第11節 -追憶の景色-

 太陽が南の空で輝きを増す頃、午前中の職務のほとんどを終えたシャーロットはラーニーの昼食に伴う給仕をする為にダイニングへと向かっていた。

 しかし、廊下の角を曲がった先にいた人物を見て内心で大きな溜息を吐くことになる。

「はぁい☆ごきげんうるわしゅうー!ロティー?」

 どんな嫌がらせなのだろうか。今最も出会いたくない人物を目の前にしたシャーロットは眉をひそめた。

 普段1日の中で何度も遭遇することはほとんどないのだが、どうやら今日は例外らしい。僅か数時間前に会ったばかりだというのに、このタイミングでまた出会うことになろうとは。

 失望の念を隠さずに深い溜め息を重ねて返事をする。

「今日はよく会うわね?それと、常々言おうかと思っていたのだけれど、貴女にその名前で呼ばれる筋合いはないわ。」

「ありゃー、そんなに嫌われているなんて。ぴえん。でぇもー、お仕事中の貴女が “客人” に対してその口の利き方をするのは、めっ!なんだよ?これ、朝言い忘れたこと!サムの指導不足が疑われるにゃーっはっはっはっは!」

 手に持った可愛らしいライオンのかばんを持ち上げ、半分顔を隠しながら甘ったるい声で彼女は言う。

「まっ、どうあっても私は気にしないけどねー?」

 言葉通り、何一つ気にするそぶりを見せずにアンジェリカは言った。

 目の前ではしゃぐ少女に朝と変わらない冷たい視線を浴びせながら、シャーロットはラーニーがいつも彼女に声掛けする際とまったく同じ言葉を贈る。

「それで?私に何の用かしら?アンジェリカ。」

 問い掛けを聞いた彼女はふっと視線をシャーロットへ向け、やや膨れ気味の表情を浮かべて言う。

「もぅ!貴方達ってば、それしか私に言うことが無いの?必要最低限のこと以外絶対話さないマン的な対応のし・か・た!おこ、だよ?」

 シャーロットは彼女が何を言っているのか一部理解に苦しんだが、とりあえず素っ気ない態度が気に入らなかったらしい。

 ここで不機嫌になられても面倒だ。おそらく後の業務にも響く。

 千歩譲って少し彼女のペースに合わせることにする。

「失礼。効率こそが最大の利益と、少し業務で力み過ぎていたのかしらね。貴女が客人かどうかはさておき、少しばかり礼を失してしまっていたようだわ。ごめんなさい。」

 敢えて執事見習いとしてではなく1人の人としての言葉で彼女に言う。それが気に入ったのか、アンジェリカは普段はあまり見せないような微笑みを見せて返事をした。

「少し?でもまぁ…そうね。確かに気負いは良くないと思う。スマイルスマイルぅー☆ あははははは☆」


 結局何を話したいのかは未だに分からないままだ。いつものように非生産的な話に終始し、無駄に時間が取られることにシャーロットが内心で苛立ちを募らせようとしていたその時、意外なことを彼女は問い掛けて来た。

「ところで、ねぇ?ロティー?貴女は今の彼についてどう思っているのかしら?もちろん、ラーニーのことよ。」

「彼をどう思うかですって?」予想外の問いに返答が浮かばず、つい質問をオウム返ししてしまった。表情は変えていないつもりだが、困惑を読み取ったのかアンジェリカは追撃をするように質問を続けた。

「えぇ、言葉通りの意味。他意はない。1人の人間としての彼、そして財団当主としての彼。貴女の口から素直な言葉が聞きたいなーなんて思ったり?」

 ニコニコしながらアンジェリカは言う。返答に困ってしまったシャーロットは、まず自分の答えを言うよりも先に彼女の真意を問おうとした。

「てっきり、貴女はそういうことには興味を持たないのかと思っていたわ。個人が人に抱く感情が知りたいだなんて、どういう風の吹き回しかしら?」

「うん。私にとって大事なのは恋とか愛とかいうよく分からない感情じゃなくて、自分が楽しいかどうかだからね。だからね、だからね?こういうこと聞いても意味ないっていうのは分かるんだけどさー☆ 興味本位?ってやつだねー、うふふ。ただの思い付き☆」

 恋だの愛だのという言葉が出てくる辺り、しっかりと自分の気持ちを知った上での質問らしい。

 意図した質問なのかはさておき、彼女らしい意地の悪さが垣間見える。

「尊敬に値するお方だと思っているわ。セルフェイス家という家柄が無くても、1人の人としてお仕えするに値する人物だと。だからこそ私はこうした道を選んでいるの。今も昔も変わっていないわよ。それで満足?」

「うんうん、貴女は森を見ず木を見るタイプだもんね。でも、そっかー。それじゃぁ…昨日からイベリスの方にばかり視線を向けている今の彼を見て…どう思っているのかにゃー?」

 この時点でアンジェリカの質問の本質が理解出来たシャーロットは憤りを覚えた。なるほど、人の感情を弄んで自身の楽しみとして扱う…その為なら労を惜しまないという彼女自身が言っていた話は真実らしい。

「随分と意地悪な質問ね。そもそも、彼らを呼ぶようにラーニーへ働きかけたのは貴女だって聞いたけれど、実の所そこには私に対する悪意でも含まれていたのかしら。彼女の存在が調査に対する特別な意味をもつかもしれないとまで言ったそうじゃない。」

「悪意?まっさかー。世界七大怪異のひとつを解決しちゃったチームだよ?あの人たちが調査に対して特別な意味を持つかもーっていうお話は確かにしたけれど、彼がその内の1人であるイベリスに対してどういう態度をとるかなんて私にはわかりっこないじゃない?」相も変わらず笑顔でアンジェリカは言う。

「随分と彼らについて詳しいのね?ここに訪れる前から知っていたということは、貴女もしかしてイグレシアスさんともお知り合いなのかしら?」

「どうだかねー☆」

 アンジェリカは満面の笑みで答えをはぐらかす。

「まぁ良いわ。それより、彼とは昨夜そのことについて話をしているの。今回のことで彼に対する何かが変わるわけでもないし、機構の彼女に対してはこれからも財団にとっての大切な客人の1人として接していくつもりよ。」

「出来るかなー? “嫉妬” ってそう簡単に克服できるものではないって思うんだけどー。私にはよくわからないんだけどね?」

「嫉妬ですって?」

「うふふふふ☆ ただの冗談☆ イングリッシュジョーク!ロティーってば本当に真面目なのね?もう少し大胆に振舞ってみても良いんじゃないかしら?」シャーロットの回答に目を丸くしつつ、途中から呆れた様子を見せたアンジェリカは初めて笑顔を崩し言った。

 他人の事情に首を突っ込まれているような不快感を覚えたシャーロットは突き放すように言う。「随分と熱が込められたブラックジョークだこと。余計なお世話よ。」

「はいはーい☆ 気に障ったなら許して。とても面白かったから、つい…ねぇ?」彼女はゆっくりとシャーロットへと歩み寄りながら言った。

 最後はすぐ傍で囁くように、甘ったるい声で、ねっとりと。

「そういう本音はあまり言わない方が良いと思うわよ。」

「またまたー。私がどういう性格か分かってるんだから隠す必要もないじゃない☆ 包み隠さず言葉に “してあげている” だけ褒めてほしいくらい。」

 これだ。シャーロットは先程から内心で思っていたことを見透かされているような感覚を覚えた。

 他人の心を読み取った上で会話をしているような不気味さ。脈略もないところから思いもよらない結論の話でいきなり畳みかけてくる不快さ。

 この女はわざわざそういう話の振り方をしている。おそらく、ただふざけているわけではない。全ての状況を理解した上で〈自身が一番楽しめるような筋書き〉へ持っていこうとしているのだ。

 相手を貶めることに対する情熱の注ぎ方は純粋に畏怖の念を感じずにはいられない。

 無邪気で隙だらけのように見えて、その実は僅かな隙も無い。愚者を演じる俊傑。まさにそういった類の人間なのだ。

 アンジェリカはひとしきり “シャーロットで” 遊んだ後、再び満面の笑みを浮かべて無邪気に言う。

「ま、いっかー。貴女の考えていることは分かったし、私は退散しよっかなー☆それじゃぁねー、ばいばーい♡」

 そう言うと、いつもならどこへともなく煙のように消え去る彼女だが、今日は珍しく自分の足で廊下の向こう側へと歩き去って行ったのだった。


                 * * *


 正午過ぎ。ダンジネス国立自然保護区で午前中の調査を終えたマークתの4人はこれから昼食休憩をとろうというところである。

 待ちに待った時間がやってきたとばかりにルーカスは目を輝かせ、イベリスの作ったサンドイッチの入った大きめのランチボックスを冷蔵スペースから持ってきた。

「昼だ!お楽しみの時間がいよいよ始まりだな。」

「なんだか妙に緊張するわね。」ルーカスのはしゃぎ具合を見たイベリスが言う。

 昼食は輸送車の中の座席配置を変えて行う。いわゆるシートアレンジというものだ。

 対面式に配置し直した座席にジョシュアとルーカスが座り、その対面にイベリスと玲那斗が座る。

 持ってきた包みを開ける前にイベリスは言う。

「あ、待って。温かいお茶もあるから。先に用意するわね。」

 イベリスはそう言うと保温機能がついた水筒から温かい紅茶を全員分用意してそれぞれに手渡した。「砂糖とミルクはお好みでね。」

「ありがとう。」玲那斗が礼を言う。続けてルーカスが言う。

「サンドイッチと紅茶の組み合わせか。実にイギリスらしいナイスな組み合わせだ。」

 飲み物を全員に渡した後、ルーカスが先陣を切ってランチボックスの封を開封した。

 中には色とりどりの具材がサンドされたサンドイッチが綺麗に並べられている。

「ほぉー!美味そうだな!」封を切った本人が真っ先に感嘆の言葉を言う。

 イベリスの作ったサンドイッチは食パンに野菜や卵などの具材をサンドして半分に切ったシンプルなもので、それぞれが食べやすいようにクッキングシートで丁寧に包まれている。

 おそらく半分に切る前にシートで全体をくるんでから切ったのだろう。そうすることでサンドイッチ同士がくっつくこともなく手に取りやすくなるのだ。

 見た目の美しさもさることながら、中の具材が散らばらないように、且つ食べやすいようにというイベリスの細やかな気遣いが感じられる逸品だ。

「車に冷蔵庫があるって聞いたから中の具材を色々と変えてみたの。おかず系もデザート系もあるからたくさん食べて。」

 やや緊張した面持ちの笑顔ではあったが、彼女の合図で全員がサンドイッチに手を伸ばす。

 そして恒例の『いただきます』という挨拶の後に全員が一斉に食べ始めた。

 食べ始めてからというもの、誰もが言葉なく黙々とひたすら食べ続ける。


 無言が続く。何も言わずに食事を進める3人を見たイベリスは不安になって言った。


「あ、あの。味はどうかしら?」

 するとルーカスがしみじみと言った様子で答える。

「いやぁ、人は本当に美味しいものを食べた時は無言になるって言うが、あれは本当だな。今まで食べてきたサンドイッチの中で一番美味い。」

「あぁ、最高の味だ。不思議となんだか懐かしいような気がする。」ジョシュアも続けて言う。

「そう、気に入ってもらえて嬉しいわ。」安堵した表情でイベリスは言った。

 その隣でやはり無言でひたすらサンドイッチを頬張り続ける玲那斗を見てルーカスが言う。

「まーた、真っ先に感想を言わなきゃいけないお方が無言とは!中尉殿!」

「ん?」その言葉でようやく食べる手を止めて玲那斗が視線を上げる。

「うふふ。良いのよ、ルーカス。玲那斗は表情で分かるから。でも…」

 彼女がそこで意味深に言葉を区切ると玲那斗はイベリスへと視線を向けた。

「今日くらいは味の感想を言ってくれても良いのよ?」

 悪戯な笑みを浮かべて言ったイベリスに玲那斗は言う。「なかなか腕を上げたじゃないか。1年半前まで卵を焦がしていたのが嘘のようだ。」

「まぁ、玲那斗ったら。いつも以上に美味しそうに食べている癖に。そんなことを言っていると、今日の夕食は貴方だけ味付けセルフのマッシュポテトにするわよ。飲み物も出しませんからね。」

「へっ?いやぁ、美味いものを食べると言葉が出ないっていうのは本当だよな、ルーカス。凄く美味しい。なっ?」

 玲那斗の言葉にルーカスは “知らない” という風なおどけた表情をしつつ、敢えて視線を逸らしながら再びサンドイッチを頬張り始め、ジョシュアも右に倣って目を逸らす。

「俺はチキンサンドを食べてから感想を伝えようと思っていたんだ。だからこのチキンサンドは俺が貰っていくぞ。」

 一つ目を食べ終わった玲那斗が二つ目に手を伸ばし掛けた時、ルーカスがすかさず制止する。

「あ、待て!それは次に俺が狙っていたチキンサンドだ。イベリスの手料理をいつも食べてるなら、今日くらいは親友に譲るべきだと思うぞ。」

「彼女の焼く照り焼きチキンの美味さは譲れないものがあるんだよ。」

「その美味を友人にも味合わせたいという気持ちは無いのか!?」

 互いに伸ばした手に力を込めつつルーカスと玲那斗が言い合う。

「もう!きちんと人数分あるから喧嘩しないの!その下にまだ包みがあるでしょう?」

 イベリスが言うや否や、すぐにジョシュアが手を伸ばしながら言う。

「そうか、ではこのチキンサンドは遠慮なく俺が頂こう。」

 そしていがみ合う2人の手の下からチキンサンドをかっさらっていった。

「あ、大人げない!」ルーカスが言う。するとジョシュアは勝利の笑みを湛えて言った。

「まずはリーダーから頂くのが礼儀というものだ。」

「職権乱用!」玲那斗が応戦する。

「もう、まだあるって言っているのに。」そう言いながらも、イベリスは今日一番の笑みを浮かべていた。


 玲那斗とルーカスがチキンサンドを手に取った頃、先に一口食べたジョシュアが言った。

「美味いな。冷蔵したチキンだからもっと固くなってるかと思ったが。そう言えば照り焼き、ということはこのチキンの味付けは玲那斗から教わったものか?」

「えぇ。『貴方の故郷の料理を教えて』と言ったら色々教えてくれたのよ。照り焼きもそのとき教わったの。シンプルだけど焦がさないように注意深く焼き加減と火加減を見たり奥が深かったわ。それで最初の頃は凄く焦がしてしまって。でもね、失敗したものは食べなくても良いって言うのに玲那斗ったらいつも全部残さず食べるのよ。私が作ったものだからって。」

「それで、 “腕を上げた” か。なるほどな。ある意味では玲那斗が料理の師匠というわけだ。」先の玲那斗の言葉の真意を知ったジョシュアは感心した様子で彼を見た。

 当の本人はやはり黙々とサンドイッチを頬張っている最中だ。

「そうね、今の時代の料理のことはたくさん教えてもらったわ。貴族の嗜みということで料理もお母様から習っていたのだけれど、そのときも私は覚えが悪くってね。みんなと比べて人並みに上達するまでとても時間がかかってしまって。」昔を懐かしむようにイベリスが言う。

「みんな、か。リナリアにはレナトとイベリスの他にも、例の大司教様やアイリスちゃん達もいたんだっけ。」チキンサンドに舌鼓を打ちながらルーカスが言った。

「例の、ね。」ある1人についてよほど警戒しているのか、彼の言い回しにイベリスは微笑みながら言う。

「ロザリーやアイリスはとても飲み込みが早くて上達も早いって聞いていたわ。ロザリーは基本に忠実なタイプで、アイリスは色々と大胆で豪快だったと聞いたけれど。」

「へぇ…あの司教様がねぇ…」訝しげな顔でルーカスは言う。

「大胆か。なるほど。」アイリスの下りを聞いた玲那斗はミクロネシアで出会った彼女を思い出しながら1人で納得した様子を見せた。

「それと、私達の中で飛び抜けて料理やお裁縫が上手だった子が1人。マリアという子がいるの。私の親友よ。綺麗な金色の髪と宝石のように美しい赤い瞳を持つ子だった。家庭的で優しくて、勉強もよく出来たし、人を惹きつける不思議な魅力を持っていたわね。今の時代だとカリスマというのかしら?私よりよほど非の打ちどころがなかったし、天才というのはきっと彼女のようなタイプを言うのだと思う。マリアはアイリスとも凄く仲が良かったわ。」


 イベリスの話を聞いていた玲那斗は、 “マリア” という名前が出た時に妙に心の奥底で引っかかるものを感じた。その名前を聞いた瞬間、とても深く脈打つような激しい動悸を感じたのだ。

 理由は定かではないが、彼女の親友であったという以上に何か自分とも深い関りがあったのかもしれないと感じられるほどに。


「そして料理が得意だった子と言えばアルビジア。物腰が柔らかくてふわっとした感じの子。いつもぼぅっとした様子で遠くを見つめていたわ。森の木々や植物や海といった自然が大好きだって話したことがある。最後の1人、アンジェリカについてだけは交流がまったくといっていいほど無かったからよく知らないのだけれど。」

「アンジェリカ…対象A。あのピンク色の髪をしたツインテールの子か。ミクロネシア連邦で一瞬だけ姿を見たが。」ジョシュアが言う。

 およそ半年前の調査の件を全員が想起した。そのときの事件以降、機構内で彼女のデータがプロヴィデンスのデータベースに登録されており、特殊な閲覧権限を持つ者のみがデータ照会出来るようになっている。

 その登録名が〈対象A〉という濁した表記となっているのだ。

「機構では彼女をそう呼ぶけれど、対象Aという呼称は私は好きでは無いわ。」

「呼び方については同感だ。好ましい表現だとは思わない。だが危険人物であるという認識も忘れてはならない。俺達にとっては出来れば邂逅を避けたい人物でもあると思う。」

 イベリスとジョシュアの会話の最中、少し下がり気味になった空気を察したルーカスが咄嗟に話題を逸らして言う。

「そうだ、イベリス。リナリアの郷土料理って何かあるのか?よく食べていたものとか。」

「え、あぁ、そうね。お肉やお魚の料理が多かったかしら。ハーブで臭みを消して煮込んだりして。スープには豆と野菜もたくさん入っていたわ。」

「へぇ。どの国でも貴族の食卓には土から採れる野菜はほとんど並ばなかったと文献では見たが。」ルーカスは興味津々と言った様子で聞く。

「私達は王室や貴族とはいえ、他国とは少し事情が異なっていたの。島国で資源は限られていたし。きっと良い品を贈って頂いたりはしていたのだけれど、国を作る為には国民と共に進むべきだという昔ながらの伝統があったから。食卓に並ぶものについて、お肉を除けば国民の食事と大きすぎる差はなかったと思う。今の時代では簡単に手に入る調味料や香辛料もほとんどなかったし。」

 イベリスはリナリアでの生活のことを丁寧に、また時折懐かしむように3人へ話す。

 当時を生きた人物のそのままの記憶ということもあって3人は皆一様に前のめりになりながら話を聞いた。

 なんとなく記憶の中に心当たりのある玲那斗だけは、彼女と一緒に懐かしい気持ちを感じながら。

 イベリスのサンドイッチと紅茶、そして昔話を楽しみながら、こうして彼らの穏やかな昼食の時間は過ぎていった。


                   *


 1時間後。昼食後の休憩もしっかりととった4人が午後の調査についての工程を打ち合わせている最中、ふとジョシュアの目にある人物が飛び込んできた。

 およそ100メートルほど離れた位置に1人の少女が佇んでいる姿が見える。太陽の光を反射して淡く緑色に移り変わる特徴的な髪をもつ少女は、昨日マーケットの駐車場で遭遇したあの少女に違いない。

「あの子は、確か昨日マーケットで出会った子だったか。」車外に佇む彼女を見ながらジョシュアは言った。

「そうですね。特徴的な髪色をしていましたし、おそらく間違いないかと。あれ?イベリス?」ルーカスが返事をしつつ振り返ると、つい先程まで目の前にいたはずのイベリスの姿は忽然と消えていた。

「あ、あそこです。彼女に近づいています。」誰よりも早くイベリスの姿を見つけた玲那斗が言う。

 指差した方向には、荒野に佇む少女へゆっくりと歩み寄っていくイベリスの姿があった。


                 * * *


 この季節は冬ほどの曇り空が続くわけではないが、太陽の光がこれだけ明るく降り注ぐのも珍しい。

 春の訪れを祝福するように明るく大地を照らす柔らかな光。晴天のおかげで、まだ肌寒さの残る気温も幾分か過ごしやすく感じられる。

 アルビジアはいつもと同じように国立自然保護区へ訪れ、気付けばまたいつもと変わらぬ場所で立ち尽くしていた。


 視線の先にあるのはセルフェイス財団が管理する特別管理区域。 “緑の神” と呼ばれる新型の農業薬品の運用試験が行われているとされる場所だ。

 決して見過ごすことは出来ない。生きとし生けるものから魂を取り上げ、偽りで満ちた命無き自然に人の手で作り替えるなど、地球と動物を育んだ大自然に対する冒涜と言えるだろう。

 そのような複雑な思いを抱きながらアルビジアが管理区域をじっと見つめていると、ふいに後ろからキャンディのような甘い香りが伝わってくるのが感じられた。

 さらに、それを知覚した瞬間に美しい少女の声が聞こえてきた。

「こんにちは。また会ったわね。」

 その場から動くこと無く、声の主のいる方向へ視線だけを送る。やがて声の主である彼女は自分の隣まで歩み寄って並んだ。

 長い白銀の髪が美しい少女。昨日のマーケットの駐車場では気付かない振りをしたが、自分はこの少女のことを深く知っている。

 その容姿、名前、出身…迎えた末路。彼女がどんな存在でどんな立場にいた人物なのかも。

 昨日会った際にとても驚いた表情を浮かべていたことから、きっと彼女も自分のことが誰なのかすぐに理解したのだろう。どれだけ時が流れようとも互いの記憶からお互いが消えることは無かったわけだ。

 まさかこの地で彼女と再会することになろうとは夢にも思わなかった。再び巡り合えたことについては、正直に言えば少し嬉しくもある。しかし、だからといって深く関わり合うべきではないだろう。全て昔とは違うのだ。

 僅かに彼女に向けた視線を特別管理区域へと再び向け直す。

 そんな自分の様子を気にすることも無く、隣で微笑む少女は再び話し掛けてくる。

「今日はとても良い日和ね。少し肌寒いけれど、風が心地よくて、私が昔いた故郷を思い出すわ。」

 彼女が紡ぐ言葉に耳は傾けるが、反応はしない。

「私のいた故郷は自然が豊かなところだった。春になれば美しい花が咲き誇って、風に揺れる草木のさざめきが心地よくて。海がよく見える丘で遠くを眺めているだけで幸せな気持ちになった。夜になれば星の煌めきが美しくて、何時間でも眺めていられたわ。あの自然は温かくて、そこにいる私達を包み込んでくれるようだった。…でも、ここは違う。」

 そこまで聞いてアルビジアはようやく彼女の方へ顔を向けた。

 彼女は先程まで自分が見据えていた場所と同じ方角へ悲しそうな視線を向けて言った。

「この大地からは声が聞こえない。とても静かで、寂しくて。まるで眠りに堕ちたかのよう。それも二度と目覚めることのない永遠の眠りに。」

 目の前の景色を寂しいと言った彼女は、千年前と何一つ変わらない美しさのままである。荒れ果てた荒野に咲く一輪の花のように眩い。

 そんな彼女の言葉を聞いて、ただ一言だけ返事をする。「そうね。」

 すると彼女は、ようやく反応を示した自分の方へ視線を向けて嬉しそうに微笑んだ。

「ここにはよく来るの?」彼女は言う。

「えぇ、そうね。」先程と同じ返事をする。

「そうなのね。」

「そうよ。」

 同じ言葉を幾度となく繰り返す。会話として成立しているのかしていないのか怪しい所ではあるが、彼女は自分の言いたいことや思っていることを何となく理解したらしい。それ以上深く質問することは無かった。

 代わりに後ろを振り向きながら言う。

「私はね、今仲間と一緒にこの辺りの自然について調べに来ているの。豊かな自然を人の手で取り戻せるようにする未来の為に。」

「仲間…?」

 アルビジアも後ろを振り返り、彼女が視線を送る先を見つめる。

 彼女の視線の先には1台の車と、その近くでこちらを見つめる3人の男性の姿があった。その内の1人には心当たりがある。今自分のすぐ傍にいる少女と同じように、遠い昔から自分のことを知っている人物の気配がある。

 まったく違うように見える容姿だってよく見れば “彼と” ほとんど同じだ。

「えぇ、貴女も昨日会った人達よ。あそこにいるみんなが私の仲間。大切な人。この後も付近を色々と調べて回る予定なの。そろそろ戻らなきゃ。」

 そう言ってにこりと笑顔を残し、彼女は3人の元へと歩き出す。だが、その直前にもう一度自分の方を向いて言った。

「貴女とは、もっとゆっくりお話してみたいわ。もう一度会うことがあったら一緒にお話ししましょう?」

「えぇ、そうね。」何度目になるか分からない同じ返事をする。

「約束よ?じゃぁね。」

 素っ気ない返事を気にすることも無く弾けるような笑顔で手を振った彼女は車で待つ彼らの方へ小走りで戻っていった。


 アルビジアは再び特別管理区域へと振り返り、遠くのフェンスを見据える。

 豊かな自然を人の手で取り戻せるようにする未来の為…

 実に彼女らしい言葉だ。いつだって前向きで、真っすぐに未来に目を向けられる彼女らしい言葉。

 しかし、きっと自分は彼女と同じようにこの世界を考えることは出来ない。それに、遥か先の未来ではなく、今目の前に広がる悪意を取り除かなければならないのだ。

 “あれ” はただ息絶えた自然というわけではない。その場に長く留まれば、周辺に広がる大地まで死に至らしめる猛毒である。

 長い歴史を積み重ねてきた人間が辿り着いた、傲慢という名の叡智の毒そのものなのだから。



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