければ今夜の内に正式にセルフェイス財団が所有する薬品調査の許諾が取れる見込みである。
そうすれば彼ら財団の目をアルビジアとジェイソンの問題から自分達の問題へと向けさせることが出来る。
自然異常再生の原因調査を行う中で浮上した今回のダストデビル事件に絡み、アルビジアが問題を起こした動機の発端となっている疑義の解消は機構としても取り組むべき問題である。
彼女の言う通り、薬品が自然環境に最悪の結果をもたらすものであると認められれば、全世界での試験運用を即時停止する必要もある。又は副作用の研究データが揃うまで計画凍結をする必要も出てくるかもしれない。
疑義内容が事実であり、科学的に薬品の異常が証明、検知されれば国際的な大問題へと発展するだろうが、環境に与える影響として危惧すべき重大な懸念があると分かっている薬品が世界中でばら撒かれるのを見過ごすわけにはいかない。
ジョシュアとルーカスがセントラルへ採集したデータの提示と疑義の意見申告を行っている間、アルビジアと同郷である玲那斗とイベリスは彼女の警護及び監視的な役割を担うことになる。
ジェイソンが財団へと連れていかれた今、彼女を1人きりの状態にするのも問題だ。ダストデビルを意図的に引き起こしていた犯人が彼女であると分かった以上、マークתとしては彼女が財団に対してこれ以上の物理的な攻撃を加えるのは阻止したい。
玲那斗とイベリスが傍にいれば彼女が突飛な行動に出る可能性に対する抑止力となるだろうというのがジョシュアの考えであり、その考えに同意した上で2人はこの任務にあたっている。
また、アルビジア本人から聞きたい話もまだまだ山のようにあるというのも理由のひとつであった。
手元のヘルメスが表示したデータを眺めながら玲那斗が言う。
「凄いな。たった数日前に見た時とは比べ物にならないくらい綺麗な海になっている。海洋ゴミやマイクロプラスチックの残存率はほぼゼロに近い。」
結果を眺めながらイベリスが言う。「これも貴女が?」
その問いにアルビジアは静かに頷いた。
プロモシオン・デル・クレシミエント《成長促進》
彼女は自らの異能を指してそう言った。万物が時間経過によって未来に辿る結果を瞬間的に達成する力。言葉のニュアンスとしては進行形の時間操作、『時間の早送り』と言う方がより近い。
青い果実を一瞬で熟した実に変えられるし、花もつぼみから開花までをすぐに実現させられる。
切り傷や骨折などの怪我を負った人がいたとすれば、その人のもつ再生力によって得られる『回復した』という未来を瞬間的に固定することも出来る力だ。
国立自然保護区の自然が数百年をかけて辿る未来を実現させた他、海洋のマイクロプラスチックが数十年をかけて浄化される過程を一瞬で完了させたりも出来ることをたった今証明した。
悪い意味での使われ方としては咲いている花を瞬時に枯らしたり、人間などを対象として “寿命を瞬時に終わらせる” ことだって出来てしまうという。
ただし、時間経過によって得られる結果を引き出すことしか出来ない為、例えば風邪に罹患した人を完治させることは容易だが、対象となる人が自力で回復することが不可能な病気や怪我であった場合は完治させることが出来ないなどの弱点もある。当然、切断されてしまった腕などを復元することは不可能である。
「なるほど驚異的だな。ただ、海洋を汚染する根源を絶ったわけではない以上、再汚染は防ぐことが出来ない。そうだね?」玲那斗が言う。
その質問にアルビジアは再度首を縦に振った。
いたちごっことでも言うのだろうか。人が長い歴史の中で何度も同じ過ちを繰り返してきたのと同じように、何度浄化してもそう遠くない内にすぐに浄化前の元の状態に戻ってしまう。
結局のところ変わるべきものは人の意思、人の行動そのものなのだ。
「変革が必要なのは人の考え方ということね。」イベリスは言った。この時彼女は財団でラーニーに言われたことを思い出した。
【大衆とは常に先導者を求める。人の先陣に立ち道標として立つ人の存在が人の意識を変え、それが結果として自然環境の再生に繋がるのだ】と確か彼は言っていた。
「考えさせられるな、色々と。」玲那斗がぼやいた。
変わらない人の可能性に賭けるより、すぐに環境を劇的に良いものへ-見かけ上ではあるが-変えてしまうグリーンゴッドという薬品に頼りたいという考えもあながち間違いではないのかもしれない。
何十年かけても環境問題が結局完全なる解決に辿り着けないのは、人という存在が意識を変えようとしないからなのだろう。一度手に入れた豊かさを手放すことは容易ではない。
また、こういった大きな問題に対しては〈自分が何もしなくても、そのうち誰かが何とかしてくれる〉などという意識を持ちがちである。
他にも先進国の豊かさを我が国もとばかりに途上国の開発は続く。過去の教訓を活かした設備が最初から整えられた上で発展するならば良い。だが、設備が整っていない施設から排気や排水が行われれば、それが環境の汚染に直結する。これらを止める術などない。
もし、自然環境を完璧に保護する為の画期的な方法があるとすれば答えはただひとつ。人類の絶滅。
例えばプロヴィデンスのようなAIに『自然環境を劇的に改善する為に必要なこと』と質問すれば高確率で『人間の絶滅』を答えとして返してくるはずだ。人が居なくなれば環境を汚染するものが消えるのは自明の理。
本来自然にあり得ない “不自然” を生み出す元が存在し無くなれば、環境が壊されることはない。或いは行きつくところまで行けばこれが究極の正しさであったと誰もが理解できる答えだ。
しかし、今を生きる人間にとってこの答えは到底受け入れてはならないものである。人が存在する中でどうやって自然を取り戻すのかということが重要だ。
ここに重大な矛盾が生じている。つまり自分達人間が存在する限り環境汚染を “遅らせる” ことは出来てもそのものを根絶することは出来ない。
声高に “自然を守らなければならない” と叫ぶことなら誰だって出来る。その言葉を盾に他者を糾弾することだって容易だ。
ただ、 “自然をどうやって守るのか、どうやって再生するのか” について言及する者は少ない。それを言うことは自身の豊かな生活を手放し原始的生活へと回帰することと同義なのだから。
人類すべてがアルビジアのような力を持っているのであれば環境再生も用意だろうが、そんなことがあり得るわけがない。
そもそも彼女の存在や異能自体が “本来あり得ない” ことなのだ。
問題に直面して改めて自然保護問題の大きさと難しさを理解した玲那斗とイベリスはやり切れないという表情でただ遠くの海洋を見つめた。
* * *
代表執務室の椅子に浅く腰掛け天井を眺めながらラーニーは今日のジェイソンとの会話を思い返していた。
アルビジア。彼女がどこの誰なのかについて質問した時、彼は言った。
『彼女は遠い親戚の孫娘です。事情があって10年ほど前に私が引き取ることにしました。』
財団側は事前にそれが嘘だと調べており、その場で事実を問いただすことも出来たがそうはしなかった。
彼女が正規の手順で英国に入国してきた者でないことは明白だ。今の今まで内務省入国管理局等の追及を受けなかったのが不思議なくらいである。
自分がのらりくらりと彼女のことについての質問を進めていく中で、意図が掴めないといった様子でついにジェイソンは言った。
『セルフェイスさん、貴方は何をおっしゃりたいのでしょう?話の先がよく見えません。」
待っていた言葉にこう伝える。
『何、簡単なことです。我々は正直に申し上げると、彼女がダストデビルの件に深く関わりをもっているのではないかと思っています。しかし、残念ながらそれを証明するには至りませんでした。そうした中で彼女のことが気になって調べていくうちに先程お伝えした “事実” が判明したのです。もちろん、調べて判明したことについてはまだどこにも報告はしていません。我々だけが知ることです。』
その後、自分は条件取引を持ち掛けるように彼にこう囁いたのだ。
『大きな声では言えませんが、我々は彼女にはもしかすると人智を超える何かが備わっているのかもしれないと考えています。自然環境保護に有用な大きな何かを。我々とすればそれが何なのかを見極めたい。これは僕からの提案ですが、彼女を我々セルフェイス財団へ引き渡して頂けませんか?』
提案に対しジェイソンは警戒と不安を滲ませた様子で答えた。
『断ると言ったら?』
『彼女の国籍、戸籍、入国の件について “まだ” どこにも報告はしていない。先の言葉が示す結末は十分にご理解頂いていると思いますが?』
自分の言葉にジェイソンは黙り込んだが、最後まで決して首を縦に振ることは無かった。それはそうだろう。こんな言葉のやりとりだけで結論が簡単に決まるのなら、彼はこれほどまでに長い間に渡って彼女と生活を共にしなかったはずだ。
自分に不法滞在の罰則が及ぶことを分かった上で彼女と生活することを選んだ。そこにはどんな理由があってどんな意味があったのか。
そして、あのアルビジアという少女に “隠された何か” があるとして、それは一体何なのか。
これらを頭の中で考えながら、『脅しか?』と言うジェイソンにこう返事をしたのだ。
『まさか。提案と申し上げたはずです。呑んで頂けるのであれば我々が調べた事実について “変わったところは何もなかった” ということにさせて頂きます。一晩ゆっくり考えてみられてはいかがでしょう。ただし、今日は当支部に宿泊して頂きます。明日答えをお聞かせ願いたい。何も迷われる必要はありません。簡単なことですよ。』
必要なのは時間だ。彼だけではない。機構の少女もまた然り。
どういう絡繰りによるものかはさておき、管理区域が潰されてしまったのは大きな損失ではあったが、今目の前に訪れている状況は財団の未来にとって分岐点とも言うべき大きなターニングポイントになる可能性を秘めている。
イベリス、そしてアルビジア。
ラーニーは得体の知れない無限の可能性と謎を感じさせる2人の女性のことを考えながら、机へと目を落とし静かに笑った。
っと、次の瞬間だった。すぐ傍からこれはまた得体の知れない甘い香りが漂ってくる。
花。おそらくそのような類の香り。ずっと嗅いでいると思考を奪われそうになるほどに濃密で甘ったるい香りだ。
自分は知っている。この香りの正体を。人の心の安らぎを抉るようにどこからともなく現れる存在のことを。
そう思った途端、想像通りの声の主がすぐ横から声を掛けてきた。
「はぁい☆ぐっどいぶにんーぐ、ラーニー?」
「何の用だ、アンジェリカ。」
ラーニーはすぐ傍らに立つ紫色の瞳の少女を横目にぶっきらぼうに言った。
「お約束ぅ!貴方の第一声はもうそれで決まりなのね☆用事っていう用事はないんだけど、何だか楽しそうなことになりそうだなって思って。冷・や・か・し?」
「だったらさっさと帰れ。僕も暇ではない。」
「えー、ついさっきまで凄く暇そうに天井を眺めていたのに~?」
どこから見ているのか。どこから見ていたのか。唐突に現れては唐突に消えるこの女の存在は頭痛の種となり果てている。
あからさまな大溜め息をつくラーニーを見たアンジェリカは満面の笑みを浮かべて言った。
「それにしても随分と横暴なやり方をするのね?強硬な手段と言ったらいいのかしらー?お爺ちゃんは最終的に絶対に絶対にぜぇったいに断ることが出来ない条件、出しちゃったもんね。」
「提案だと言った。受け入れるかどうかは彼が決めることだ。」
「またまたー。結論分かってる癖に☆い・け・な・い・ひ・と♡」
そう言うアンジェリカは両手を広げてくるくると回りながら部屋の中央へと移動する。
「イベリスだけでは飽き足らず、アルビジアにまで手を出そうだなんて。ロティー泣いちゃうよ?あー、もう泣いてるかー。そっかー。」
ラーニーは唇を噛みながら言おうとした言葉を呑み込む。天使のような名前を持つ悪魔のような女。
思い起こせば1年半近く前からこの悪夢は始まっていたのだ。
彼女が財団に持ち込んだグリーンゴッドと呼ばれる薬品は魅力的なものであった。
使えば無条件で自然環境の再生が出来るという夢の薬品。荒れた大地に美しい花を咲かせ、石や岩で囲まれただけの荒野が豊かな緑に埋め尽くされる。そういう話であったし事実でもあった。
財団は世界中で自然復興に尽力する為に薬品を使用することを約束し、グリーンゴッドを彼女から大量に譲り受けた。そして砂漠化した土地や荒野など世界各地の深刻な環境破壊が行われた地域へ使用することを画策したのだ。
手始めとしてこの地、英国のダンジネス国立自然保護区の一区域を政府承認を経た上で管理区域として運用。現在は世界各地の荒野で本格的な運用準備が行われている途中である。
実際に運用してその効果を人々が目の当たりにすれば、財団の名声や天にまで届くかというほどに高まることだろう。
不可能だと思われていた自然再生が科学の叡智によってもたらされる。人間が自然を破壊したことに対する償いとして “あるべき姿” へようやく戻すことが出来ると世界中の人々が期待に胸を膨らませることに繋がるはずだ。
しかし、この女は嘘を吐かなかった代わりに重要なことも言わなかった。
そもそも、グリーンゴッドは表面的に豊かな自然が再生したかのように見せかける物理的なテクスチャだ。自然的な土地をコンクリートで埋め立て、その上に見事な花壇を据えているようなものに過ぎない。
そして何よりの問題となるのが、薬品の持つ副作用というものについてだ。端的に言うと薬品が撒かれた大地は自然的な植物が生育する為の土壌としての能力を失い、2度と復活することはない。この薬品によってもたらされた豊かな上辺の自然は、生態系の破壊を引き起こす【毒】を持っているのだ。
薬品によって実った果実を口にした野生動物、特に野鳥への影響は深刻である。動物たちが本来持つ身体的な機能が麻痺したり、繁殖機能を奪われたりすることが現在までに判明している事実だ。
仮に動物が繁殖に成功したとしてもウィルスベクター-遺伝物質を細胞に送り込む為の機能-によってやはり身体的な機能障害というダメージを細胞レベルで与えられる。
万が一、その影響が人間にまで及んだ場合というのが想定される中でも最悪のシナリオだ。このウィルスベクターは一世代で影響が途絶えるものではなくさらに生物の種類というものに囚われずに効力を発揮する。
長い長い年月をかけ、対象となるものが全滅するまで影響を与え続ける。
もし仮に、使用した大地の土壌を通じて海洋に薬品の影響が及べば、そこからさらに魚介類を通じてたちまち人間にまで影響が及ぶことは目に見えている。
土壌そのもの、野生動物など生態系そのものに対する深刻な悪影響。周囲を殺し尽くすことによって得られる静寂なる永遠と全てを滅ぼすことで得られる永劫の豊穣。
何も無い、何も生まれない更地を作った上で見せかけの繁栄を飾る為の薬品。
見せかけの繁栄の下で毒をばら撒く悪魔。それがグリーンゴッドの正体であった。
財団はこの夢のような効果を持つと期待されていた薬品にあろうことか自らの “名前” を含めて命名してしまったという経緯も致命的だ。
アンジェリカに、まだ決まっていなかった薬品名の名付けを促されたのは罠であった。元々譲渡されたものであるが、薬品名に〈セルフェイス〉という名を付けてしまった以上はその責任を負う義務も必然的に財団が担うということに繋がる。
薬品が持つこうした事実が明るみに出れば財団の名誉はたちどころに地に落ちるだろう。当然、これまでの歴史で築いてきた信用も一瞬にして崩れ去る。
今、自分の目の前に立って嬉しそうに笑う女はその瞬間を見届けることが楽しみで仕方ないのだ。
薬品の運用開始準備は世界中で進んでいる。管理区域での良好であった試験結果を政府へ提出し、世界各地で運用開始に向けた準備が進む最中-しかも間もなく運用開始というところまで漕ぎつけている-で財団からこれを停止させることは容易ではない。
それまでに要した莫大な費用の請求や説明責任の追及も当然行われるだろう。危険な薬品の使用を財団側が責任を多く負わない形で中止に追い込む為には何かきっかけが必要だ。
最終的に事実を明るみにさせるにも手順というものが必要なのだ。今となってはそのことに頭を悩ませる日々が続いている。
ラーニーはアンジェリカから視線を外し、机の上に置いた書類の束を見つめた。
一方この時、アンジェリカはじっとラーニーを笑顔で見据えながら彼が頭の中でどんなことを考えているのかを理解していた。
彼はグリーンゴッドによってもたらされる財団の崩壊を恐れ、それを覆すための手段としてイベリスとアルビジアを欲している。いわば運命を覆すカードとして望んでいる。
しかしそれは愚かな手だ。イベリスは女帝であり、アルビジアは死神であり、今ここに立つ自分は悪魔であり、ラーニー自身は吊るされた男だ。
明日になれば彼は文字通り愚者へと変わる。機構のもたらす審判によって運命の輪が回る。常に傍で自分のことを想ってくれている人の気持ちに応えることもなく、彼は全てを失う。
長い準備と努力には相応の報酬が必要だ。明日はいよいよその瞬間を見ることが出来る。
考えるだけで笑みがこぼれ落ちる。心の内から湧き上がる衝動が抑えきれなくなってくる。
深淵の底に繋がるような瞳で彼を見据えながらアンジェリカは言った。
「貴方が落ちていく様を見るのがとても楽しみぃ☆もうすぐ、もうすぐ。明日にはきっと、貴方は自らの罪に苦悶を浮かべながらその痛みの中に溺れていく。私はその様子をみることと、貴方のしたことで世界が混乱する様子を眺めるのが楽しいだけ、なんだなー☆」
きっと狂気と呼ぶにふさわしい表情を彼に向けていたことだろう。それは彼が苛立ちの中に見せた恐怖に引きつる表情から読み取ることが出来た。
声にならないようなアンジェリカの笑い声が室内を満たす。
薬だと信じて毒を飲み込んだ者は彼女の姿を睨みつける。
まるで時間の流れが止まったかのような非現実的な空間。両者の視線のぶつかり合いによる緊張が頂点に達しようとしたその時、部屋の扉を強くノックする音が響き渡った。
部屋の主の返事を聞くまでもなく扉が開くとシャーロットが部屋へと立ち入った。
「失礼します。何度かお呼びしたのですが返答がなかったものですから。」
言葉を向けた相手とは対照的にシャーロットの冷たい視線はアンジェリカの後ろ姿へと注がれる。
彼女の視線を察したのかアンジェリカはゆっくり、ゆっくりと振り返る。この世のものとは思えないほど歪な狂気を宿した瞳による視線が今度はシャーロットへと向けられた。
それが “出て行け” というシャーロットからのメッセージであることを汲んだアンジェリカは今の状況を楽しむように後ろで手を組み、わざと体勢を前のめりにして彼女を見据えた。短いスカートの内側が後ろにいるラーニーの視界に入るようにわざとだ。
挑発を察したシャーロットは表情を変えることなくじっとアンジェリカへ射貫くような視線を送った。
それから数秒の間、2人は睨み合うがアンジェリカから先に口を開く。
「うふふふふ、お邪魔だったかしらぁ?そーりぃ、ぷりーず ふぉーぎぶ みぃ☆」
ねっとりした口調でそう言い可愛らしい笑みを浮かべると自ら扉へと向かって歩いていく。そして部屋を退室する間際、シャーロットとすれ違いざまに一瞬だけ立ち止まって言った。
「明日が楽しみね?」
その後、アンジェリカは無邪気にスキップをしながら廊下の向こう側へと去って行ったのだった。
悪魔が去ってすぐ、シャーロットは扉を閉めて言う。
「ラーニー、機構がグリーンゴッドの件を調べたみたいよ。疑義照会を送ってきたわ。」
一時的に立場を放棄したその口調からは焦りと不安が垣間見える。
「落ち着いて、ロティー。それならこちらにとってもある意味好都合だ。機構が自分達の手でグリーンゴッドの副作用について調べ上げてくれるなら僕達も世界中で行われようとしている実験を即時中止する言い訳になる。」
「でも…」
ラーニーは椅子から立ち上がると、不安そうな表情を滲ませるシャーロットの元へ歩み寄って言った。
「分かっているさ。僕達が今の段階で副作用のことについて十分な知見があったと悟られないようにすることが肝心だ。僕達が “知っていて使おうとした” という事実をうまくごまかすことが、ね。惜しまれながらも実験は中止。それが理想の筋書きなんだ。」
そして彼女の肩へ手を置き、心配はいらないと念を押す。
「ロティーは何も心配すること無い。僕に任せて。この家は、財団の未来は僕が守るから。」
ラーニーはすぐにサミュエルに連絡を取り、機構からの疑義照会に対しての返答の仕方を指示すると同時に、明確な説明を直接する為に再度イベリスを支部へ招くよう手配することを命じた。
シャーロットは優しく微笑みかけてくれた彼に安心感を抱きつつも、今から訪れるであろう事態の危うさに消えない不安を抱く。
今しがた視線を交わした女が持ち込んだ災厄がついに明確な形となって自分達に牙を剥こうとしているのを実感した。
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