第23節 -孤独を捨てた日-
午後7時半過ぎ。シャーロットはいつものようにラーニーの食事の給仕をする。
彼の隣に立ち、彼の傍でずっと彼の為に身の回りの世話をする。本来セルフェイス家の養子となった自分は別の誰かに同じように給仕される側の立場なのかもしれないが、個人的にはそれよりも今のようにしている方が落ち着く。
サミュエルは別の用件があるということで今日の食事の給仕へは同席していない。ラーニーと自分の2人だけの空間だ。
シャーロットはその青く透き通った瞳ですぐ傍の彼を見据える。
まだ自分が幼かった頃、人間不信に陥りかけていた自分に何度も何度も手を差し出してくれた人物。それが彼だった。
母親が家を出て行き、父親の育児放棄によって児童養護施設へと預けられた自分はその場の誰にも心を開くことはなかった。必要を感じなかったからだ。
どんなに満ち足りた幸福も、どんなに永遠に感じられる時間も、些細なきっかけがあれば簡単に壊れてしまう。
友情だろうと家族の絆だろうとそれは変わらない。そう思っていた。だから、そんな不安定で不確定なものに自分の心の拠り所を求めようとは思わなくなっていた。
必要最低限の社会の繋がりさえ保てればそれで良い。当たり障りなく接して生きていければそれで十分だ。
家族が壊れてしまったあの日から、自分の心もどこか壊れてしまっていたに違いない。
自分が一体何をしたというのか。
何を嘆けば良い?何を恨めば良い?何を呪えばこの気持ちは晴れる?
毎日気が付けばそんなことばかり考える。それでいて何を目にしても心が揺り動かされることもなくなった。負の感情に支配された心は感動というものを失っていたのだ。あの頃に自分には世界の全てが灰色に見えていたに違いない。
この人が手を差し出してくれるまでは。
遠い遠い昔の話だ。あれは一家離散の憂き目に遭い、児童養護施設で暮らすようになってからしばらく経った頃。
自分が7歳になってそう月日も経たない頃の話だ。身なりをしっかりと整えた男性と少年が養護施設へとやってきた。
名をセルフェイスというらしい。しかし、そんなものは子供でも知っていた。
ことあるごとにメディアで取り上げられていた巨大な財団の名前だ。
世界を再び豊かな自然で満たすなどという絵空事を公言してはばからない偽善者たち。幼いながらにそう思っていた。
この世がどんなに貧しく苦しくなろうとも、富める彼らにはそんなことは微塵も関係ないに違いない。豊かな暮らしの頂点で生を謳歌する彼らは自分とは違う部類の人間達だ。故に、今ここで社会に対する失望を隠そうともしていない自分のことなどどうでも良いと思っているはずなのだ。
きっとこの場に訪れたのは憐みの為。可愛そうな子供達を視察して、当たり障りも “意味も” ない励ましの言葉をかけて、それをメディアで発信することで世間から良い人だと思われる為のアピールにきただけに過ぎないのだろう。そう思っていた。
今思い起こして考えれば、当時の自分の考えはどれだけひねくれていたのだろうと両手で顔を覆って暴れたくなるような衝動に駆られるほどに恥ずかしい。
かつての自分の考えでは、彼らは憐みの為にあの地を訪問したのだと思っていたが、真実は違っていたのだ。
エドワード・セルフェイス、つまりラーニーの父親である当時の財団当主が養護施設の職員と話をしている最中、一緒に連れて来られていたラーニーは部屋の片隅に隠れるようにして佇んでいた自分を見つけ、声を掛けてきた。
『君はどうして1人でいるんだい?』
初めは無視していたが、あまりに熱心に尋ねてくるので鬱陶しくなってこう返事をしたと記憶している。
『1人が好きだからよ。誰かと一緒にいることに意味なんて無いわ。』
すると彼はこう言った。
『そうか、奇遇だね。僕も1人なんだ。』
“何を言っているんだ?” と訝しんだ眼を向けたと思う。とても年頃の女の子が見せるような目つきをしていなかっただろうことは容易に想像がつく。
そしてこう思った。
〈今その場に限っては確かにそうだろうとも〉
だが、温かな家族を持つ身である彼が言う言葉ではない。
彼は自分の視線を意に介することなく続けて言った。『話し相手がいなくてね。君、良かったら僕の話を聞いてくれるかい?』
話し相手がいない?そうか、どうやら彼は本当に日常を1人で過ごしているらしい。しかし、だからといって出会ったばかりの人物に自分の話を聞けとは、なんて図々しいのだろう。
その時に彼が話した内容は何の変哲もない日常の話だ。朝起きて目にしたもの。庭に咲いていた花がどうだったとか、食卓に苦手な食べ物が並んだとかそんな話だ。
それからだ。その日以来、定期的に彼は父親と施設を訪れては自分を見つけて一方的に話をして帰ることを繰り返した。
他にも子供たちはいたというのに、歩み寄ってくるのは決まって自分の所だった。
話す内容は大抵似たようなもの。違ったのは食卓に並んだメニューであったり、咲いていた花の種類だったりである。
彼が父親と母親に囲まれた温かな家庭にいることは間違いない。故に、彼がどれほど熱心に自分に語り掛けても何一つ心に響く者はなかった。
温かな家庭があるなら、それで良いではないかと内心で思っていたのだ。
ところが、いつしか私は気付いてしまった。
“彼の話には、基本的に彼以外の登場人物が誰もいない” ということに。時折両親や財団の使用人が登場するが、それも必要最低限。彼の日常の中に家族以外のいわゆる〈友人〉というものはただの一度も登場しなかった。
その時に彼が初めて自分に言った言葉を思い浮かべた。
『僕も1人なんだ。』
今までは適当に返事をしながら無視していたが、そのことに気付いてからというもの、妙に気になってしまいついに彼に尋ねてしまった。
『貴方、どうして私に話し掛けるの?他に友達は?』
すると自分がいつもと違う反応を見せたことが嬉しかったのだろうか。彼は満面の笑みを浮かべて言った。
『ラーニー。僕はラーニー・セルフェイスだ。』
質問の答えにはまるでなっていないが、そういえばここに至っても自己紹介すらしていなかった。彼は私に名前を覚えて呼んでもらいたかったらしい。その意思を汲み取って私は言った。
『オーケー、ラーニー。私はシャーロット。シャーロット・キャンベルよ。』
これが初めて彼の目を見て言葉を交わしたときの記憶だ。
それからというもの、私は彼とよく話をした。養護施設の外に咲いた花を眺め、空を眺め、一緒に走って遊んでいた。
自分以外の他人なんて必要ないと思っていたはずの心の内で何かが変わっていったような気がした。
彼のことを、少し前までは鬱陶しいとしか思っていなかったが、いつしか次はいつ来てくれるのかと待ち侘びるほどになっていたのだ。
そんな日常が続いたある日、私は彼の父エドワードに養子の話を持ち掛けられた。セルフェイス財団に養子として迎え入れたいと。
正直戸惑った。身分というものが違いすぎる。
熱心に話してくれる父エドワードを前にしながら、内心断ろうかとも思ったが、ここで断ってしまえばラーニーと会う機会が永遠に失われる気がした。
そして、自身の心の中で幾度かの葛藤をした上で、最終的には彼らの提案を受け入れることにした。
そう。自分が財団の養子となることに頷いたのはただ “彼の近くに居たかったから” である。
財団に迎え入れられてからの生活は本当に楽しいものだった。ラーニーと一緒に暮らす生活はまるで実の兄弟と過ごすかのような時間であった。
中でも思い出深いのは髪に結ぶ青色リボンのことだ。今でも一つに束ねた髪を青いリボンでツインテールに分ける髪型をいつもするのは、まだ自身が幼い頃にラーニーが髪を結ってくれたことが始まりである。
ある日、彼が唐突に自分を呼び止めて後ろを向いて目を閉じてくれと言われたことがある。
何をするのかと思って言われた通りにし、少しの後に彼は目を開けてと言った。彼は鏡を見せてくれながら髪に結んだリボンを見せてくれた。
『思った通り、やっぱりとても似合う!凄く綺麗だ。』彼は弾けるような笑顔で言ったのだ。
元々器用な手先を持つ彼がその際に結ってくれた髪型が今の髪型でもある。その時以来、見よう見まねで同じ髪型をした時は彼は笑顔で喜んでくれたのだった。
自分が使用人として働くと決めて以後、業務に従事するときは常に青いリボンで同じ髪型をするようにしているのは、彼との大切な思い出が詰まったお守りのようなものだからである。
財団に引き取られて以後に毎日ラーニーと共に過ごす日々はもちろん、実の父のように接してくれるエドワードや愛情をたっぷりと注いでくれた義母様…
幼い頃に未来永劫必要ないと思っていたものが、これほどまでに愛おしいものだったと気付かせてくれたのはこの家だった。
養子に引き取られてしばらくの後、実父が自分に会いに財団を訪れたことがあったそうだが、その時は義父となったエドワードが丁重に面会を断り追い返したらしい。
そのことも後から聞いた話でしかないが、以後実父が財団を尋ねてきたことはない。今となってはその後の彼がどうしているのかなどに興味もない。
この家庭で実に有意義で楽しい時間を過ごしてきたが、一つ心残りがあるとすればそう。義母様と長く一緒に過ごせなかった事だろう。
2020年初頭から世界中で猛威を振るった新型コロナウィルスの後遺症である呼吸器障害により、私が財団に引き取られて数年後に彼女は他界した。ほんの僅かな間しか一緒に過ごせなかったことは今でも寂しいと思っている。
そうして成長した自分は大学へ進学することはせず、16歳になったときにセルフェイス家の使用人として働きたいとエドワードに申し出て今に至っている。
理由はただ一つ。ラーニーの傍にいたいと願ったからという、それだけのことだ。
正直に言えば彼を愛しているのだ。義妹としてではない。家族愛というものではない。遠い昔に群れからはぐれた狼のようであった自分に、無視されようとも噛みつかれようともずっと手を差し出してくれた彼に純粋に恋をしていたのだ。
元々自分はセルフェイス家の人間ではない。かといって今は違う家系の人間というわけでもない。この立場というものが自身の感情を複雑なものにした。
本音を言えば、義妹としてではなく1人の女性として彼に自分を見て欲しかった。
彼の傍へ添い続けるにはどうすればいい?何をすればいい?
色々と考えて悩んだ結果がこれだ。私は使用人として仕えることで常に彼の傍に添い、遠い昔に自分の心を救ってくれたことへの恩返しをしようと思った。
きっと誰に理解されることでもないだろう。多くの人に理解し難いと言われることだろう。
もし、そうだとしてもこの道を選んでいることに後悔などない。とても充実した毎日だと思う。
ただ…目下のところ気になることが一つ。
イベリス。彼女の存在が彼の心を悪い方向に揺さぶっている。
彼女が原因というよりも、ラーニーが原因である以上は自分がとやかく言えるものではないし、ただの嫉妬の類であることも理解しているつもりだ。
自分が彼の妻という立場になれない以上、彼が別の女性に対していつかそうしたアプローチをする未来が訪れると思わないこともなかったが、よりにもよってこんな形でその日がくるとは思わなかった。
今日の会合の時、彼女と同じように “聞かなかったこと” にしたが、実の所は聞いてしまった。
ラーニーがイベリスを機構から引き抜きにかかったという事実を。
相手は世界に名だたる機構の一調査チームに配属されている人物だ。
どこか自分達の母親の精神的な面影を感じさせるような不思議な魅力を持つ女性。彼の言う通り、恐らく彼女のような存在が財団に加われば大衆政治的な側面では有利に動けるようになるのかもしれない。
しかしながら、なぜかこれが我慢ならない。
繰り返すがイベリスという少女に落ち度は微塵もない。今日の会話も自分の一方的な八つ当たりに等しかった。最低である。
ただ、分かっていても受け入れ難いことは確実に存在するのだ。
これは決して受け入れてはならない。私の心は、そう考えている。
シャーロットが遠い昔の記憶と現状に思いを馳せてぼうっとしている最中、ラーニーは何度も彼女の名を呼んでいた。
「ロティー、ロティー?聞いているかい?ロティー?」
その声にようやく現実に引き戻されたシャーロットは慌てて返事をした。
「え?はい、申し訳ありません。何でしょう?」
「水をもらえるかな?」ラーニーは微笑みながら言う。
「かしこまりました。」
シャーロットはそう言って水差しから彼が気に入っているミネラルウォーターをグラスへと注いだ。
「考えごとかい?幸いなるかな、今は僕と君の2人きりだ。ロティーの考えていることを話してくれると嬉しいんだが。」
「遠い昔のことを。いえ、お話するほどのことではありません。」
「そういうところが君らしい。そういえば今日、イベリスさんを案内するときに彼女に何か言ったね?」
全てお見通しのようだ。言い逃れは出来ない。グラスを傾けながらそう言ったラーニーへ視線を向けてシャーロットは返事をする。
「はい。大変に失礼なことを。」
「彼女の様子を見てそう思った。まぁ、詳しい内容は聞かないことしよう。咎めたいわけでもない。彼女はそれで怒るような方ではないだろうけど、きちんと謝罪はしたんだろうね?」
「はい。帰りの案内の途中に。」
「オーケー。彼女も含めて彼らは大切な客人だからね。あまり失礼のないように。ところでロティー、君は彼女のことが苦手だと言ったけど、そこまで心から嫌っているのかい?」
シャーロットは少し間を開けて返事をした。
「ただの身勝手です。故に嫌っていると言えば語弊があるでしょう。彼女には何の落ち度も非もありませんし。」
「聞いたかもしれないけど、僕は彼女を財団に迎え入れたいと思っている。いわゆる引き抜きというものだね。それにふさわしいものを彼女は持っている。」
ラーニーの言葉に対し、シャーロットは感情的に立場というものを一時的に放棄して言った。
「そう、貴方がそう決めたのであればそれが正しいのかもしれない。財団にとってはね。」
他の誰が聞いているわけでもない二人きりの空間の為、ラーニーもそれを受け入れる。
「難しい話だろうけど、何も言わなければ何も始まらないからさ。」
「そうね。私が彼女の立場だったなら喜んでその話を受けるけど。」
シャーロットの返事が予想と違うものだったのか、ラーニーは驚いたような視線を向けたが、すぐにいつも通りの余裕の笑みを浮かべる。
それを見たシャーロットは念を押すように呟いた。
「 “今の私が” 彼女の立場だったなら、ね。」
* * *
足取り軽く少女は自然の中を闊歩する。失われたセルフェイス財団特別管理区域跡地の周囲で満面の笑みを浮かべながら。
ラーニーとシャーロットの関係や、そこに波を立てるイベリスの存在。財団の依頼が科学的に解明できないと理解した機構。財団とアルビジアの間に生まれた軋轢。
これら全ての歪みが自分にとっての極上の楽しみである。財団にグリーンゴッドを与え、世界的な自然再生を促した時点でこの未来は決まっていた。そして今、ついに積み上げてきた積み木を一気に崩す時が訪れようとしている。
「あいむ あんじぇりか☆あい えんじょい ざ からみてぃ☆あなざーみぃ、でぃふぁれんとみぃ、あるたーえご。はう あばうとぅゆー?あんじぇりーな、あんじぇりーな。」
一人きりの荒野で彼女は言う。ふわふわした甘い声が暗闇に吸い込まれる。
花を咲かせたような笑顔のアンジェリカは、明日から起きるだろう出来事を想像して楽しんでいるのだ。
「これでもう一度貴方達とお話が出来る。イベリス、レナト。貴方達は “こんなつまらない世界” に一体どんな希望を持っているの?教えて欲しい、教えて欲しい。私は知らない、何も知らない。恋も、愛も、友情も、慈しみも、人が持ち得る善性だっていうけどそれで何が変わるのかなぁって。ずぅっと昔から自然を壊し、人を裏切り、誰かを傷付けて、国として争うばかり。人は何度だって同じ間違いを繰り返して同じ罪を重ねてきたじゃない?だったら裁かなきゃ☆ 間違っているものは全て。綺麗ごとを言って罪の本質を見逃すのは、めっ!なんだよ?」
周囲には彼女の笑い声が響く。
両手をいっぱいに広げてくるくると回るアンジェリカは湖の傍に近付き、湖面を覗き込んで言った。
「鏡よ鏡よ鏡さん。この世界で一番 “正しいもの” はなぁに?」
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