第10節 -叡智の毒-

 4月21日の朝、東の空から再び太陽が昇って数時間後。マークתの4人は身支度と朝食を終え、今日の調査に向けての準備と資材の搬入を行っていた。

 昨夜の夕食前に話し合った調査計画を元に、いよいよ今日から本格的な自然の異常再生に関する調査を開始する。


 輸送車に最後の資材を搬入し終えた玲那斗が言った。「よし、これで準備万端だな。」

「みんなのお楽しみは忘れてないか?」ルーカスが言う。

「安心しろ。みんなの…というよりお前のお楽しみは冷蔵スペースに大切に仕舞ったから。」

 それを聞いたルーカスは満面の笑みで “よくやった” とでもいうように玲那斗の背中を叩いた。

 マークת一行の、特にルーカスにとってのお楽しみとは昼休憩に食べるランチのことだ。

 昼食は機構の調査チームならどこでも持ち歩いている携行食糧で済ませようという話であったが、イベリスが気を利かせてみんなの分のサンドイッチを朝早くから用意してくれたのだ。

「お楽しみは夜からだと思っていたが、早速昼に楽しめそうだ。」隠しきれない喜びを浮かべたままルーカスは言った。よほどイベリスの手料理を食べるのが楽しみらしい。

 リナリア島調査を終えてから早2年経つが、思い返せばその期間にこうした機会は一度も無かった。つまりルーカスにとっては今日が彼女の手料理を食べる初めての日ということになるのだ。

「はしゃぐのは良いが、目的は忘れるなよ。大事なのは調査できちんとしたデータを得て事実を解析することだ。」

 先程から彼らの様子を眺めていたジョシュアがやれやれといった面持ちで釘を刺す。

「承知しています。しかし、人生には潤いが必要です。楽しみがあればこそ使命に専念できるというもの。いつも以上にはりきって行きますよ。」

「まぁ、ルーカスったら。そんなに期待されると少し緊張してしまうわね。味は悪くないと思うのだけれど。」

 目の前で大喜びする仲間を目にしたイベリスはやや苦笑しながら言った。ここまで期待されるとかえって不安になってしまう。

「とびきり美味しいに決まってる。」ルーカスはイベリスの目を見て言った。

 謎の自信に満ち溢れた彼の瞳を見たイベリスは一瞬呆気にとられたが、すぐに微笑みをかえした。

「貴方にとってそうだと良いのだけれど。」


 こうして全ての準備を終えた一行は順番に輸送車へと乗り込む。イベリスとルーカスが後部座席へと乗り込んだのを見て玲那斗がいう。

「今日は自分が運転します。」

「任せた。」自分が運転を担当しようと思っていたジョシュアは玲那斗の申し出を快く受け入れ信頼の言葉を口にした。

 間もなく、玲那斗は輸送車のメインモーターを始動させ、ゆっくりと車を発進させた。

 電気モーターを動力として走る輸送車は、大きめの図体の割にとても静かな出足で前に進み始める。こうして4人を乗せた車輌は2度目のダンジネス国立自然保護区へと向かうのであった。


                 * * *


 時計の針が午前8時を回った頃、財団支部の代表執務室には剣呑とした空気が張り詰めていた。

 ラーニーにとって、今自分の目の前にいる人物と話をする時はいつだってそうだ。 “この女” がやってくるときは細心の注意を払わなければならない。

 何が目的で、何がしたいのかは分からない。いや、理解しようとしてはならない。

 神出鬼没で気まぐれなピエロのようでいながら、その内側には確固たる信念のようなものが垣間見え、また常人には理解しがたい謎の情熱さえ感じ取ることが出来る。

 矛盾しているようで筋が通っている。きっとこの手の輩は人を痛めつけることに快楽を感じる質なのだろう。そこに費やす情熱の熱量が凄まじいのである。執念と言い換えても良い。

 決して理解しようとしてはならない。だからこそ、だ。 “この女” と対峙したときは “理解しない為に” 細心の注意を払わなければならない。

 魅惑、誘惑、蠱惑…人の精神を惑わす最上の容姿と声を持つ天使のような姿をしていながら、その中身は悪魔そのもの。デタラメのような存在。

 他者の心を読み、過去を視通し、未来を視通し今を律する。この世界には科学で解明できないことなど山ほど残されているが、きっと奴の存在そのものだってその内の “現象” のひとつに違いない。


 2度と来るなという前日の願いは脆くも崩れ去った。

 ラーニーは深く息を吸っていつも彼女へ問い掛ける言葉を今日も放つ。

「何をしに来た?」

 その言葉に彼女は笑う。愛くるしい天使のような笑顔。そう見えるだけの悪魔の微笑み。

 彼女はニコニコとした笑顔をまったく崩すことなく返事をした。

「朝の挨拶はー “おはよう” 、なんだぞ?珍しく明るい日になりそうだって言うのに、朝から不機嫌そうな顔するのは無し無しぃ☆」

 確かに外は明るい。月の半分以上が曇りというこの地において、珍しく太陽の光が地上へと降り注いでいる。昨日の曇天が嘘のように澄み渡った空が窓の向こうには広がっている。

「これは失敬。ごきげんよう。麗しの姫君、アンジェリカ。」

「ごきげんよう、ラーニー。そうそうー、清々しい挨拶は楽しい一日の始まりに欠かせないからねー☆」

 無邪気にはしゃぐ彼女を尻目にラーニーは淡々と言葉を紡ぐ。不用意なことは言わないように気を配りながら。

「それで?もう一度尋ねるが何の用だ?」

「別にぃ?何か用事があって訪ねて来たわけじゃないんだなー、これが!でも、無性に誰かとお話がしたくなる時って無い?それだよ、それ!」

 1人で言って1人で納得している少女から視線を背けながらラーニーは軽く溜め息を吐いた。

 確かにそういう時もあるかもしれない。しかし、そんな時に限って話す相手にお前など選んだりするものか。内心で悪態をつきながらも努めて冷静に返事をした。

「特別管理区域でのグリーンゴッドの運用はうまくいっている。少なくとも “データ上は” そういうことになっている。無から有を…とでも言うべきか、何も無かったところに新緑は芽吹き、元々の命ある植物に対しても劇的な成長促進作用と品質改善作用が発揮されているようだ。いや、元々命が “あった” 植物に対してもと言うべきかな。」

「約束された永遠。素敵じゃない?命あるものには全て等しく終わりがある。それを覆した先に “あれ” は存在している。私ってば詩人ー☆ それはそうと、グリーンゴッドがある限り、貴方達セルフェイス財団は永遠の繁栄を約束されたようなものでしょう?」

 変わらぬ笑みを浮かべているが、それはある意味では狂気そのものだ。彼女は最後に重要な一言を付け加えることを忘れている。

 〈自分の気が変わらない内は…〉

 アンジェリカの言葉を言い変えればこうだ。


 “生かすも殺すも自分次第”


 グリーンゴッドをこの瞬間にも自分達から取り上げてしまえば財団は路頭に迷うことになるし、あの薬品の抱える問題が全世界に露呈した瞬間にも財団は終わりを迎える。

 財団が繁栄の時を過ごせるのは、薬品の効能が世界中で脚光を浴びている間に限ったこととなってしまった。

 今、長い年月を経て作り上げてきた財団という組織の命運がこの小さな少女の掌の上にあるといっても過言ではない。

 もはやセルフェイス財団は牙を抜かれた虎に等しい。自ら狩りをすることなく、与えられる餌で命を食いつなぐことしか出来なくなってしまった憐れなる存在。

 もしかすると、この女は敢えてそれを自分に再確認させる為だけにこの場に訪れたのではないだろうか。

 他者の憤りや不幸を自らの幸福と捉えられるようなタイプだ。可能性は否定できない。


 緊張感だけが漂うばかりで、何の生産性もなく意味も為さない会話。

 この時間にラーニーが苦痛を抱き始めていたその時、アンジェリカが言った。

「とーこーろーでー。昨日のお話の続きなんだけどね。貴方は結局のところイベリスをどうしたいと思っているの?」

「どうしたいか、だと?」質問の意味が呑み込めずに聞き返す。

 彼女の問い掛けと言うのはいつも抽象的だ。脈略も無く、前後も無くいきなり人の心の内にある核心だけを射貫くような物言いである。

「そうそう。実際に彼女と会ってみて相当に気に入っているようだから聞いてみただけだよ?もしかして機構から引き抜きたいだなんて思っているんじゃないかと思って。何しろ彼女からは…貴方が大切に思っていたお母様と同じ気配が感じられるのだものね?」

 ラーニーは奥歯を噛み締めた。昨日と同じ話題を向けてくるアンジェリカに対して怒りを感じはしたが、その感情を押しとどめながら言った。

「彼女ともう一度じっくり会話をしてみたいと思っていることは事実だ。機構の調査が進めばそういった機会も訪れるかもしれない。」

「お話をしたい、ねぇ?」

 一瞬だけ振り返り、後ろを注意するように視線を向けたアンジェリカはすぐにラーニーを見据え直し、ニヤニヤとした表情のまま歩み寄った。そして彼の耳元へ顔を思いっきり寄せると、喘ぎにも似た甘ったるい声でそっと囁いた。

「本当は “欲しい” と思っている癖に♡」そう言うとすぐに振り返り先程の場所まで戻る。

 何も言い返すこともせず、ただじっと自分を見つめるラーニーを目をくれることもなくアンジェリカは言った。

「お話、また出来ると良いね☆ それじゃ、私はそろそろ退散退散ー。ばいばーい☆」

 言葉を言い終わるか否かというタイミングで彼女は紫色の煙を散らすようにその場から姿を消したのだった。



 一方、代表執務室のすぐ傍の廊下ではシャーロットが壁際に寄って耳を澄ませていた。

 アンジェリカと会話をするラーニーの身に危害が及んでいないか監視する意味を持って。

 先の会話の最後辺りは聞き取ることは出来なかったが、彼の身に危害が及んでいないことを確認したシャーロットはほっと胸を撫でおろした。

 だがその時、その場にいるはずのない少女の囁き声が唐突に耳元の後ろから聞こえてきた。

「盗み聞きするのはー、めっ!なんだよ?」

 シャーロットはとっさに身をよじって後ろを振り返る。するとそこには目一杯背伸びをした体勢のアンジェリカの姿があった。

「貴女、気付いていたのね?」

「もちろん。私の前に隠し事や秘密なんて何の意味もないんだぞ?」あっさりと言ってのける彼女にシャーロットは戦慄した。アンジェリカは話を続ける。

「それよりー、どうして盗み聞きなんて?そんなに “私と彼が2人きりになる” のが気になったのかにゃー?ふふふふふふ…!」

 猫の手をまねたポーズを取りながら、甘ったるい声で挑発する彼女にシャーロットは素直に言い返す。

「貴女が危険な存在だからよ。」

 真剣且つ冷淡な眼差しを向けて言うシャーロットを見つめてアンジェリカは無邪気に笑いながら言った。

「やぁだー☆こわぁーい☆」

 冷やかすような、嘲笑するような物言いにシャーロットは怒りをぶつけそうになったが財団の置かれた立場や彼の置かれた立場を考えるとこれ以上は何も言い返せなかった。

「うふふ☆ きちんと立場はわきまえているみたいじゃない、子猫ちゃん?狼みたいだった頃は過去ということね。そういうの、悪くないと思うわ。さてさてー、あんまり長いするのも申し訳ないしー、今度こそ退散しちゃおうかな。それじゃ、ばいばーい♡」

 シャーロットに冷たい視線を浴びせられたアンジェリカは不敵な笑みで応えた後、再び煙が霧散するように一瞬でその場から姿を消したのだった。


                 * * *


 昨日も目にした風景が周囲を流れていく。

 これから通り抜ける道路の先に広がる景色は、自然の衰退というものを人に見せつけて来るかのごとく佇んでいる。

 緑に覆われているように見える大地。その先に繋がる文字通りの荒野。

 ダンジネス国立自然保護区という目的地へと車を走らせる中、後部座席でルーカスがふと言った。

「荒野に新緑を…撒くだけで自然が蘇る、か。本当、凄まじい力をもった薬品だな。」

 彼の視線は遠くに見え始めた財団の特別管理区域に向けられている。付近の荒野とは一線を画す新緑で覆われた区画だ。

 まだ遥か遠くにしか目視出来ないが、珍しく晴天となった今日は緑の色合いが一層輝きを増しているように見える。

「グリーンゴッドの試験運用は世界中で進められている。使用される範囲が拡大すれば、失われた地球の緑も再び豊かなものになるのだろう。一説では砂漠化した地域の緑化まで理論上は可能らしい。」玲那斗が答える。

「それで豊かな自然を取り戻すことが出来るのであれば素敵なことね。人々の叡智はついにそういうところにまで辿り着いたということかしら。」感慨深そうにイベリスは言った。

 しかし、ジョシュアだけはやや浮かない表情を浮かべて言う。「どうかな。」

「そういえば昨夜、気になることがあるとおっしゃっていましたが、隊長は何か感じられることでも?」ルーカスが言った。

「あの薬品が自然環境の希望であるということは否定しない。だが、そうだな。感じるものが無いと言えば嘘になる。ところでお前達、レイチェル・カーソン著作の『沈黙の春』という本を読んだことはあるか?」

「いいえ、自分は読んだことがありません。」ルーカスが言って玲那斗も同意した。イベリスも静かに首を横に振った。

「プロヴィデンスのデータベースに登録がある。ヘルメスから閲覧できるから過去の歴史を知る一環として読んでみると良い。」

「どんな内容の本なの?」イベリスが問う。

「自然と人と農薬に関する話でな、特にDDTにまつわる話を中心にまとめられた本だ。農薬による環境汚染、生態系の破壊について詳しくまとめられ、細部にわたって著者の意見が述べられている。」

「DDT?」ジョシュアの答えにイベリスは言った。聞き慣れない言葉に戸惑いの表情を浮かべている。

「ジクロロジフェニルトリクロロエタン。正確な名称ではないですが、そう呼ばれる農薬の一種ですね。超強力な殺虫作用があり、また人体には無害だと信じられていたことからアメリカを中心として世界各国で過去大量に使用されてきました。現在では製造、使用ともに禁止としている国が多数あります。」ルーカスが言う。

「信じられていた、ということは実害もあるのね?」

「もちろん。直接摂取すれば猛毒だ。急性毒症といって頭痛やめまい、吐き気に加えて症状が酷いと痙攣や意識喪失の後に死に至る。致死量は人の体重1キログラムにつき、およそ16ミリグラム。俺や玲那斗は言うに及ばず、隊長ほどの体格でもほんの僅かな量を摂取するだけで命取りってな。」

「そう聞くと恐ろしいものね。」しんみりとした表情でイベリスは俯いた。

 2人の会話に頷いてジョシュアは続けた。「その通り。〈沈黙の春〉ではそんなDDTに限らずあらゆる薬品について言及されまとめられている。作物につく虫や植物に群がる虫を駆除する為にそれらの薬品を過剰に用いたことで、結果として現実に何が起きたのかが実例を交えて記載されている。彼女は薬品の使用に否定的な立場だったが、全てを廃止しろという主張の持ち主ではなかった。必要なところに必要な分だけ使用するに留め、環境そのものが本来持ちうる生態系を壊すようなことをしてはならないと著書で説いた。俺も彼女の意見には賛成だ。そうした薬品は必要量を超えて用いるべきではない。」

 ジョシュアが危惧していることを読み取った玲那斗が言う。「つまり隊長は例のグリーンゴッドにも同じことを言うべきだと?」

「個人的な意見に過ぎないことではあるが、財団の使用する薬品の効能を手放しで喜ぶには早計だと考えている。人は便利なものを見つけると無条件で手を伸ばしそれを大量に消費する癖がある。後にどんな弊害が起きるかの見極めを疎かにしてな。それは農薬に限ったことではない。だからこそ、グリーンゴッドに関してもまだ中立の立場から見極めを行った方が良いと思うんだ。そもそも、あの薬品は構造解析も何もされていない未知の薬品だろう?かつてDDTが人体に無害であると信じられていたのと同じことが言えないと立証されているわけではない。」

 アメリカの農業が盛んな地域出身のジョシュアだからこその考えだとルーカスも玲那斗も悟った。

 ジョシュアが言う。「地球あっての “人間” だ。〈沈黙の春〉に書かれていることは、地球が持つ自然を人の手で傲慢に作り替えようとすれば、とんでもないしっぺ返しに遭うという戒めだな。」

 その話を聞いてイベリスは納得した。〈沈黙〉という単語が妙に腑に落ちたのだ。

 先日から感じてた〈豊かであるのに静かすぎる〉という感覚を言葉にしてもらったようでもあった。

 1人で長く話したことを詫びるようにジョシュアは言う。

「すまない、個人的な話で話題が少し明後日の方向へ行ってしまった。俺達が調査すべきは例の区域の反対側。財団の薬品とは関係のない場所だ。 “何も行われていない” にも関わらず自然が異常再生したという区域。当然、何もないところからいきなりそんな現象が起きるなど有り得ない。普通はな。」

「何もしていない内からこういうのも難ですが、今回に関しても調査して有益なデータが集まるという保証はありません。あとは、99%の確実なデータがあっても1%の手掛かりが見つからなければ解決に導くことも困難かと。水をざるですくうような調査になるかもしれません。」ルーカスは依頼内容に対する自身の所感を交えながら答えた。

「そうなればそうなったときだ。調査した結果何も判明しなかったというデータは少なくとも確保できる。」


 ジョシュアとルーカスの会話を聞きながらイベリスは車外の景色に視線を移す。

 もうすぐ目的地に到着する。昨日、静かすぎると感じたあの大地に。

 そして同時にマーケットの駐車場で出会った彼女の姿を頭に思い浮かべた。もし、自分の思い違いでないなら彼女は…

 この予感は当たるのだろうか。複雑な思いを抱いたまま眼前に広がる〈沈黙の大地〉をじっと見据えた。



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