第30節 -王妃達の夜-

 玲那斗、イベリス、アルビジアによる会合はアンジェリカの乱入によって緊迫した話し合いとなったが、結果として翌日の行動や目的についてしっかりと確認し合う良い時間となった。

 良くも悪くも場をかき乱し続けたアンジェリカはどこへ消えたのか分からないが、今夜の内に再度姿を現すことは無いだろう。不思議とその場にいた3人の誰もがそう思っていた。

 そして、話し合いの後はイベリスとアルビジアは同室で、玲那斗は別室で休息をとることに決めたのであった。


 午後10時。玲那斗は2人とは別の部屋でヘルメスを立ち上げ、先の話し合いで決まったことをジョシュアとルーカスへ報告を上げる準備を行っている。

 このタイミングで1人になるのは危険だとイベリスに言われたが、さすがに女の子2人と同じ部屋で一夜を過ごすのも気が引ける。

 結局、 “危険” の中身がアンジェリカを指していることは明白で、さらにその当人が今夜中に再度現れるとは考えにくいという結論に達したことで玲那斗は別室へと自ら移動した。

 考えてみるとイベリスと共に過ごすようになって一人だけで夜を過ごすということは初めてである。

 少し寂しいような、新鮮なような不思議な感覚だ。

 そんなことを考えながら資料のまとめと通信の準備を整えた玲那斗はヘルメスからジョシュアへとコールを送る。すると間もなくジョシュアが応答した。


「こちら姫埜中尉です。目標の自宅にて話し合いの場を持ち決まったことを報告します。」通信が繋がって間もなく玲那斗が言う。

 それに対し、ホロムグラムモニター越しにジョシュアは言った。『こちらブライアン大尉だ。遅くまでご苦労だな、玲那斗。』

「隊長達も。英国政府からの返事はまだのようですね。」

『思ったより遅いな。セントラルから政府に対する報告は既に上がっている。財団側から何か働きかけがあったか、もしくはその逆か。とはいえ、いずれにせよ協定に基づく調査許可が下りるのは時間の問題だ。明日の午前8時時点できっちり結論は出る。』

「はい、それを見越してこちらで明日の行動について決めたことがあります。イベリスだけでなく、アルビジアの力も借りた共同作戦を取るつもりです。」

『ほう。彼女の協力を得られるのであればそれに越したことはない。それで?作戦と言うのは?』


 ジョシュアの問いに玲那斗は先程3人で話して決めた内容をつつがなく伝達する。セルフェイス財団が隠し持っているというデータをイベリスの能力によって引き出そうという例の作戦だ。

 一連の流れを聞いたジョシュアは言った。


『なるほどな。英国政府の許可が下りること前提というわけか。』

「はい。アルビジアからは “泥棒” と言われてしまいましたが。」

『順序の問題だろう。まだ正式な調査許可が下りていない現状、傍から話を聞けばそう取られて当然だ。』ジョシュアは笑う。

「あと、イベリス1人に大役を押し付けてしまったことについて、自身の中で未だに葛藤があります。」

『それなら問題ないだろう。彼女なら出来るさ。それに、お前さんが心配なのは彼女の能力的な部分ではなくて精神的な側面だろう?』

「そうですね。」玲那斗は言う。

 ジョシュアの言う通り、玲那斗もイベリスの任務の取り組み方については特に心配していない。むしろ長く機構に在籍している自分よりよほど優秀だ。

 気になるのは、まだ本格的に調査活動に加わって1年も経っていない彼女にこういった大役を平然と押し付けてしまったことである。

『彼女は強い。能力的なことではなく、心がな。誰かの為に何かを成すとなれば全力で取り組むだろうし、そして完璧に成功させるだろう。敢えて言うことでもないが、お前が傍にいる限りは大丈夫だ。俺やルーカスではダメだろうが、玲那斗なら話は別だ。それだけで彼女はどこまでも強くなれる。』

「自分にもっと力があれば、と思わなくもないんです。同じリナリアに所縁を持つ者として、こうも頼りきりというのも何か、こう…」

『考え過ぎだな。』ジョシュアがそう言った時、横から割り込む形でルーカスが言う。

『まったく、考え過ぎだ。横で聞いてればいつもの心配性モードときた。玲那斗のその引っ込み思案は昔から変わらないな。フロリアンを見習え。』

「フロリアンは天然なところがあるからな。その癒しが今回無い分、よりナーバスになってるのかもしれないが。」

『俺達じゃ頼りないってか?』ルーカスが冗談っぽく言う。

「そうじゃない。役回りの問題だよ。」玲那斗も同じ調子で返した。

 途中でジョシュアが言う。『そういえばフロリアンからも連絡が来ている。玲那斗から連絡をもらう少し前に報告を受けた。ドイツでの任務は順調なようだ。総大司教ともうまく行動を共に出来ているらしい。』

「ロザリアですか。」玲那斗は1人の少女の姿を思い浮かべながら言う。

『そうだ。ミクロネシアで会議を共にしたシスターも一緒らしい。それと、ここからが重要な報告だが、先程フロリアンは対象Aと遭遇したらしい。』

 その瞬間、玲那斗の背筋は凍り付いた。対象Aと言えば機構内で “アンジェリカ” を呼称する際のコードネームのようなものだ。

 先程?ドイツでも彼女の姿が?いや、それはおかしい。あり得ない。なぜならほんの数刻前までこの場所に彼女は…

 心臓の鼓動が早鐘を打つ。玲那斗は気持ちを落ち着かせながら言った。

「隊長、それについては遅ればせながら自分も報告をしなければなりません。自分とイベリス、アルビジアも今夜、対象Aとこの場所で遭遇しました。」

『何だって?』ジョシュアは驚きを隠さずに言った。続けてルーカスが言う。

『玲那斗、確か財団支部にイベリスを連れて行った時も待合室で遭遇したと言ったな?もし仮に対象Aがその後にドイツへ渡ったのであればまだつじつま合わせは出来る。っが、さすがに今この瞬間にこの地に対象Aがいるとすればそれはおかしい。』

「ルーカスの言う通りだ。あり得ない。」

 同一存在が2人?イベリスの使うような投影体を用いた?いや、あり得ない。イベリスですらその能力を使う際は半径200メートル以内という制限がかかる。

 イングランドのダンジネス地区からドイツのミュンスターまではおよそ600キロメートルの距離がある。仮にアンジェリカがイベリスと同じ力を使えたとしても、それを “限定的にしか使えない” と言った彼女にそんなことが叶うはずがない。

 あまり考えたくはないが、アンジェリカという存在そのものが2人いるという可能性に目を向ければ有り得なくはない。

「アンジェリカが2人?」

 困惑した様子を見せて狼狽えた玲那斗を見たジョシュアは言う。『何がどうなっているのか今のところは理解出来ない。双子というわけでもないだろうしな。とにかく、現時点では考えるだけ意味を成さないだろう。事実上の棚上げにせざるを得ないが、ただ一つだけ言うとしたら “気を付けろ” ということだな。』

 至極真っ当な答えである。懸命に考えたところで謎がわかるはずはない。

『そうすると玲那斗、あまり通信を長引かせるのも良くないのかもしれない。簡潔に明日のことを言う。午前9時にダンジネス国立自然保護区、ポイントAで落ち合おう。以上だ。』

「了解しました。」

 その会話を最後に玲那斗はジョシュア達の通信を切った。

 この地に来てから常に付きまとう彼女の影。どことなくミクロネシアの地で出会った時とは印象や態度が異なるような気はするが、それが何を示すのかは分からない。

 玲那斗は首を静かに横に振った。考えても仕方ない。いずれ向き合うべき問題にはなるだろうが、今は明日に備えて万全の態勢を整えることが先決だ。


 すっきりしない気持ちを抱きつつも頭を切り替え、玲那斗は部屋の照明を消すと用意した簡易寝袋に潜り込み静かに目を閉じるのだった。


                 * * *


 一方、隣の部屋では玲那斗が眠りに就いたのを確認したイベリスが一安心という表情を浮かべていた。

 アルビジアが横たわるベッドのすぐ傍の椅子に座るイベリスは安堵の息をつく。ひとまず彼の周辺に危険は無いようだ。

 例え物理的な距離が壁を挟んだ位置で離れていようとイベリスにとっては関係ない。一度目にした場所であれば、自身の投影体を通していつでも彼を直接見守ることが出来るし、その周辺に高度な赤外線ビーム探知機と同等の監視網を張り巡らせることだって出来る。


 照明を消した部屋の中でイベリスは目を閉じ、毎夜と同じように物思いに耽ろうと思ったが、ふいにベッドからアルビジアが声を掛けてきた。

「イベリス、眠らないの?」

 彼女から声を掛けてくるなど珍しいこともあるものだ。いつもはこちらから話し掛けない限り、口を開くことはないというのに。

 イベリスはアルビジアへ柔らかな笑顔を向けて言う。

「私には眠りというものが必要なくなったの。眠ろうと思えば眠れないこともないけれど、今は彼と過ごす時間の1分1秒でもずっとこの目で、体で感じていたいと思うから。だからほとんど眠らないのよ。」

「そう。眠らなくて良いのは私と同じなのね。私はお爺様から夜はゆっくりと休むようにと言われて眠るようにしているの。やはり睡眠は良いものよ。夢は人の心を癒してくれる。それが良い夢でも悪い夢でも。」ベッドに横たわる彼女は仰向けで天井を見据えたまま言う。

「ありがとう。心配してくれているのね?ただ、私にとっては今のこの瞬間そのものが良い夢というのかしら。夢で終わらせたくないかけがえのない時間。たまに彼も言うのだけれどね。暖かなベッドに潜り込んで微睡の中で見る夢は格別なんだって。」

「相変わらず仲が良いのね。とても、そう…とても良いと思う。そして私にとっては羨ましい。」いつもは表情を変えることのないアルビジアが僅かに微笑みイベリスに顔を向けた。

 そんな彼女の様子にイベリスは一瞬驚いたが、すぐに同じような微笑みを返す。するとアルビジアが言う。

「ねぇ?イベリス、もう少しお話しても良い?」

「えぇ、もちろん。私も貴女とお話がしたいわ。」嬉しさを隠しきれずにイベリスは返事をする。

 その言葉を聞き届けたアルビジアは視線を天井に戻して言った。

「私、ずっと誰にも言えなかった。千年前、私が第二王妃の役目を担うことになると言われた時、本当は凄く怖かったの。私には貴女のような強さも志もない。彼に対する絆も愛情もない。そんな私が第二王妃などという立場を背負って立つことなど出来ないと、足が竦んだわ。」

「重荷を背負わせてしまっていたのね。ごめんなさい。」自分の不出来が彼女にそうした重圧を与えてしまっていたのではないかという思いからイベリスは謝った。

「いいえ、私が怖かったのは責務についてだけではない。当時、レナトとイベリスが本当に愛し合っていたことを知っていたから、その間に私という存在が入り込むようなことになるのが嫌だった。いくらお父様やお母様、周囲の大人達が決めたことであっても受け入れたくなかった。」

 アルビジアは天井へ向けた視線をイベリスに向けて言う。

「だって、そうでしょう?如何な理由があったとしても、愛する2人の間に割って入るということに何の意識もしない人だなんていないと思う。それに、どうしても第二王妃という立場を決めなければならないのであれば、マリアの方がよほどその地位にふさわしいと思っていたから。貴女やレナトとも仲が良かったし、あの子ほど完璧な子もいないでしょう?どうして私なのか悩んだわ。だから私は逃げていた。誰の言葉も聞かず、誰の干渉も受けることのない場所で自然をずっと眺めていた。ぼうっとしてばかりのアルビジアは駄目だと言われようと、気にもしなかったし、むしろそう思って欲しかった。貴女達の邪魔になりたくなかったから。」

 千年越しに知った彼女の本当の気持ちというものにイベリスは聞き入った。自分の本心を誰にも言おうとしなかった彼女がここまで赤裸々に本心を明かすということにも驚きを感じてはいたが、それ以上に心と心の距離が近付いたような気がして少し嬉しかった。

「そうだったのね。辛い想いをさせてしまっていたみたい。私もずっと聞いてみたかったの。貴女が本当はどう思っていたのかを。ただ命じられるままにそういうことになって、そこに貴女の意思は無くて、それで…言葉にするのは難しいわ。ただ、傷つけてしまっていたのではないかって思っていた。」

 イベリスの言葉を聞いてアルビジアは言う。

「遠い昔、私が星の城からほど近い中央広場で自然との戯れを楽しんでいた時、レナトが話し掛けに来てくれたことがあった。その時、私は彼に言ったの。 “イベリスの傍に居なくて良いのか” と。すると彼は貴女が勉強中でしばらく会えないと言っていたわ。」

「そういえばそんなことがあったわね。外で彼が会いに来てくれたことは分かっているのに、勉強の時間はなかなか抜け出せなくて。」懐かしむようにイベリスは言った。アルビジアは続ける。

「彼は貴女が私のことを心配してくれていると伝えに来てくれた。噂に違わぬ優しさと気遣いを持つ人なんだと、その時思ったわ。ただ、私は彼に言ったの。彼女は少し苦しそうだと。」

 彼女の言葉を聞いてイベリスはそれを否定しなかった。立場による息苦しさや、のしかかる重圧というものに苦しめられていたのも事実だからだ。自分はただレナトの傍で彼の妻として生きることが出来ればそれで良かった。

 人々の希望、国民の光、公国の未来といくら持て囃されようとも本音の所ではそれを重荷だと感じていた。

 結局、王妃になることなくこの世界から肉体が消え去った時に安堵を感じてしまっていた自分が確かにいたのだ。

 アルビジアは言う。「私の言葉に彼は何も言わなかった。きっと理解していたのね。言うまでもなく、レナトは貴女のことなら何だって知ってそうだったもの。」

 その言葉にイベリスは少しだけ気恥ずかしさを覚えた。とても心地よい感覚ではあるが少し照れ臭い。アルビジアは続ける。

「彼は私にこう言った。 “第二王妃の取り決めについて本当はどう思っているのか” と。」

「その時は何と答えたの?」イベリスの問いにアルビジアは静かに目を閉じて深呼吸をする。そしてその時の記憶を噛み締めるように答えた。

「私は、みんなが幸せになれるのであればそれで良いと。彼はその取り決めの中のどこにも私の意思がないことを気にかけてくれていたようだったけれど、元から私には望むような意思など無かったの。ただあるがままを受け入れて、あるがままに生きる。この世界の自然と同じように、時の流れに身を委ねて。」

 懐かしむように言ったアルビジアは目を開けて言う。

「私がそう言ったときの彼の顔。とてもやるせなさそうな表情をしていた。一度の生を謳歌することを、自ら放棄した私のような人間のことを気にかけて慈しむだなんて、彼は優しい人ね。だからかしら、彼ならば良いと思ったの。」

 イベリスは最後の一言を聞いて思わず彼女の方を見やった。横目でそれに気付いたアルビジアは笑った。

 彼女が表情を崩して笑うなど滅多にみられるものではない。見た目相応に愛らしく、しかし上品に笑う。暗がりの中でしっかりと見ることは出来ないが、それでもはっきりと分かる。

 その笑顔は世界一素敵な笑顔だと。アルビジアが本当の意味で笑った顔を初めて見たイベリスはそう思った。

「心配しないで、イベリス。私はただ貴女と彼との間にある絆が羨ましいと思っているだけ。彼に恋心を寄せているわけではないの。それに、貴女以外の女性が彼の傍にいるだなんて想像が出来ない。ただ、こんな私に温かさをもって接してくれた彼が相手なら、政略結婚であっても、意志のない契約上の取り決めであっても構わないと思った。貴女は幸せ者ね、イベリス。きっとリナリア七貴族の子供の中で一番。」


 “七貴族の子供たちの中で一番幸せな子”。その言葉を聞いた時、イベリスの中でふと半年前の記憶がよみがえった。

 紫色の瞳で射貫くように自分を見据え、自分を否定した彼女の言葉を。


「ねぇ、アルビジア。変なことを聞いてしまうかもしれないのだけれど…少し前に遠い国でアンジェリカと話した時、あの子が言っていたことがあるの。この世界の未来に対して “可能性” があると信じているのは私とレナトしかいないと。他のみんなは誰一人としてそうは思っていないのに、どうして今を生きる人々が良い未来を紡ぐ可能性を想像できるのかと。貴女は今の世の中に対して、やっぱり明るい未来や可能性は無いと思っているのかしら?」

 アルビジアはイベリスに目を向け、彼女の言葉を聞いた上でしばし考えてから答えた。

「千年経っても人の本質まで変わったわけではないと思う。アンジェリカがそう言ったのなら、それはきっと正しい。あの子は人間の犯す罪と受ける罰というものを、最も近い所でその目に焼き付けてきた子でしょう?だから私は彼女の言葉を否定できない。さっきも言ったけれど、私は元々自分の望みなどというものもなく、ただあるものをあるがままに受け入れて生きていた抜殻のような心の持ち主よ。もしかすると、7人の中で一番世界に対して薄情で、冷たいのかもしれない。未来を考える以前に…人が変わる可能性なんてことすら想像の中になかったのだから。悪く言えば、全てに興味がなかった。美しい自然を眺めて、その声を聴くこと以外に興味が無かった。この世界の行く末がどうなるかなど考えもしなかったし、可能性や未来などというものを想像したこともないの。」

「そう。」イベリスは短く答えた。人生の先に明るい未来があると考える人間などいないのか。それが当然だと思っていた自分にとっては酷く悲しい現実であった。

 しかし、アルビジアはこう付け加えた。

「私はアンジェリカの言うことを否定できないけれど、貴女の考えも否定は出来ない。多くの人々が先行きに可能性なんてものを感じていなかったとしても、可能性があると “信じたい” という人はたくさんいると思う。例えば、セルフェイス財団のあの人が貴女に拘りを見せていたと言っていたけれど、それはきっと貴女が多くの人々に “人には素晴らしい可能性があるんだ” と伝えることが出来ると思ったからでしょう?絶対にどちらか一方が正しくて、どちらか一方が間違っているということはないと思うわ。」

「そうね、ありがとう。」イベリスは穏やかな表情で彼女に言った。

「どういたしまして、優しい人。」

 柔らかく微笑みそう言ったアルビジアを見てイベリスは言う。

「気が変わったわ。」

 そう言ったイベリスを不思議そうにアルビジアは見つめた。

 イベリスは椅子から立ち上がるとゆっくりとアルビジアの眠るベッドへと近付いてきて言う。

「私も眠ることにするわね。貴女の隣で寝かせてちょうだい。」

 思いも寄らない申し出にアルビジアは驚きながら少し頬を赤く染める。例え同性であっても誰かと一緒に横になったことなど一度もない。

 そんな様子に構うことなくイベリスはアルビジアの隣へと潜り込んだ。

「誘ったのは貴女よ?」茶目っ気たっぷりの悪戯な笑みを浮かべてイベリスは言った。

 お互いの息遣いが分かる程の近距離で2人は視線を交わす。

「任務でここに来ているけど、まるでお泊り会みたいね。」イベリスは言う。

「その、慣れないから。あの…」アルビジアはしどろもどろになりながら言った。

「夢に心を癒してもらおうと思うの。それが例えどんな夢でも、ね。貴女と一緒ならきっと良い夢が見られるわ。あの頃に見ることが出来なかった夢も、きっと…おやすみなさい。アルビジア。」

 イベリスはそう言って静かに目を閉じる。


 あの頃見ることが出来なかった夢。もしも、千年前に彼女ともっと語り合うことが出来ていたのなら、自分の空虚な現実に対する見方は何か変わったのだろうか。

 何物にも興味を抱くことが無かった自分の目にも、野に咲く花などの大自然よりもっと色鮮やかな景色が映ったのだろうか。

 隣で眠ると言った彼女と同じように。そんなことを思いながらアルビジアはイベリスの耳元で囁いた。

「おやすみなさい。」

 遠い昔、お互いにただの一度も交わすことが無かった挨拶を。


                 * * *


 セルフェイス財団支部の屋上でラーニーは1人佇んでいた。

 月明かりもない暗い夜。時折吹く風はまだ冷たく、じっとしていると風邪をひいてしまいそうなくらいだ。

 草木も眠るとはよく言ったもので、周囲に聞こえる物音はなく静寂そのものだった。

 ラーニーはこんな夜に1人きりで遠い暗闇を眺め物思いに耽ることが良くある。部屋の中で椅子に座って考え事をするよりも開放的な気分になれる分、じっくりと自分の心と向き合えるような気がするからだ。


 グリーンゴッドの副作用。アンジェリカという少女の存在。

 世界的に進められている自然再生計画の中止の可能性。各国政府からの追及。

 思いつく限りのことを考えてみても良いことなど何も見当たらない。加えて、機構が英国政府へ働きかけたことによる質問状が今夜自分の手元に届いている。

 もはや八方塞がりに等しい状況だ。明日イベリスと会合をしたところでこれらの懸念は解消されるばかりか、時間の経過によって一層深刻な状況へと陥っていくことだろう。

 いつ道を踏み外してしまったのか。いや、そんなことは決まっている。


 アンジェリカという少女の甘言に乗ったその瞬間からだ。


 ラーニーは1年前のことを思い出しながら、 “あの時の選択が無ければ” と後悔した。

 人生は一本の幹の先にある枝分かれした道を歩む旅だ。枝分かれした先に花が咲くのか枯れ葉があるのか、又は先が切り落とされているのか…今の自分の道はおそらく最後者であろう。

 何かを選ぶということは何かを選ばなかったということと同義である。あの時別の道を歩んでいたのなら、今の自分はどうなっていたのかという自分への問いは誰もがしたことがあるに違いない。あの時選ばなかった道の先には何があったのかと。

 そして今、この問いを繰り返し頭の中で考える。

 あの時、アンジェリカの言葉に乗らなければ。あの時、グリーンゴッドの欠陥にもっと早く気づき計画そのものを撤回できていれば。あの時…

 しかし過去は覆らない。過ぎた時間は戻らない。思い返して後悔するだけ不毛だ。思考の堂々巡り。それで良い未来が得られるなら誰だって苦労はしない。


 ラーニーは諦めにも近い溜め息を吐いて空を見上げた。吸い込まれそうな程の漆黒。

 分厚い雲が月明かりを遮り、星の輝きひとつ見ることは出来ない。まるで今の自分の心のようではないか。

 そんな思いを抱きながら苦笑していると、ふいに背後からよく知った声が自分の名を呼んだ。

「ラーニー様。」

 ラーニーは振り返って言う。その視線の先にはサミュエルの姿があった。夜遅くまで業務に励んでいるらしい。

「サム。まだ起きていたのかい?朝早くから普段とは違う仕事を押し付けて働かせてしまったというのに、こんな時間まで働かせてしまっては僕も心苦しいな。」

「お気になさらないでください。お部屋にいらっしゃらない様子でしたのでここではないかと思い参りました。お邪魔であれば下がりましょう。」

「構わないよ。むしろ来てくれてほっとした。」

「そう言って頂いて安心しました。それより、やはり寝付けませんか?」

「考えることがたくさんあってね。どこで道を違えてしまったのかと自分を追い込んでいる。」

「あまり思い詰めないでください。人には乗り越えられる試練しか与えられないと言います。貴方様の目の前にある大きな問題も、時間が解決してくれるやもしれません。気休めにもならない爺の戯言ではありますが。」

「いいや、いくらか気持ちは楽になったよ。親しい人と話すだけで癒されるものだ。ありがとう。」

 そう言ってラーニーは再び空を見上げる。何もない夜空を見上げながらサミュエルへ言う

「サム、彼はどうしている?」

「部屋でお休みになられています。」

 ラーニーの言う彼とはジェイソンのことだ。彼の言う通り、半ば脅しに近い形で支部へと留めてしまっている老人。自分とは本来なんの繋がりも持たない少女を守るために必死に庇おうとしている心優しき人。

 ただし、如何な理由であれ法の壁の前にその優しさは罪となってしまうのだが。

「サム、僕は阿漕なことをしている。人の決めた法を盾にしてはいるが、正しいことなんて何もない。きっと全部間違いだ。こんな無様な姿、父さんが見たら何というだろうね。」

 サミュエルは言う。「貴方様は貴方様です。わたくしどもは貴方様が決めた道に従うまで。忘れないでください。貴方は1人ではありません。わたくしの他にシャーロットもおります。」

「ロティーか。彼女には、ただ幸せに暮らしてほしいと今でも思っている。今回の件についてロティーにはセルフェイス財団の一員としての責任は無い。いざとなれば僕を捨てて逃げてくれても良いんだ。」

 それは義兄としての優しさなのか、人としての思いやりなのか。シャーロットが心の内で思う幸せの在り方を理解しているサミュエルは複雑な思いを抱きながら言った。

「あの子はここを実の家だと思っています。そして実の家族だと。おそらく、そのような考えは微塵も抱かないでしょう。例えどんなことが起きようとも貴方の傍を離れないでしょうな。」

「昔は、狼のようだったのにな。出会ったばかりの頃はずっと睨まれていた気がするよ。」遠い過去を懐かしむようにラーニーは笑いながら言った。

「狼は仲間意識と家族愛の強い動物だと言いますから。」


 狼は一度家族となったものとは “生涯に渡り添い遂げる”。サミュエルには分かる。シャーロットはどんな状況に陥ろうとも決して彼の傍を離れることは無いだろう。

 ラーニーの願う彼女の幸せの在り方と、シャーロットの願う幸せの在り方の僅かなすれ違いが埋まることを心から願っている。

 それがきっと2人にとってかけがえのない幸せの在り方になるのだから。


 彼女についての思考を巡らせながらサミュエルは言う。

「外は冷えます。そろそろ中へお入りください。明日の大事な会合へ向けてお休みにならなくては。」

「あぁ、そうしよう。」

 そう言うと2人は屋上を後にして屋敷の中へと戻っていった。



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