第1節 -予感-

西暦2037年4月20日

イングランド イースト・サセックス州 ライ にて


 肌寒さが残る4月の曇天。英国の庭園と呼ばれるケント州の隣に位置し、海岸にほど近く、昔ながらの漁村風景が色濃く残る地に四人の男女がやってきた。

 長閑な田園地帯が両脇に続く道路、町の中心部からおよそ5キロメートル離れたウィッター・シャムレーン沿いにある戸建てのペンションに一台の中型輸送車がゆっくりと近付いていく。


 W-APRO(世界特殊事象研究機構)。


 車体のコンテナには世界中の誰もが知っているであろう有名な名前と “プロヴィデンスの目〈神が全てを見通す目〉” をモチーフとした彼ら組織の独特なロゴマークが刻印されている。

 それは世界的な異常気象や自然災害、伝染病などあらゆる問題に対処する為に組織された巨大な国際機関であり、その規模は世界一の国際機関である国際連盟に比肩する。

 一般的にはWorld Abnormal Phenomenon Research Organizationの頭文字をとって【W-APRO】(ワープロ)、又は単に “機構” と呼ばれている。


 そんな機構の輸送車は緑に囲まれた美しい庭園が広がる建物の前に停車した。

 広々とした敷地内には、遠い昔を思わせる西洋造りの大きな屋敷が建っている。

 手入れの行き届いた庭園には色とりどりの植物が植えこまれ、カレンダー上で見る日付よりずっと春の訪れを感じさせる景観が広がる。

 建物の奥にはさらに広大な敷地が広がっており、豊かな緑が一帯を覆っている様子が窺える。

 今回の調査任務の拠点とする為に機構が手配した平屋のペンションは古き良き時代を思わせる中々に優雅な佇まいだ。


「よし、到着だ。穏やかで良い所じゃないか。それに聞いていたよりもずっと広い。」

 ロンドン・シティ空港から輸送車で1時間半。狭い車内に押し込めた大柄な逞しい体をよじりつつ、出来る限りの伸びをしながらジョシュア・ブライアン大尉は言った。

 長旅の疲れを発散するように伸びをしている彼の隣で、爽やかな笑顔を浮かべた青年が気さくに言う。

「隊長、荷物はどうしますか?」

 緩やかなウェーブのかかるストリートミディアムヘアにスカイブルーの瞳を持つ彼の名はルーカス・アメルハウザー。技術士官で階級は三等准尉。マイスターの称号を持っている。

 ジョシュアが答える。「先に必要な資材だけを限定して運び出すとしよう。少し羽休めといきたいところだが、すぐに依頼主の元に向かう必要があるからな。休憩はその後だ。」

「了解しました。玲那斗、早速仕事だ。手伝ってくれ。重たい荷物がお前を待ってるぞ。」指示を聞いたルーカスは後部座席に座る同僚の肩を笑顔で叩いて言った。

 肩を叩かれた姫埜玲那斗〈ひめの れなと〉中尉はとぼけた表情をしながら言う。「そっちは任せたぞ。軽い荷物なら俺に任せてくれ。」

「おいおい、女の子に重い荷物を運ばせる気か?ここは旦那として格好をつける絶好のチャンスじゃないか、玲那斗。イベリスもそう思うだろ?」

 ルーカスは玲那斗を腕でぐいっと押しながら、彼の隣に座る少女に声をかける。

「えぇ、そうね。少し貴方の格好良いところが見たいわ。」悪戯な笑みを浮かべた少女は言う。

「良し、決まったな。観念しろ。イベリス、少しばかり旦那を借りていくぞ。」そう言うとルーカスは車外へと降りて行った。

「 “少しだけ” 頑張ってきますか。」

 仕方ないという仕草で両手を挙げた玲那斗は観念した様子でルーカスに続いて車輌から大地へと降りる。

 車輌を降りた2人は後部へと回り込み、コンテナを開けて重たい荷物の搬出作業に取り掛かった。


「イベリス、軽い荷物はお願いできるか?」ルーカスと玲那斗を見送って微笑みを湛える少女にジョシュアが声をかけた。

「えぇ、任せて。ペンションの中に運べばいいのね?」

「そうだ。中のどこでも良い。適当に置いてもらって構わないぞ。」

「分かったわ。」そう言うとすぐに少女は車輌の外に出た。


 彼女の長く美しい白銀の髪が風になびき広がる。

 曇天の中に輝くただひとつの光。

 一目見れば時がゆっくりと流れる錯覚を覚えるような…その姿に誰もが息を呑み、一瞬で見惚れてしまうだろう少女はふわりと大地に降り立った。


 少女はくるりと振り返り、透き通るようなミスティグレーの瞳をジョシュアへ向け笑顔を湛えた。

「素敵なところね。とても落ち着いていて、のどかで。」

 そしてすぐにまた振り返ると荷物を手に取ってペンションへと運び始めた。


「お前さんがいるだけで、世界中どこでも素敵な場所に早変わりだろうさ。」彼女の後ろ姿を見守るような眼差しで眺めながらジョシュアは微笑み、最後に車輌から降り立った。


 ジョシュア、ルーカス、玲那斗、イベリスの四人は機構にいくつか存在するセントラルと呼ばれる中央司令、その中の大西洋方面司令 セントラル1 -マルクト-に所属する調査チーム マークת(タヴ)のメンバーだ。

 本来はここにフロリアン・ヘンネフェルト三等隊員という青年を加えた五人が揃って全員のチームなのだが、今回彼は別の単独調査任務に就いている為この地には同行していない。


 マークתがイングランドを訪れたのは、とある依頼主からの調査要請に応じてのことだ。

 依頼主の名はラーニー・セルフェイス。 “セルフェイス財団” という自然復興と保護を理念に活動を続けているセルフェイス一族が興した財団の若き現当主である。

 “荒野に新緑を” の合言葉と共に彼らは世界的な自然復興計画を実行してきており、特にここ20年余りの活動による成果は目覚ましく、それに比例するように財団の権威と規模も急成長した。

 今では世界中でその名を知らぬものはいないと言えるほど巨大な一家だ。


 初代当主であったエドワード・セルフェイスは世界各地で起きている環境問題に対処する為にありとあらゆる投資を行ってきた。

 二酸化炭素による地球温暖化、マイクロプラスチックによる海洋汚染、工業排気や排水による公害、砂漠化など多岐にわたる分野の問題を解決すべく多大な資金援助や物質的援助など貢献を果たしている。

 特に昨年から現代科学によるテクノロジーの産物である農業薬品、通称〈緑の神〉を用いて枯れかけた緑を豊かな状態へと復元するプロジェクトを二代目当主であるラーニーが実行。これが大成功を収め、現在世界中のメディアがこぞって彼を取り上げるに至っている。

 セルフェイス財団はもちろん、ラーニー・セルフェイスはアメリカのある大富豪が行ったプロジェクト、穀物の生産性向上と大量収穫を実現した【緑の革命】になぞらえられ〈荒野を新緑で満たす者 “新緑の革命者”〉 と呼ばれている。


 そんな彼らからある日、機構へとひとつの調査依頼が舞い込んだ。

 送られてきた依頼内容は簡潔にまとめると次のとおりだった。



 “ここ数か月、イングランド南東部 ケント州 ダンジネス国立自然保護区における財団管理区域外の場所-新型の農業薬品を用いていない地域において-で理由の分からない自然復興、荒野が突然に緑化する現象が見受けられる。

 財団としても調査と原因解明に乗り出したが、自分達の知識や技術では解明に至ることは難しいと判断。

 スーパーブルームなどとは違い、理由や原因の分からないこの現象を解明するに至ることで、未来における自然保護と復興に繋げられるのではないかと我々は期待している。

 よって、可能であるならば “荒野における唐突な緑化現象の原因や仕組み” を現地にて分析調査してほしい。”



 財団から上層部宛てに送られてきたこの要請に応える形でマークתがイングランドへと派遣され、本日から1週間ほど現地滞在の上で調査を実施する運びとなったのだ。



 コンテナに積んだ荷物を下ろしながらルーカスが言う。

「なぁ、玲那斗。セルフェイス財団についてどう思う?」

 重量級の荷物を下ろし一息ついた玲那斗は答える。「どう思うって、誰もが成し得なかった環境保護と保全、再生をやってのけた凄い家系だっていう印象だよ。」

「なるほど、教科書に書いてありそうな内容そのままだな。」

 笑いながら言うルーカスに玲那斗は言う。「誰に聞いたってそう答えるだろう?」

「もちろん俺もそう思う。だが、彼らの行いは規模が違う。科学の最先端を自負する機構も異常気象への対応として環境保護に取り組んでいるが、実際の所は彼らほどの成果は出せていない。元を正せば英国のひとつの家系でしかない彼ら財団の取り組みが、なぜか俺達のそれを超えた遥か先を行っている。確かに凄いことなんだが…俺にはそれがかえって恐ろしく感じられるんだよな。」

「恐ろしいだって?」ルーカスの発した意外な返答に思わず玲那斗は聞き返した。

「うまく言葉では言えない。財団の自然復興のやり方も、今回の調査任務の課題である唐突な緑化現象も現実的ではないというか。執念や妄念、そういった類の狂気的なものを感じてしまう。そう思うのは感覚的なもの…そう、勘だな。勘。」

「はは、科学の最先端を行く機構一のマイスターの口から “勘” という単語を聞く機会はそうは無いな」


 笑いながら答えたものの内心、玲那斗は驚いた。自分のチームメートでもあり、親友でもあるルーカスは機構という組織の中でも一位、二位を争うほどの科学の天才だ。

 ドイツの一企業に勤めていた彼の底知れぬ科学の知識と才能に目を付け、惚れ込んだ機構の上層部が頭を下げて引き抜きにかかったほどの逸材。

 結果として彼は機構の悲願でもあった全事象統合集積保管分析処理基幹システム【プロヴィデンス】-“全てを見通す神の目” の名を持ち、対外的には秘匿されている万能なシステム-に足りなかった最後のパーツである知恵の息吹を吹き込み完成に導いた人物だ。

 システムの完成を始め、彼の知識と技術によって機構は最先端技術の結晶ともいえる様々な機材の開発を成功させており、その実績を持ってマイスターの称号を贈られている。

 そんな彼の口から “勘” という非科学的な言葉を、これほどまで大真面目に聞く日が訪れるとは予想もしていなかった。

 機構に入構してからずっと共に過ごしてきたが、そんなことはおそらくこれが初めてではないだろうか。


「俺だって、世の中の全てを科学だけで解決できるとは今でも思ってないさ。科学で解明できないことなんて山のように積みあがっている。それに俺が怖いと思うものをお前は知ってるだろう?」

「幽霊だな。」ルーカスの問いに間髪入れずに玲那斗は答えた。

「そう、科学がどれだけ発展しても解明できない謎の代表格だ。心霊写真やウィジャ盤などは原理を説明するのは簡単だ。だが、人の潜在意識にまで密接に関わる幽霊の存在自体はどこまでいっても “証明のしようがない”。魂に質量はあるのか、死んだ人の意識はどこへいくのか…なんてものもそうだな。それに類して科学で解明できないもの…この流れで言うのは憚られるが。ほら、愛すべき我らの姫君がまさにそれだ。」

「イベリスが怖いと?」

「まさか。最初こそ違ったが、イベリスは既に俺達の大切な仲間だし、本当の彼女の姿を知った今となっては怖いだなんて微塵も思わない。だが、 “絶対に科学で解明できない存在” という意味で言った。」

 ルーカスはイベリスに視線を向けながら言う。らしくない言葉を言ってしまったことを取り繕うように。

 玲那斗は特に何かを言うわけでもなく静かに頷いた。

 そんな2人の元にジョシュアが近付いてきて言う。「言うまでもないが、世の中には解決しなくても良いものも存在する。イベリスは “そちら側” だろう。」

 ルーカスと玲那斗はジョシュアへと視線を送る。すると、さらにその向こう側にイベリスが笑顔で3人に手を振っている様子が見えた。

 愛らしい彼女の姿に玲那斗が大きく手を振り返す。ジョシュアとルーカスも手を挙げてイベリスに応じる。

 ジョシュアは視線を2人へと向け直して言った。「今回の調査任務の果てにあるもの。それが本当に解決すべき事柄なのか、それとも解決せず、そっとしておいた方が良い事柄なのか。お前達はどっちだと思う?」

「どういうことでしょうか?」思わずルーカスが聞き返す。

「いや何。手も加えていない場所の自然環境が勝手に劇的に改善するなんてことなどあり得るのか疑問に思ってな。それと、本来は財団の使用している〈緑の神〉とやらの原理解明も行うべきだが、なぜか解明作業は進められていない。この地に存在する緑の神と唐突な自然復興。ルーカスが幽霊と同じようにある種 “恐ろしい” と感じるこれらふたつの事象は科学の力をもって解決すべき事柄なのか否か。実際のところ俺は判断に迷う。」

 ジョシュアの言葉を聞いた玲那斗はピンときた。

「つまり、今回の調査対象にも “過去” と同じような何かがあると?例えば、イベリスのような存在がいて、何らかの力を行使しているなど。」

 ジョシュアが答える。「 “勘” だ。リナリアやミクロネシアの一件と同じ雰囲気を感じるという、俺の勘。どちらも結局は科学の力でどうこうできる問題ではなかった。」

「個人的な意見になりますが、解明できるかはさておき今回の件については双方とも解決すべき事象であると思います。」

 玲那斗の回答にジョシュアはゆっくりと頷いた。


 2人の会話を聞いていたルーカスはリナリア島での一件や以後に携わった事件を思い出しつつ苦笑気味に言う。

「出来れば今回は “そう” ではないことを祈りますが。」

 返事をしたルーカスの肩に手を置きながらジョシュアは言った。「何が起きるかわからない。事実は小説より奇なり、だ。」


 そうこうしている内にコンテナからの最低限の荷下ろしが終わり、最後に3機ほど搭載している自走式警備ドローンの起動と下ろし作業に3人は取り掛かる。

 その最中、ルーカスが呟く。「こういう時、フロリアンがいないっていうのは寂しく感じるもんだな。」いつも行動を共にする仲間がいないことに寂しさを覚えたのだろうか。

 玲那斗が言う。「そういえば、マークת内で別動任務になったのは初めてだな。」

「いつかそういうこともあるかもしれないとは思っていたが、それにしても単独行動だなんて珍しいにもほどがある。」

 ルーカスはそう言ってドローンの起動を完了させると移動の指示を出して言葉を付け加える。

「まぁ、行き先に待っている人物が “あれ” だから仕方ないか。」

「そう言って、実は羨ましいんじゃないか?」遠い目をしながら返事をしたルーカスへ玲那斗はにやりと笑いながら言う。

「まさか。総大司教様と俺は顔を合わせるとどうにも角が立ってしまうからな。」

「 “あれ” だなんて言うからだろう?彼女が聞いたらまたとんでもない皮肉を返されるぞ。」

「違いない。しかし事実として先方も嫌がるだろう?あと、俺もドイツ出身だが調査地のミュンスターはフロリアンの出身地だし、馴染み深いというところからもフロリアンが適任だと思う。それに調査内容が “ウェストファリアの亡霊” ときたもんだ。三十年戦争の残滓。宗教と幽霊…その内容だけでも俺は向いてないと分かる。」

 幽霊をとことんまでに怖がるルーカスを横目にして、玲那斗は内心面白さを感じた。


 マークתのもう一人のメンバーであるフロリアンは現在ドイツのミュンスターでローマ・カトリック教会 ヴァチカン教皇庁の依頼を受け、教会の総大司教を務める人物と共に別任務に当たっている。

 昨年、ミクロネシア連邦の地で初めて邂逅したその人物のことを一同は思い出す。プラチナゴールドの美しいストレートロングヘアに、万物全てを呑み込む魔力を秘めたようなオーシャンブルーの瞳を持つ不思議な少女だった。

 物腰こそ柔らかく、穏やかで優しい笑みを常に絶やすことのない反面、内に抱えた底知れぬ “何か” を感じさせる人物でもあった。

 女性でありながら、教皇不可謬説を覆して歴史上初めて司教職に就いた人物。

 極めて特異な立場に立つ人物との任務であることからか、異例ではあるが通常2人組以上での行動が義務付けられる機構内の方針から外れてフロリアンは単身で調査任務にあたることになった。


 玲那斗と同じ類の笑みを湛えたジョシュアがルーカスへ言う。

「あっちもあっちで特殊な任務には違いないが、情報を見る限りでは難しい内容ではなかったし大丈夫だろう。誰かさんと違って、フロリアンならあの大人物とも折り合いをつけてうまくやるだろうからな。」

 冴えない表情のルーカスは勘弁してほしいという様子で答える。

「フロリアンも総大司教様については相当警戒していたように思いますし、俺は心配です。向こうがどうなっているか、今夜あたり通信で確認してみましょう。互いの状況の報告も兼ねて。」


 3人はそんな話をしながらもてきぱきと作業をこなし車輌からのドローン搬出が完了させる。

 地上へ降り、完全起動したドローンはすぐに警備モードへと移行し、これからチームが拠点とするペンションの周囲の監視体制へと入る為に持ち場へと移動していった。

 そのとき、唐突に3人の周囲を甘いキャンディのような花の香りが包み込んだ。

 ペンションへ荷物を運び終えたイベリスがふいに目の前に姿を現す。

「お疲れさん。」文字通りの瞬間移動をしてきた彼女に驚く様子もなくルーカスはねぎらいの言葉をかける。

「ありがとう。みんなもお疲れ様。ひとまずはこれで準備完了かしら?」眩いばかりの笑顔でイベリスが言う。

「ばっちりだ。残りの荷物は依頼主への挨拶を終えて戻ってきてから下ろすことにしよう。さぁ、ドライブを再開するぞ。」

 ひとまずの作業完了を確認したジョシュアはそう言って手を叩き、彼の合図により全員が再び車輌へと乗り込んだ。


 これから4人は調査依頼主の元に向かう為、セルフェイス財団の支部を訪ねる。

 同地区に存在する財団支部は車で10分もかからない位置にある。距離にしておよそ4キロメートル弱といったところだ。


 “新緑の革命者”

 セルフェイス財団の若き当主ラーニー・セルフェイスとの対面の時が近付いていた。



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