第35節 -エンドゲーム-

 代表執務室に隣接するセルフェイス家の人間しか立ち入ることの出来ない特別な部屋の中で、ラーニーはたった今ある処理を終えた。

 それは支部のデバイスから財団が管理するクラウドデータベースに対するアクセス権を全て遮断することである。

 イベリスによって閲覧されたグリーンゴッドの機密資料へのアクセスはもちろん、あらゆる情報へのアクセスが停止されている。唯一機能しているのはクラウドを通じずに行うセキュリティ処理のみで、これは先程のセルフェイス家の人間のみが通ることが出来る扉などが該当する。

 反対に、クラウドデータベースと接続されている支部内の監視カメラやセキュリティドローンの記録する映像については、アクセス権を遮断している間はクラウド上に保存も出来ない為、これから支部の中で起きることは何も記録が残せないことも意味していた。

 ラーニーは手元の卓上小型コンソールから必要な処理を完了させると大きく息を吐いた。

 データベースへのアクセスが封じられた機構の彼らは、おそらく扉のセキュリティを解除し、自分の行動を制限することに注力してくるはずだ。


 機構が持つ国際的な強制調査権というのは、その国に設置される警察や軍隊の持つ権限よりも強力なものである。

 世界一の国際機関である国際連盟が内政不干渉の原則に基づき、特別な場合を除いて国家に対する勧告などしか出来ないのと違って、当該国に対して直接的な実力行使が可能な権限というものが機構には与えられているのだ。

 それは例えば巨大な災害時に、当該国の政府が必要な措置を怠ったり、又は政府中枢としての機能が果たせないと判断された場合に独断で国境内への立ち入り及び、救助支援活動を円滑にこなすことを目的として協定されたものである。

 今、グリーンゴッドという新型薬品による世界的な環境汚染の懸念が浮上しているということは、ある意味では世界規模の環境災害という名目で彼らには協定に基づく自由行動の権利が与えられる状況にあると言えるのだろう。

 さらに今回は英国政府が正式に自由行動に基づく調査許可を与えたことで、今や彼らはセルフェイス財団に対する調査行為においてはこの国の司法よりも絶大な権力をふるえる状況下にあると言えるのだ。


 そんな状況下にあってやるべきことは一つ。

 彼らよりも “世界” というものに対して先手を打っておくことだ。機構が薬品に関する重大な証拠を押さえて政府と関係国へ通達を行う前に財団側から彼らに働きかけを行うことが必要だろう。

 具体的には〈財団が過去にグリーンゴッドの危険性を認識していたという情報を抹消した上で〉英国政府及び、関係各国に対して今の財団の状況を伝えると同時に〈機構の調査行動に基づいて提出される資料には審査の余地有り。事実を確認した上で対応する必要がある。〉と釘を打っておくことだ。


「やれやれ、まいったな。小手先の小細工は通用しないか。」ラーニーは呟く。

 政府から送られてきた質問状に対して回答を保留したことに対する措置を事前に用意していたのは想定外だった。

 正直みくびっていた。グリーンゴッドに対する疑義が浮上したというだけで彼ら機構がここまでのことをしてくるとは。それだけの重大な懸念を考慮して行動していたとは思えなかったからである。

 にわかにグリーンゴッド以外の何かがそうさせるだけの理由としてあるのではないかと勘繰りたくもなる。そう、例えばあの女だ。

 ラーニーの脳裏に1人の少女の姿が浮かび上がる。恐るべき異能を持つ詳細不明の少女。

 どこから現れたのか、どこから薬品を持ち込んだのかなども分からない。そもそもあの少女はどのようにして薬品を開発したというのか。全てが謎だ。

 はっきりと分かることは、軽口を叩く以上の反抗をすれば殺される可能性があるということくらいだろう。であれば…


 そんなことをラーニーが考えていた丁度その時だった。

「はぁい☆ご機嫌いかがかしら?ラーニー。」

 周囲にほのかな甘い花のような香りが広がったかと思うと、脳裏に思い浮かべていた人物の甘ったるい声が後ろから響いた。

「この期に及んでもお約束の一言は言わなければならないかな?何の用だ。アンジェリカ。」ラーニーは振り返りながら言う。

「うふふふふ☆貴方のそういうところは嫌いじゃなかったわよ?でぇもー、同じネタを何度も繰り返すのは、めっ!なんだよ?だって飽きちゃうもんね☆」

「それはすまない。そう言われることを求めているのかと勘違いしていた。てっきり挨拶代わりのやり取りを気に入っているのかと思っていたからね。」

「確かに嫌いではなかったけど、ね?ところで、ラーニー。どうするの?そろそろチェックメイトだと思うんだけど☆」嬉しそうな表情を浮かべてアンジェリカが言う。

 この女はこの瞬間、もっと言えばこの先に訪れるであろう財団凋落の瞬間を心待ちにしているのだ。

 それだけを目的として今日まで自分達に関わってきていた。実に悪趣味な女だ。

「とっても楽しい幕引きになりそうでワクワクしちゃう!イベリスという花にもアルビジアという花にも手は届かず、伸ばした手が掴んだのは藁だった…☆ 何それ、最高!」

 嘲笑の笑みを浮かべたままアンジェリカは話し続ける。しかし、今はこの女の相手をしている場合ではない。やるべきことをしなければ。

 黙して答えず。余計なことを言うべきではない。反抗すれば殺されるというのなら…今すぐにこの女の脅威を取り除いてことを為すためにとるべき行動。その答えはただ一つ。

「そうだな。確かにお前の言う通り僕らはチェックメイトだ。けれどそれは別に僕達に限った話ではない。」


 ラーニーはそう言うとコンソールの下に設置していた小型拳銃を素早く引き抜き、迷うことなく彼女に向け、そして発砲した。



 一発の銃声が室内に轟く。



 直後、額を的確に撃ち抜かれたアンジェリカの小さな体は後ろへと弾かれるようにのけぞり、力なく仰向けに崩れ落ちた。脱力するように倒れた彼女の手足は無造作に投げ出され一見すると変な方向へ曲がっているように見えた。


 小さな悪魔に対する最後の審判を下したラーニーは言う。

「チェックメイトだ。罪は裁かれなければならない。いつかお前が言っていたことだったな?今はこれ以上お前の相手をしている場合じゃないんだ。どこから来たのかもわからない悪魔。ならば、どこへ消えても分からないのだろう?お前はディーテの市に堕ちるべきだ。後片付けくらいはしておいてやるから、しばらくは安心してそこに転がっていれば良い。」

 そう言ってラーニーは再びコンソールと向き合い、機構が自分の元へと辿り着くまでの間にやるべきことに取り掛かった。


 報告文書を送るのは英国政府はもちろんのこと、グリーンゴッドが供給されようとしている国家全域に渡る。

 予め用意していた報告用フォーマットを立ち上げ、必要な内容だけどを入力してあとはAIに文書を自動生成させる。何しろ時間が無い。一言一句入力などしている場合ではないのだ。

 しかし、そうして完成した文書に一通り目を通したラーニーが送信ボタンを押そうとしたその刹那。

 突如として背中脇腹辺りに激痛が走った。衣服を通じて生暖かい感触が広がり、それはやがて床へと滴り落ちる。

 ラーニーは恐る恐る視線を足元に向けると、そこには瞬く間に血だまりが広がっていった。

 自身の腰に手を触れ、動かすことの出来る限界まで顔を向けて背後を見やる。そこには深く突き刺された1本のナイフがあった。

 声にならない呻きを漏らしながらラーニーは後ろを振り返る。すると視線の先には、今しがた確実に額を撃ち抜いたはずのアンジェリカが、糸で吊るされたマリオネットのような姿勢で立ち上がっていた。

「どういう…ことだ…」

 ラーニーの言葉を耳にしたであろう目の前の少女はゆっくりと顔を上げる。

「どういう…ことだ…?ひひ…きひひひひひ…!あははははは!」

 額から血を流したままの少女は実に楽しそうな笑い声をあげて目を見開き、前髪をかき上げて傷口がラーニーに見えるようにして言った。

「この痛み…とっても気持ち良かったわよ?ありがとう、ラーニー。でもざぁんねん☆ぁたしちゃんを殺すには銃が小さすぎたわね?時間を稼ぎたいならアンチマテリアルライフルでも用意しておくべきだったわ。まぁおっきくても無理なんどけど、ね★ きゃはははは!」

 ラーニーは近くの壁に縋り、倒れ込まないように体勢を保ちながら懸命に目の前の悪魔へと視線を向けた。

「なるほど、悪い夢だ…夢であるというのにけたたましい。それに、 “空の容器は一番うるさい音を立てる” という言葉はどうやら真実だったようだ。」

 そう言った瞬間、今度は右ひざに激痛が走る。

「ぐぁぁぁ!」

 反射的に呻きを漏らしながら、咄嗟に痛みの先を見るとそこにはどこから投げられたのかも分からないアイスピックが突き立てられていた。

 自力で立つことが困難となったラーニーは床へと崩れ落ちる。

「あら?良い声で鳴くじゃない★ 面白いことを言ったよね?空の容器がなぁに?もう一度聞かせてちょうだい★」

 くすくすと笑いながらアンジェリカは言った。彼女がそう言うと今度はラーニーの左腕に激痛が走る。痛みの先にはやはりアイスピックが突き立てられている。

「ねぇねぇ?気持ち良い?貴方は痛くされるの好き?」

 何を言っているんだこの女は。ラーニーは激しい痛みと流れ出る血によって段々と霞んでいく視界に小さな悪魔の姿を捉えたままぼんやりと考えた。

 やはり殺されるのか。自分達が凋落を迎える瞬間を楽しむと言っていた以上、もう少しの間は手を出さないだろうと思っていたが甘い考えだったらしい。銃で撃ったのはやり過ぎだったようだ。

「私は知ってる。人はね、そんな程度では死なないんだよ?でももうちょっとだけ、さくっ!とやっちゃえば貴方の命は消える。」

 アンジェリカは血まみれの姿ながら今や自分の脚でしっかりと立ち上がり、ゆっくり、ゆっくり、ゆらゆらとラーニーの元へと近付いてきた。

「気が変わっちゃった。さっき存外に良い声を聞かせてくれたから、私もっと貴方の声を聴きたくなっちゃったじゃない?この昂り、火照り。責任を持って鎮めてちょうだぃ?」

 アスターヒューの瞳が美しく輝く見開いた目で倒れ込んだラーニーを見下すように見つめたままアンジェリカは尚も一歩一歩近付いてくる。

 そしてどこからともなく先の長いアイスピックを取り出し左手に持つとにやりとした表情を浮かべた。


 寒い。ラーニーは流れ出る血だまりの中で自分の体が猛烈な寒さを感じていることに気付いた。

 もはや指先ひとつを動かすこともままならなくなっている。致命傷では無いが、自身に迫ってきている彼女からもう一刺しされればそれで確実に死を迎えるだろう。

 自分はここで終わるのか。

 父から引き継いだ財団を守ることも出来ず、長年連れ添った “たった一人の妹” の帰る場所を守ることも出来ずここで果てるのか。

 ここでこのまま自分が死ぬことになれば、次にこの女が矛先を向けるのは間違いなくシャーロットだ。そんなことはさせたくない。彼女の幸せも、帰るべき場所も自分が守り続けると決めていた。

 悪魔が持ち込んだ薬によって財団が世界的に立場を危うくしかねないということが分かってからはそのことだけに注力してきた。

 イベリス、アルビジア…この場所を守る為なら機構の少女だろうと、どこから来たのか分からぬ得体の知れない少女だろうと、民衆を扇動する偶像としてふさわしい素養を持つ彼女達を取り込むことだって躊躇いはなかった。

 しかし、どうやら努力は実らなかったらしい。根の張っていない植物は長く生きられない。自分がしてきたことはグリーンゴッドと同じように上辺だけの理想と美しさを見せようとした紛い物であったのだ。

 悔しいことだが受け入れるしかないのだろう。ラーニーは薄れゆく意識の中で覚悟を決めようとした。


 だが、霞みゆく視界に次に映ったのは悪魔のような少女の姿ではなかった。

 どこからともなく見慣れた女性の姿が現れる。

 ホワイトアッシュブロンドのロングヘアを首の後ろで1つに束ね、さらに逆V字のツインテールに結ぶという特徴的な髪型。

 遠い昔に自分が渡した青いリボンを結んだ女性は両手を広げて小さな悪魔の前に立ちはだかった。

 その姿を捉えたアンジェリカが言う。

「あら?ロティー。よくここに入って来られたわね。執務室とは別の扉からこんにちは!ご主人様のピンチに駆けつける使用人のか・が・み★ 偉い偉い!」

「この家で、セルフェイスの名を持つのは彼だけでは無いわ。」

 そう、財団の中でセルフェイスの名を持つものしか通り抜けられない扉を潜る権利を持つのはラーニーだけではない。

 アンジェリカの前で立ち塞がったシャーロットは毅然とした態度で言った。

 そんな彼女を嘲笑うかのようにアンジェリカは言う。

「それで、どうするの?早くしないと彼、死んじゃうよ?失血ぅは致命傷だもんね。」

 試すような物言いで言い放ったアンジェリカに対しラーニーは頭の中で思う。

『騙されるな、ロティー。このまま放っておいてもしばらく僕が死ぬことは無い。』

 その思いを感じ取ったかのようにシャーロットは言う。

「嘘ね。彼が死なないというのは貴女がついさっき言った言葉のはずよ。その言葉だけは私も同意するわ。それに、 “愛すらも知らない貴女程度の女” に殺されるほど私の兄はやわではないの。」

「へぇ…」

 アンジェリカがそう言った直後、周囲の空気が一瞬揺れるような感覚をシャーロットのが襲う。

 そして彼女が右手をぱちんっと鳴らすと同時にシャーロットは悲鳴を上げた。

 彼女の右腕には先程まで存在していなかったはずのアイスピックが突き立てられており、真っ赤な血が床へと滴り落ちている。

「兄妹揃って憐れなんだから。ところでロティー?貴女は痛いのは好き?」アンジェリカはそう言うと再び指を鳴らす。

「ぎゃっ!」シャーロットがさらに悲鳴を上げると同時に今度は左脚にアイスピックが突き立てられた。

「そーれもう1本★」アンジェリカがさらに言うと次は右足にアイスピックが突き立てられ、ついにシャーロットは自力で立つことが出来なくなり床へとへたり込んだ。

「体中を駆け巡る痛みは、今自分が生きているっていう生の実感を与えてくれるんだよねー★私は好きよ?だから、貴女にももっとプレゼントしたいな。」

 アンジェリカがくすくすと笑うと、地面に崩れ落ちたシャーロットの周囲で空間が歪み始めた。

 そして次第に大きくなった3つの歪みの中から、それぞれ青白い腕のようなものが伸びると、シャーロットの両腕と首をがっちりと掴んで無理矢理に宙へと引き上げた。

 彼女の細くか弱い腕と首は、青白い腕にへし折られそうなほどにきつく掴まれ、身動きの取れないシャーロットは苦しそうに嗚咽を漏らす。

 さらに足元からも2本の青白い腕が伸び、今度は宙づりになっているシャーロットの両足首をきつく掴んだ。

「格好よく登場しておいてなんて無様。ご主人様の面前で醜態を晒す趣味でもあったのかと疑いたくなっちゃう♥ このまま上下左右に引き裂いても良いけど…それだと面白くないもんね。まぁ、それでも呼吸くらいはできるでしょう?立ちなさい。彼を守るんだもんね?お望み通り、投擲が彼に当たらないように貴女を的にしてあ・げ・る★」

 その後ろでラーニーが怒気をはらんだ表情でもはや動くはずのなかった手を伸ばしながら懸命に言う。

「やめろ…!」

「あらあらぁ~★美しい愛、それはラヴ♥ 求めるほどに尽きて、凍えるほどに満たされる。必死に “帰る場所” を守ろうとした兄と、必死に “救ってくれた人” を守ろうとした妹。でも悲しいかな、貴方達はお互いを想いながらも互いが見えていなかった。恋は盲目、愛は瞠目なんて言うけれど、貴方達の愛は盲目そのもの。ならいっそのこと、この場で命運尽きて永遠に盲目のままでいた方が幸せなのかも?それなら、私がそのお手伝いをしてあげちゃう★ あはは、あははははははは!」

 高笑いをしながらゆらゆらと確実にアンジェリカはシャーロットとラーニーへ近付く。

 天使のような名を持つ小さな悪魔を眼前にした2人はどうすることも出来ずに彼女を睨みつけながらその場で最期の時を待つしかなかった。


 アンジェリカはシャーロットの横を通り抜ける時、まるでゴミでも見るかのような蔑んだ視線を彼女へと送った。

 吊るし上げられたシャーロットは腕を伸ばせる限り伸ばしてアンジェリカを掴んで制止しようとしたが、青白い腕にがっちりと掴まれた腕はよじることしか叶わない。

 そしてアンジェリカはラーニーの目の前に辿り着くと、もう一度シャーロットへ目配せしながら左手に持ったアイスピックを振りかざし、歪んだ笑みを浮かべるのだった。


                 * * *


「銃声!?」ルーカスが言う。

 代表執務室でセキュリティ解除の為に作業を続けるマークתの一同に緊迫した空気が流れる。

 つい今しがたラーニーが逃げ込んだ隣の部屋から拳銃らしき発砲音が轟いたのだ。

「隣の部屋には彼しかいないはずだが…何が起きたんだ。」ジョシュアが言った。

 するとイベリスが歩み寄って言う。「考えられる理由はおそらくひとつよ。この中にアンジェリカが居る。」

「そういえば昨日の夜、玲那斗とイベリスはあの子と遭遇したんだったな。」解析作業を続けながらルーカスが言った。

「アンジェリカはグリーンゴッドを財団に持ち込んだのは自分だと言った。薬の副作用も理解した上で財団に薬品を使わせたんだ。」玲那斗が返事をした。

「目的は?」ジョシュアが言う。

「最終的に財団が凋落する瞬間を見たいと言っていました。その過程で機構と財団、そしてアルビジア達が争う構図になれば良いと。」

「結果的に目標は達成しているわけか。見た目によらず策士だな。」ルーカスが言った。

「何を考えているのか掴みどころがないと言った方が正しいわ。それよりルーカス、あの子が隣の部屋にいるとしたら彼が危険よ。」心配そうな表情でイベリスが言う。

「扉を早く開けろってこったな。だが厄介なことにセキュリティの突破に手間取ってる。セキュリティ解除コードを解読する上で無限ループを発生させるような罠までご丁寧に仕掛けられているときた。思った以上に厄介だ。」

「どれくらいかかりそう?」

「さっきは5分と言ったがその倍はかかりそうだ。奴さん、どうやら財団がデータを保管しているデータベースとの接続を遮断したらしい。グリーンゴッドのデータも消えたのではなくてアクセス権がはく奪された状態になっていた。膨大なデータを削除するより通信を遮断する方が早いからな。既にイベリスが接続を確立したデータベースにある情報にアクセスして解除コードを特定するなら簡単な話だが、一から解析するとなればプロヴィデンスを用いても若干時間がかかる。」

「無理を言う、急いでくれ。」ジョシュアが申し訳なさそうにルーカスへ言った。

「過去最高速度で解析中です。ハッキングの世界大会であれば優勝出来るほどに。こうなったら物理的に破壊した方が早そうな気もしますが。壊れるのか?これ。」ルーカスは目の前の重厚な造りの扉を見て言った。

 玲那斗はイベリスに目配せをする。その視線を感じ取ったイベリスは首を横に振った。

「私の力ではおそらく厳しいわね。」

「同感だ。光を操るという能力の性質では、物理的に重厚な質量を持った物体を移動させたり破壊したりするなんていう直接的な干渉は難しい。光には質量が無いからな。」イベリスが体感的に感じ取ったイメージをルーカスは言葉に直した。

「それが出来るとすれば…」

 ルーカスがそこまで言った時、執務室にそれまでいなかったはずの少女の声が響いた。

「私が引き受けます。その扉を破壊すれば良いのですね?」

 マークתの一同が執務室本来の扉の方向へ目を向けると、そこにはアルビジアとジェイソン、そしてサミュエルの姿があった。

 サミュエルが言う。「皆様の力をお借し頂ければと存じます。ラーニー様、加えておそらくはシャーロット様も今そちらの部屋にいらっしゃるでしょう。そしてあの悪魔のような少女も。」

「アンジェリカという少女のことをご存知で?」ジョシュアが言う。

「それはもう。彼女が財団にもたらした災厄は地獄そのものです。先程、ラーニー様が財団の管理するクラウドデータベースへのアクセス権を制限し、全システムの接続を遮断する直前に彼女の姿を監視カメラが捉えておりました。慌ててこちらに向かう途中、モラレス様とヴァルヴェルデ様にお会いしこちらへご案内しました。」

 サミュエルが自分達がここにいる経緯を述べる最中にアルビジアは既に扉の前まで歩み寄ってきていた。

 その少し後方でジェイソンは立ち止まり、じっとアルビジアのこれからやろうとしていることに注視している。

 アルビジアは扉に手を触れると、ふと後ろを振り返りジェイソンに向かって言った。

「お爺様、これから私が行うことを見られても、どうか私のことを嫌いにならないで下さい。」

 彼女が不安そうな声で言う言葉を聞き届けたジェイソンは言う。「なるものか。お前を嫌いになんて、なれるものか。何があったとしても。何をしたとしてもだ。」

 アルビジアはジェイソンの返事を聞き届けると扉に向き直る。いつもと変わらず、表情こそ変化がないものの、先程まで見せていたような不安そうな面持ちは既にそこには無い。


 全員の視線が彼女に集まる。

 イベリスも彼女に視線を向ける。先程、彼女がジェイソンに発した『嫌いにならないで』という言葉がイベリスの心には深く突き刺さった。

 明らかに今を生きる人々とは違う力を持ち、尽きることのない寿命を持つ自分達は一言で言えば怪物である。化物と言い換えても良い。

 どれだけ見た目が美しい少女の姿であったとしても、その本質はつまるところそれだ。この世のものならざる怪異。

 だからこそ、心の底からそのことを自覚している自分達にとっては不安で仕方がない。


 もしも、大切だと思う人に嫌われてしまったら。拒絶されてしまったら。


 ミクロネシアの地で自身が玲那斗に問うたことと同じことをアルビジアはジェイソンに問い掛けた。

 そのことに対して『大丈夫』だと言ってくれる言葉がどれだけ心強いことか。

 今の彼女もきっと同じ気持ちなのだろう。あの時の自分と。


 イベリスが彼女の心に思いを馳せて見つめる最中、アルビジアの瞳が淡く美しい緑色に輝く。

 やがて彼女の周りの空気が震えだし、室内ではまずありえないほどの強風が吹き抜けた。

 行き場を失った風が執務室の窓を次々と破壊していく。誰もが視線を逸らすことなく彼女を見つめる中、ついにその現象は起きる。


 この場にいる誰もが知っている現象。

 セルフェイス財団の特別管理区域を荒らし、管制塔を破壊しつくした悪夢のような力。

 ダストデビルが巻き起こり、セキュリティで厳重にロックがかけられた鋼鉄製の扉を風の刃が切り裂いた。



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